2016年7月24日 礼拝説教要旨

 もう泣かなくともよい

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第7章11-17節

主題聖句:「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」

                    ルカによる福音書7章13節

 

 

今日は、ナインという町に住むやもめに注目します。ある日、主イエスと弟子たち一行がナインの町の門に近づかれたとき、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、その棺が担ぎ出されるところでした。

 

主イエスは、その母親をご覧になりました。その時、主イエスは、この母親の悲しむ姿と共に、彼女の心の苦しみをも見られたのです。先に夫に先立たれ、残された一人息子も死んでしまい、一人ぼっちになってしまい、女一人でどう生活していくべきか途方に暮れていました。こんな状況の母親に町の人たちは、じっと寄り添っていました。

 

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。深い悲しみが母親を支配しています。主イエスはじっと彼女を深く憐れまれたのです。「憐れむ」という言葉は、はらわたがよじれるほどに深く同情するという意味です。その思いをもって、もう泣かなくともよいと語られました。今悲しみで一杯でしょうが、もう泣き続けなくてもよいです。主イエスは深い同情心を示されただけでなく、その悲しみを担ってくださいました。近づいて、棺に触れられると、死んでいた息子に「起きなさい」と声をかけ、息子を母親にお返しになったのです。死んでいた息子を生き返らせて返されました。このような驚くべき御業を救い主イエスが行われたのです。主イエスは私たちのために十字架で死なれ死より復活されましたから、いのちの恵みを下さいます。

 

2016年7月17日 礼拝説教要旨

 ただ、お言葉を下さい

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第7章1-10節

 

主題聖句:「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」

                    ルカによる福音書7章7節

 

 

今日は、百人隊長の信仰に注目します。カファルナウムの町に主イエスが入られたと聞いて、百人隊長は、自分の部下の重い病気の問題の解決を主イエスにお願いしました。

 

その願いを主イエスは引き受けて、百人隊長の家に向かわれたのですが、彼は自分の家にお迎えするのを断りました。自分は非常に小さな者ゆえ、偉大な方を自分の家に迎える資格はないと思ったからでした。それで、彼は主イエスに「ひと言おっしゃってください」と願いました。

 

この申し出に、彼の信仰が表されています。主イエスが、わざわざ自分の家に来られて、病気に苦しむ部下の枕元で、直接その体に触れていただかなくても、主イエスから権威に満ちた御言葉を与えていただくならば、その言葉によって自分の僕は癒されるとの信仰の表明をしているのです。それは、彼が主イエスは権威に満ちたお方であり、その語られる言葉に権威と力があるゆえに、御業がなされると信じたからです。

 

なぜそんなことを彼は信じたのでしょうか。その理由は、百人隊長自身、王から授けられた権威を持つゆえに、部下に命令すれば部下は従うということを経験していたからです。しかも主イエスの持つ権威は自分よりはるかに大きいと認めたからです。私たちも百人隊長の信じたように、主イエスの言葉に権威があると信じてお願いしてみましょう。

 

2016年7月10日 礼拝説教要旨

罪人を招くイエス

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第2章13-17節

 

主題聖句:「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

                  マルコによる福音書2章17節

 

  自分が健康なときには、医者が必要だとは思いません。しかし、医者を必要とする時があります。自分が病気であると自覚する時です。自分が病気と知ったら、病気を直してもらいたくて医者を求めます。

 

しかし、私たちは自分の健康に敏感ではありません。自分が病気の症状があっても、どんなにしんどくても、病気と気づかず、医者を必要と思わないところがあります。

 

それと同じように、私たちは、霊的な病気と言われる、自分の罪に気づいていないのではないでしょうか。私たちを愛し、導いて下さる神から離れてしまい、自分勝手な生き方をしていることに気づいていないのではないでしょうか。罪深い症状があったとしても、自分は問題ないと思ってしまうことがあるのではないでしょうか。自分の問題に気づかないために、自分の魂の医者、すなわち、救い主キリストが必要だということも気づいていないことがあるのではないしょうか。実は、主イエスを知らなかった時の、私たちはそんな状態にあったものです。

 

主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。主イエスが来られたのは、自分が正しい、汚れていないと思っている人を救うためではなく、自分は、罪があると思っている人を見つけ出して救うために来て下さったのです。

 

2016年7月3日 礼拝説教要旨

罪は赦される

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第2章1-12節

主題聖句:「イエスはその人の信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦さ

れる』と言われた。」         

マルコによる福音書2章5節

 

 

  今日は中風の人に注目します。この人は中風のため腕や脚が麻痺して自分で体を動かすことが出来なくなっていて、生活に様々な支障があったようです。その様子を見かねた友人たちは、あるとき、この人を寝床に載せたまま主イエスのもとに連れて来ました。

 

ところが、主イエスのおられる家は人々で戸口まですきまのないほどになっていて、主イエスに近づくことができませんでした。でも、彼らはあきらめません。主イエスのおられる家の屋根をはがして穴をあけ、病人をつり降ろしたのです。このなりふり構わぬ熱心さをご覧になった主イエスは、彼らの行動を「彼らの信仰」と認められたのです。彼らのように、何としてでも主イエスにお会いしたいと願い求める人の態度を主イエスは「信仰」と受け止めてくださるのです。

