2021年8月1日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.31 清く正しく生きる

      

しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

              マタイによる福音書第5章28節

 

「姦淫してはならない」。これはモーセの十戒の一つですが、私たちはこの戒めをどう受け止めているでしょうか。結婚している者は配偶者以外の異性と性的関係を持つことを、浮気、不倫と呼び、世の中の人は、よくあることと思っているのではないかと思います。でも、主イエスは、上記の言葉を語られ、まことに厳しくいましめておられます。

 

この言葉は、心を問題にしています。心の中で情欲を持って他人の妻をじっと見るならば、すでに心の中でその女を犯したのですというのです。情欲をもって相手を自分のものにしようとすることは、もうすでに姦淫の罪を犯したのだというのです。自分はそのようにはならないということは誰にも言えません。誰もがこの誘惑・欲望から免れないからです。しかも、このように相手を情欲を持って見てしまうことは、魅力的で、すーっと心の中に入って魅了してしまうものです。

 

「姦淫」の問題は、神が私たちに与えられている結婚の誓いを破ってしまうことです。結婚の関係を重んじ、夫が妻を愛し、妻が夫を愛することが大切です。これを破ろうとする誘惑は、心の中から出てきます。ですから、この自分をつまずかせてくるものに対して、断固として退けなければなりません。

2021年7月25日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.30 腹を立てるな 
         
 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受け
る。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。    
                                   マタイによる福音書第5章22節

 主イエスは、御自分が来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためであると語られました。それは、律法をお与えになった神が、どんな思いで律法をお与えになったかを、ご自分が人々に正しく知らせられたからです。それで、主イエスは律法の本来の意味を、ご自分の言葉で明らかにしていかれたのです。

その一つが、今日の箇所です。当時のユダヤ人たちは、昔の時代から「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と教えられていました。「人を殺してはならない」という戒めは当然守るべき戒めだとわきまえていました。もし人を殺すならば、裁きを受けることは当然だとわかっていました。

「しかし、わたしは言っておく」と新しい言葉で語り直されました。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」。殺さなくても兄弟に心の中で腹を立てるならば、その人は神から裁かれるのです。でも実際、世の中のひどいことや身近なことにも、腹を立てることがしばしば起こっています。でも兄弟に腹を立てて、兄弟を「愚か者」と非難するなら神から裁きを受けると主イエスは言われます。こう語られる主イエスが、腹を立てる私たちを責められるだけでなく、私たちを救い出そうとしておられるお方だから、こう語られるのです。

2021年7月18日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.29 律法を完成されるキリスト             

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならな

い。廃止するためではなく、完成するためである。   

                 マタイによる福音書第5章17節

 

当時のユダヤ人たちは、律法が神の御心をあらわすものであって、神に喜ばれるために、神の望んでおられるこの律法を全力で守らなければならないと思い、生きようとしていました。

 

しかし、主イエスの語られた言葉、なさった行動は、律法から自由なふるまいで、律法を廃止しようとしているかのように思われました。主イエスは、ユダヤ人たちが付き合いを避けている律法を守らない罪人や遊女と平気で交わり食事をなさっていたからです。ユダヤ人たちが重んじていた安息日規定を、主イエスは無視して、安息日に病気にかかっている人をいやすわざをなさいました。主イエスは律法を守らなくても良いと教えていると、人々から思われたようです。

 

そこで、主イエスは、御自分が来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためであると、はっきりと語られたのです。主イエスご自身、神の御心である律法を完全に守り、律法が人のうちで生きることができるようになさいました。実は、人間はその罪のゆえに律法を守ることができません。そこで、主イエスは、律法を完全に守りつつ、人間を罪から救い出すために、人間の負うべき裁きを背負ってくださったのです。律法の要求するところを完全に満たしてくださったのです。主イエスの救いによって信仰により律法に従うことができる。

2021年7月11日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.28 世の光              

 「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」                  マタイによる福音書第5章14節

 

この言葉は、主イエスが弟子たちに言われた言葉です。主イエスを信じる

私たちへの言葉でもあります。主イエスは、弟子たちを、主イエスを信じる私たちを、この世においてそのような存在であると見ていてくださるのです。そう言われても、自分では、とても自分が世の光とは思えないのですが、主イエスは、主イエスを信じる私たちをそのままで、世の光であると見ておられるのです。「あなたがたは、この世界の中で、光の存在である」というのです。

主イエスがこう言われるのには、前提があります。主イエスご自身が、世の光である、まことの光として世界の人々を照らし、人々に命の光を与えてくださるお方であるということです。(ヨハネによる福音書8章12節)主イエスの光を頂くとき、私たちに光が与えられ、光輝いて歩めるのです。

