2021年10月17日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.42 試みに遭わせず

 

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

 マタイによる福音書 第6章13節

 

 私たちの罪を赦してくださいと求めた者が、「試みに遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るのは自然なことです。信仰生活は、神に喜ばれるように生きる者になることだからです。そのために、悪いことをしないような生活をしなければなりません。しかし、私たち人間は弱く、試みに遭えば、ひとたまりもなくやられてしまいます。だから、聖い生活を求めて悪から救い出してくださいと祈るのです。

ところで、「試み」とは何でしょうか。「試み」という原語には二つの意味があります。一つは、「試みる」「試練」で、信仰が育つように試す、テストするとの意味です。最初は苦しみや辛い経験があったとしても、その試練を耐え忍んでいくとき、信仰が育っていくのです。試練は必要なものとしなければなりません。  もう一つの意味は「誘惑」です。悪へと誘っていく力です。私たちは誘惑されやすく、欲に引かれて、誘われて、罪を犯します。悪の背後には、悪い者の存在があり、神から引き離そうと誘惑し、人間に罪を犯させようとします。このような誘惑から、私たちは守られるのでしょうか。悪魔の誘惑に勝利され、私たちを救い出された主イエスが私たちの試練や誘惑から救い出してくださいます。だからこそ、私たちも、この祈りをすべきなのです。 

 

2021年10月10日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.41 我らの罪をお赦しください

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

 マタイによる福音書 第6章12節

 

 私たち人間は神の前に罪ある者ですから、神に罪を赦していただかなければ、神の前に罪人のまま裁かれてしまうかもしれません。自分の力では解決できなかったのですが、神はその憐みによって私たちの罪を赦してくださったのです。それゆえ、まず自分の罪の赦しを求める祈りをささげ、自分の罪が赦していただいたという恵みによって自分に対して罪のある人を、自分も赦しますと祈っていくのです。

まず、自分の罪の赦しを求める祈りですが、その罪が「負い目」と言われています。私たちには神に対して莫大な借金のような罪があるのですが、返すことができないでいます。そのような罪の自覚が自分にはあまりありません。ある時、自分の負い目に気づかされますが、自分では償うことができません。しかし、神は憐れに思い、私たちの罪をすべて赦してくださいました。イエスの十字架のゆえに赦してくださいました。それゆえ自分の罪の赦しをお願いするのです。このように、神から自分を赦して頂いたのですから、その恵みを覚えて、自分に罪のある者が赦されるように祈り、赦していくべきなのです。神から赦されたのだからです。

 

2021年10月3日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.40 必要な糧をお与えください

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」

 マタイによる福音書 第6章11節

 

 これは、私たちの食べる物を今日与えてくださいと、父なる神に素直に願い求めている祈りの言葉です。でもどうでしょうか、私たちにはピンと来ない祈りに思っていませんか。なぜかというと、現在の私たちは、食べる物に困ることがあまりないからです。いつも身近に食べ物があります。神様にお願いしなくても、人に頼めばすぐに手に入ると思っています。ですから、この祈りは何か自分とは関係のない祈りのように思えるのかもしれません。

それでは、この祈りは、今の私たちには全く関係のない祈りなのでしょうか。今の私たちが食べ物に困っていなくても、この祈りをすべきなのだとしたら、この祈りにはどんな意味があるのでしょうか。

幸いなことに私たち神を信じる者は、食前の感謝の祈りをしています。祈って食べるようにしています。どうして感謝の祈りをするのかというと、食べ物の材料である、野菜や肉などは農家の人たちが自然の力によって育てて収穫します。人間の力で作られますが、自然の力も多くあり、自然を造り支配されるのは神であるからです。神がこれらを備えて、私たちを養ってくださると感謝して祈っているのです。

 

2021年9月26日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.39 御心が行われますように

 

「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」

 マタイによる福音書 第6章10節

 

主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」の3つ目の祈りを学びます。神様の御心が地の上にも行われますようにとあります。

「御心」とは、父なる神のご意志、神様のご計画です。それがモーセの十戒などに表されています。その戒めの中心は、神を愛しなさい、隣人を愛しなさいであると、主イエスは教えられました。この中に神様の御心を行うことがあるのです。広い意味では、私たち人間に対する神様の救いの御業です。神様は私たちが救われるように御業を進めておられるのです。その意味で、私たちは神様の御心の中に置かれているのだと信じているべきなのです。

それでは、なぜ御心が行われるように祈るべきなのでしょうか。それは、神の造られた世界に多くの人間がいてそれぞれが自己主張したら混乱が起きてしまうので、私たちを愛してくださる神様を中心に置いて秩序が保たれるのが良いからです。でも、人間は神様のお心に自分を合わせることが非常に難しいのです。この祈りを実践された主イエスは、人類の救いのために人類の罪を背負って十字架に付かれる前に、大きな苦しみがありました。神から見捨てられると言う苦しみです。その中で主イエスは自分の願いを捨てて神に従われたのです。自分を捨てて神に従われなかったら、御心は成就しなかったのです。私の内にも御心がなるために、自分を捨てて神に従うべきなのです。

2021年9月19日 礼拝説教要

きょうどう-2021年 No.38 わたしたちの本国は天にある

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。          

フィリピの信徒への手紙 第3章20節

 

このみことばは、召天者記念礼拝のご案内にいつも載せている言葉です。この言葉には、パウロの、キリストを信じる信仰に立った、心からの喜びと確信が表されていると思います。