 

そのとき、主イエスは驚くべき言葉を言われました。この中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われたのです。

 

では、主イエスはなぜ、「あなたの罪は」と言われたのでしょうか。それは、病気以上に、人の苦しみの一番大きな原因は、罪から来るものだと知っておられたからではないでしょうか。罪が人と人との交わりを

 

駄目にしてしまう。しかし、主イエスが、罪のことを言われた最大の理由は、主イエスが罪を赦すことの出来る方だからです。主イエスは、地上で罪を赦す権威をお持ちの方だからです。あなたの罪は赦されるからです。

 

2016年6月26日 礼拝説教要旨

深き憐れみ

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第1章40-45節

主題聖句:「イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」 

マルコによる福音書1章41、42節

 

 

 今日は、重い皮膚病を患っていた人が、主イエスに自分の病気の清めをお願いして、清めていただいた出来事から、主イエスの御業を学びます。

 

彼の抱えていた病気は、重い皮膚病でした。体の皮膚の腫物、湿疹などの皮膚の疾患でした。当時、この病気の治療法がなくて、直るまで人々から離れて独りで住まなければなりませんでした。そのために、このような病気にかかった人は病気の苦しみや悲しみを抱えるだけでなく、仲間から隔離され、差別や軽蔑を受け、大変な悲惨な生活を強いられていたのです。

 

彼は、主イエスが近くに来られたことを知って、主イエスのところに行き、ひざまずいて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」とひたすらお願いしたのです。ひざまずくという謙虚な態度ですが、主イエスがお望みになるならば、この私を必ず清めてくださると信じますと、堅く信じて願っているのです。

 

このひたすらな願いを聞かれた主イエスは深く憐れんで、手を指し伸べてその人に触れ」られました。「深く憐れんで」と訳される言葉は、はらわたのよじれるようなとも訳される言葉です。主イエスはこの人の苦しみに、ご自分の内臓が震えるような、痛みを感じるような憐れみを抱いて下さったのです。その愛と憐れみのゆえに、手を差し伸べてその人に触れてその人の痛みすら感じ取って、「わたしの心だ。清くなれ」と言って癒し、清めてくださいました。主イエス・キリストは、今も私たちの抱える罪のための苦しみをも、深い憐れみをもって清め癒してくださるお方なのです。

 

2016年6月19日 礼拝説教要旨

 生きた水

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第4章3-26節

 主題聖句:わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」 

ヨハネによる福音書4章14節

 

 

 今日の箇所に出てくる人は、心の渇いた一人の女性です。彼女は誰もいない時間を見計らって、暑い真昼間に井戸に水を汲みにきたところ、そこに旅の疲れを覚えて、井戸のそばで休んでおられた主イエスがいました。

 

主イエスはサマリヤの女性に、何のためらいもなく、「水を飲ませてください」と頼んだので、彼女の方が驚いてしまいました。当時ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからです。でも、主イエスは、彼女に、このわたしがどういうものかを知ったら、あなたの方からその人に頼み、生きた水を受けるだろうと言われたので、彼女は、その水を下さいと求めました。

 

彼女は、その水は井戸からくみ出す水だろうと思いました。しかし、主イエスが与えようとされる水は、神様のいのちと愛です。神様のいのちと愛を受ける時、私たちのうちに泉のように流れ出して生きたものとするのです。

 

彼女が、その水を求め始めたとき、突然、主イエスは、彼女の個人的な生活の傷に触れられたのです。彼女が心傷つき、愛に飢え渇いていたことを主イエスは言い当てられたのです。

 

このとき、彼女は、主イエスに、どこに行ったら礼拝できるかを尋ねます。それは、彼女が礼拝を捧げたいと思ったことは、自分の傷ついた現実の問題を、神様の前に持ち出して、きよめていただきたいと思い、神を礼拝しなければならないと願ったのではないか。真の礼拝がどこで与えられるのか。それに対して、どこであろうと神の与えられる霊と真理をもって父を礼拝する時、いのちと愛に満ちた神との交わりができるようになると語られた。

 

2016年6月12日 礼拝説教要旨

 子供のように

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章13-16節

 

主題聖句:「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

マルコによる福音書10章14節

 

主イエスの時代、一般の慣習として、著名なラビ(律法の教師)のもとに、親たちは、子供を連れて行って祝福を求めました。先生が、その子の頭に手を置いて祝福を祈ったのです。そのように、主イエスから祝福を頂こうとして、親たちが、自分の子供を主イエスのみもとに連れて来たのです。共に祝福にあずかろうとしたのです。

 

ところが、主イエスの弟子たちは、そのように主イエスに近づこうとする子供たちとその親たちを叱ったというのです。これ以上、主イエスに余分の苦労をさせないようにと、師に対する弟子の配慮であったのです。しかし、主イエスは、子供たちをご自分のところに近づかないようにしている弟子たちの姿をご覧になって、憤られたのです。