主イエスが「あなたがたは世の光である」という光とは、どのような役目を持つ光なのでしょうか。一つは、光が隠れないで輝くことで、周りから見ることができ、その光の存在によって周りを生かすのです。ですから、私たちの持つ光は小さな存在でありますが、主イエスから頂く光を受けて、喜びを持って生きる時、周りの人も生かされるのです。また一つは、光り輝くことで、暗闇が照らされ、家の中のすべても照らされるのです。光照らされるとき、その光に照らされて、安心して過ごすことができます。

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」 月が、太陽の光を受けて光輝いています。私たちも受けた主イエスの恵みを感謝して輝いて歩もう。

2021年7月4日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.27 地の塩              

 「あなたがたは地の塩である。」   マタイによる福音書第5章13節

 

 

この言葉は、主イエスが弟子たちに言われた言葉です。主イエスを信じる私たちへの言葉でもあります。主イエスを信じる者が、この世においてどんな存在であるのかが、教えられています。

ここで、地の塩になれと命じられているのではありません。もうすでに、あなたがたは、主イエスを信じているそのままで地の塩であると言われているのです。私たちの存在そのものが、地の塩の役目を持っているというのです。

「塩」は腐敗を防ぎます。冷蔵庫のなかった時代の有力な防腐剤は塩でした。これがないと食べ物はたちまち腐ったのです。

世の中には、悪や罪に対してルーズで腐敗してしまう現実が起こりやすいです。その現実の中で、神を知って神の義を求めている私たちには、この世は住みにくいだけでなく、その危機を感じ見守って祈っています。それだけでなく、日常の生活の中にも、自分の中に罪や悪が入り込みやすいので、罪に気づいたときには、悔い改めて神に立ち返るべきです。

「塩」の役目は味付けです。食材に塩味が加わると、味が引き立ち、おいしくなります。私たちの生活の中で、私たちは濃く目立つ味ではないのですが、自分のことだけでなく、人を愛し、親切にして、その人を信じてあげることで、人生を楽しむことができます。そういう目立たない愛をもって過ごしています。このような塩としての役目を私たちは、もうすでに頂いているのです。そうできるように、塩気のもとである神の愛、神様から愛されて赦されている恵みを、心の中に与えられているのではないでしょうか。

2021年6月27日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.26 信仰に生きる喜び              

 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。                  マタイによる福音書第5章10節

 

主イエスは、マタイ5:3~12で「御国から見た幸いな人」として、8つの幸いを語られ、今日は8番目の幸いです。 「義のために迫害される人」と聞くと、私たちの思いとしては、正しいことをして努力している人が迫害に会うのはおかしいと思います。しかも、正しいことのために苦しむなんて理解できないと思います。この言葉は、おかしな言葉なのでしょうか。

主イエスが、この言葉を語っている相手は、目の前に集まっている弟子たちや群衆です。彼らは、主イエスをもっと知りたい、教えられ信じたいと思っているごく普通の人たちです。そんな彼らに向かって、このような「義のために迫害される」ことが起こることがあるが、祝福される、と教えておられるのです。

テモテへの手紙第二3章12節に「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」とあり、この言葉にあるように、主イエスに信頼し、このお方に従っていこうとしたら、当然迫害を受けることを覚悟しなければならないというのです。なぜかというと、私たちが、この世から救い出されてキリストに似た者として生きるからです。私たちがキリストに見習って神の御心を第一にして神との正しい関係に生きようとするならば、周りから付き合いにくい者、違う者として避けられてしまうからです。そのような状態になって苦しむことがあっても、その苦しみの中で祝福があるのです。「天の国はその人たちのもの」、神様が共におられてしっかりと守ってくださるのです。自分を救ってくださるキリストのために自分も共に苦しむ喜びがあるのです。

2021年6月20日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.25 祝福の言葉              

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」

マタイによる福音書第5章7節

 

「憐み深い人々」とは、他人が困って苦しんでいるのを見て、憐れんで助け

てあげる人のことでしょう。そのような同情に満ちた愛の行動を、私たちはできるでしょうか。なかなかできないのではないでしょうか。

では、主イエスは、この言葉を、どのような意味で語っておられるのかを思うと、この「憐み深い」「憐み」は、神の憐みであることに気づかされます。神の憐みは、神の人間に対して与えられた契約に基づいて変わらない真実な愛です。その契約を神は真実に人間にあらわされるのですが、人間はそれに従わず、背き続けてきました。なおも神は憐み続け、神の義を貫かれました。私たちを裁かれないように、私たちの代わりに神の御子を十字架につけて私たちの罪の贖いをして、私たちを救われました。

 

ですから、主イエスが、「憐み深い人々」と語られるとき、人間の間だけの憐み深さ、思いやりの行動ではないのです。神の憐みの中に自分が生かされていることを覚えるべきです。そのことを、マタイ18章21節以下の主イエスのたとえ話は教えています。一万タラントもの大金を自分の主人に借りて返却しないしもべが、主人に猶予をお願いしたとき、主人は、彼を憐み、その負債を免じてくれたのです。しかし、このしもべは、自分の仲間のごくわずかの借金を責め立て赦しませんでした。このたとえは、自分が赦されたからこそ、人を赦すことができることを教えています。事実私たちはキリストの愛によって赦されています。この憐みを受けていることを覚える時憐み深い者とされるのです

2021年6月13日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.24 まことの祝福 
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
マタイによる福音書第5章5節

  「柔和」という日本語は、やさしくおとなしいさまという、どちらかというと弱弱しい響きを持っています。しかし、ギリシャ語の「プラウス」という柔和は、自分を正しく評価し、他人には心低くして仕え、悪に煩わされないで神に忠実に仕える態度を示す言葉です。しなやかだけど、したたかな強さも兼ね備えた態度です。したがって、謙遜とほとんど同じ意味です。
柔和な人物の旧約聖書における代表例は、モーセです。彼について「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」と言われています。モーセは、最も信頼する人々から非難されたこともあったが、一切弁解しませんでした。神の前に自らを低くして自分の使命を全うしました。
新約聖書では、ステファノやパウロは迫害を受ける中も、自ら謙遜にキリストを伝え続けました。柔和の本質は、主イエスご自身にあらわれています。主イエスご自身、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と、謙遜な態度で人々に教えられました。主イエスは、自ら低くして、しもべのようになり、人々を罪から救い出すために、人々の罪を自分の罪として背負い、十字架にかかって死んで贖いの業を成し遂げられました。
「(柔和な人は)地を受け継ぐ」と主イエスは言われました。詩編37編11節にその言葉があります。民が神を信頼し続けるなら神の契約に基づいて相続できるのです。神に信頼する者は神の契約の祝福を受け継ぐというのです。

2021年6月6日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.23 幸いである
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

  マタイによる福音書第5章3節

今日は、主イエスの教えられた「幸い」について学びます。
この世の多くの人々は、お金持ちになること、仕事が成功することが幸せと
思って目指し生きています。しかし、それらのどれかを得ることができたとしてもそれで本当に幸せになれるとは限りません。この世の幸せを得たとしても、本人がまだまだ不満だと思うならば、本当の幸福ではありません。逆に、本人が貧しくても苦しくても私は幸福だ、感謝だと思い、喜んで生きているなら、それは幸せなのです。
ところが、主イエスは私たちに「幸せである」と言って本人の気づかない事実を思い起こさせようとしておられます。すなわち、主イエスのいう「幸い」は、本人が知らなくても現に「幸いである」という事実なのです。祝福されている、神から恵みを受けている。そういうふうに神から恵まれているというのです。
では、そのように神から祝福を受けている人とは誰かというと、「心の貧しい人々」なのだというのです。「貧しい人」生きていく必要な物が足りない状態にある人です。「心の貧しい人」悲しみや苦しみの中に心身ともに疲れ、自分が何もないゆえにただ神の助けのみを求める人です。放蕩息子が自分に何もないと気づいたとき、父親に求めようとしたように、自分に何もないと気づき神に求めようとする者が幸いである、と主イエスは言われたのです。それは、神に頼って求めようとするその人が「天の国」神のご支配を素直に受けやすいからです。その人には神の支配がすでにあり、祝福されています。

2021年5月30日 礼拝説教要旨

聖餐にあずかる 

三好 晴夫 牧師

コリントの信徒への手紙一 第11章23-26節

             

主題聖句:主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

コリントの信徒への手紙 一  第11章23、24節

教会は、福音が純粋に教えられ、聖礼典が福音に従って正しく執り行われるところです。礼拝の中心に、説教と聖礼典(洗礼と聖餐)があるのです。それでは、聖餐がどうして重んじられなければならないのかというと、それは、主イエスが制定され、パウロも受けたことだからです。主イエスが最初に弟子たちに制定されたのは、主イエスが捕らえられ、不当な裁判にかけられ、十字架につけられる前の夜でした。主イエスはご自分に何が起こるかを知って、教えられたのが、この聖餐式です。その聖餐式の第一の意味は、主イエスを記念するために行うものということです。「わたしの記念として」つまり、主イエスを覚えることです。主イエスの十字架の死を思い起こすことです。その苦しみが私たちのためであったと思い起こすためです。

第2の意味は、私たちの罪の贖いのためであるということです。主イエスは「これは、あなたがたのためのわたしの体です」と言われました。主イエスが手で裂かれたパン切れが、十字架上で裂かれたご自身の体ですと言われたのです。それは、主イエスご自身、私たちの罪を背負ってなそうとされる十字架の贖いの業を示していました。それを私たちのためであると、信仰をもって受取りなさいというのです。