 

なぜ憤られたのでしょう。主イエスが、子どもを心から愛し、受け入れてくださるお方だからです。無力な者、無きに等しい者を選ばれる神様だからです。祝福を求めて近づくこの子供たちこそ神の国に入るべきだというのです。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。それは、子供は自分では生きていけないほどに小さい存在であり、神さまの愛なくしては生きていけないほどに弱い存在であるからです。私たちも、子供のように神様の愛を受け入れましょう。

 

2016年6月5日 礼拝説教要旨

新たに生まれる

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第3章1-15節

 

主題聖句:「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とに

よって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

ヨハネによる福音書3章5節

 

ある夜、ファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員であったニコデモがイエスを訪ねて来ました。主イエスのなさっていることは、神からの不思議な力を受けておられる教師であるからだと認め、自分もそのようになりたいと求めてきたのです。

 

主イエスの答えは、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」というもので、ニコデモには不思議な言葉でした。彼は「新たに」の意味を、もう一度生まれることかと考えました。すると主イエスは、さらに説明されました。「人は水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

 

主イエスの言われた「新たに生まれる」という意味は、人生を一からやり直すことや、母親の胎内に入り直すことでもないのです。水と霊とによって生まれることです。神の霊によって生まれることです。

 

神の霊は、風のように目に見えませんが、この霊が私たちに働きかけてくださるのです。この神の見えない御力によって生かされるのです。風の様に私たちに吹き込んで、私たちを生かし、いのちを与えて下さる。

 

人間は神によって生かされているのであるが、神と私たちとの交わりが切れてしまっていないだろうか。霊的な枯渇状態になっていないか。主イエスはニコデモに、あなたは霊的に渇いているよ、そのままにしておかないで、御霊によって新らたに生きるべきだと教え、救いの道に導かれたのです。

2016年5月29日 礼拝説教要旨

主題聖句:「あなたがたの中で善き業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。

フィリピの信徒への手紙1章6節

 

 

2016年度教会年報の「2016年度の計画―目標」の原稿を書くように求められ、これまでの教会年報や役員会議事録などを読むうちに、松山協同キリスト教会の多くのすばらしさが見えてきました。約百年の長い歴史の中、色んな事があった中にも、皆さんの熱い信仰と忠実な奉仕があって、礼拝がささげられ、伝道の働きが続けられてきたことが分かりました。そういう善い働きがあったことを思った時、私の心に示された御言葉が、上記の言葉です。

 

この御言葉は、牢獄に捕らえられて苦しむ使徒パウロが、フィリピの教会に宛てた手紙の一部です。パウロは、フィリピの教会のこれまでの歩みを覚えて、神様に感謝をささげています。その上で、これからの歩みについて語っているところです。フィリピの教会の人々の中で始められた「善き業」とは、キリストによって与えられる救い、福音のことです。「善き」業ということは、自分にとって本当にありがたい善いものであるということです。

 

善き業の始まりはパウロが御言葉を伝え、人々がそれを素直に受け入れたことから始まったのですが、彼らが信仰を持つように導かれたのは、神様です。神様がそのように導かれたのです。神が始められたからこそ、その善き業の歩みは、キリスト・イエスの日、すなわち、終りの救いの時までに、必要なこと一切を神が成し遂げてくださる。これが、パウロの確信です。そして、私たちの確信となりうることです。善き業をお始めになった方は、決して中途半端で投げ出されない、真実な神様です。真実な神に導かれて進もう。

2016年5月22日 礼拝説教要旨

 託された使命

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第28章1-10節

 

主題聖句:「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」

マタイによる福音書28章19節

 

 

私たちは置かれている場所で、何らかの使命を託されて励んでいます。その使命の中で大切なものが、神様から主イエス・キリストを通して託されている使命ではないでしょうか。その使命はどんなことでしょうか。

 

今日マタイ28:16以下に、主イエスが天の父のみもとに帰る時が近づいた時に、地上に残していく弟子たちに託された使命に注目しましょう。

 

まず主イエスは、弟子たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と語られました。十字架にかかられ、三日目に死人の中からよみがえられたことにおいて、神から大いなる権能を授けられた主イエスが、弟子たちと私たちに大切な使命を託されるのです。

 

その使命とは、外に出かけて行って、人々を主イエスの弟子にしなさいということです。私自身が主イエスの弟子となるためには、まず主イエスがどのようなお方かを知っていなければなりません。この主イエスが真の救い主であり、私たちを救って下さったお方だからです。よくわかった上で、自分の喜びとして、自分を救ってくださった主イエスを伝えなさいということです。

 

主イエスの弟子となることは、主イエスの正式な生徒となることです。主イエスとの信頼関係に入っていくことです。それは洗礼によって始まります。洗礼を受けて主イエスの弟子としての生活が始まります。主は共にいてくださいます。主をよく知り、主をお伝えしていきましょう。