「わたしたちの本国は天にあります。」「本国」とはその人の所属する国家です。自分たちの所属する国は、地上にではなく、天にあるとパウロは言うのです。この背景にあるのは、当時の地中海周辺の町々は、強大なローマ帝国によって守られていて、自分たちはローマによって守られているという安心感です。パウロはその理解に立って自分たちを守ってくれる国は、天にあるというのです。天には神がおられます。「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」(コロサイ3:1)。主イエス・キリストが私たちを罪から救い出すために私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださり、私たちのために死から復活されたという救いの御業のゆえに、私たちは救われて、キリストの命にあずかっているのです。

信仰の先輩の方々も、このキリストの救いを知って信仰の喜びを受けて、苦しみや試練の中でもキリストが自分を守ってくれると信じて歩まれました。救い主キリストこそ、私たちの拠りどころです。

2021年9月12日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.37 御国を来たらせたまえ

「御国が来ますように。」  マタイによる福音書 第6章10節

 

主イエスが弟子たちに「こう祈りなさい」と教えられた祈りが、今日も「主の祈り」として祈られています。その中の一つ、「御国が来ますように」の祈りに注目しましょう。

この「御国」とは、どこかに建てられる理想的な国(場所)のことではなく、神がまことの王として支配されるという神の働きそのものを示す言葉です。主イエスが宣教を始められた時、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と言われました。神が王としてこの世界を治められることが、主イエスの救い主としての働きによって始まったのです。主イエスが神の国について教えて、神の国の民となるように導かれ、神の御力によって多くの人々の病気を癒されました。「神の国は近づいた」と言われた主イエスは、すべての人に救いが与えられるように、人々を愛し、神の愛を語り、愛を示されました。神のご支配がますます大きくなり、確かなものとなるように働かれました。神のご支配は主イエスの福音が宣べ伝えられるところですでに始まっています。ですから「どうぞ、皆も私も救い、神の支配の中に導いてください」と祈りましょう。

この祈りにはもう一つの意味があります。この世にあって危機的な状況に遭遇するかもしれません。そんな中でも、神のご支配を信じて歩むことができますように。それは、主イエスが、再びお出でになり、神の国を完成し皆を救うと約束してくださっているからです。

2021年9月5日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.36 真実の祈り

 

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。                 

マタイによる福音書 第6章6節

 

 

祈りは、神の子とされた私たちが父なる神様に自分の思っていることをお話することです。父なる神は私たちが祈るのを待っておられます。ですから、遠慮しないで何でも神様にお話しすることです。

 

ですが、いざ実際に祈ろうとするとき、どのように祈ったら良いのか、戸惑うことがあります。祈りたいと思ってはいても、どういうふうに祈ったら良いのか、悩んでしまうことがあるのではないか。

 

そんなとき、主イエスがどう祈られたのか、どう祈るように教えられたのかを学ぶことが、祈りにおいて最も大切なことです。

 

今日の箇所で、主イエスは、祈る時どのような姿勢で祈るべきかを教えておられます。「祈る時にも…偽善者のようであってはならない」と。主イエスが偽善者と呼ばれた人たちは、人に見てもらおうと人の集まる会堂や大通りという目立つ場所で、人々の反応を気にしながら祈っていたのです。神に祈っているはずなのに、人々の反応を気にしながら祈ることは問題だと言われました。

 

ではどうしたらよいのでしょう。祈る時、神様とだけ独りになって祈ることです。一人静かに神に思いを集中し、神の言葉を思い、神様にお話しすることです。隠れた所におられる神が聞いて下さいます。

2021年8月29日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.35 神のみ前に生きる

 

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」    

 マタイによる福音書 第6章1節

 

マタイ6章から新しい段階に入ります。ここでは、神を信じる者が神のみ前において、全面的に神により頼んで生きることを教えています。私たちが神と共に生きていこうとするとき、この世の中にあってどういうふうに気を付けて生きていくべきかということです。

ここに「善行」とあります。これは、当時のユダヤ人の重んじていた信仰生活の具体的な行いでした。「施し」「祈り」「断食」です。この行為をしていくとき、陥りやすい問題点があるというのです。

信仰は心の中で信じることですが、必ず表に現れてきます。信仰生活の中で行いがあらわれてくることは大切なことです。今日の私たちに照らせば、礼拝を忠実に守る、献金をささげる、日毎に祈ることをしています。それらは大切なことであるがゆえに、その中で問題も起こりやすいのです。偽善になってしまいやすいので、主イエスは注意しておられます。私たちは人を意識しやすい、善行を行っているときでも、他の人の目を気にしやすい。人からの評価を期待しがちです。しかし、主イエスは、それは違うと言われます。なぜなら、神は隠れたところで見ておられる方だからです。神は私たちの心も、言葉や行いもすべて知っておられ、報いてくださいます。この神を意識しよう

2021年8月22日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.34 敵を愛しなさい

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。     マタイによる福音書 第5章44節

 

「汝の敵を愛せよ」。この言葉は、多くの人々に知られています。「隣人を愛しなさい」。この言葉もよく知られていますし、こちらは、誰もが自分にもできることと思っています。でも、どうでしょうか。自分の隣人について、どこか、自分の家族、自分の仲間、自分の身近な気心の知れた人たちだけに限定してしまっているのではないでしょうか。そういう仲間以外は、隣人ではないから、よその人として、あまり重んじないで、気にしないでいるのではないでしょうか。

 

そのように考えやすい私たちに向けて、主イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と教えておられるのではないかと思います。「敵」すなわち、自分に害を及ぼす、苦しめてくる人を愛しなさいと、主イエスは言われるのです。しかも、アガペーの愛で愛しなさいと。その人を重んじ、受け入れていくように思って行動しなさいと。具体的には、自分を迫害する者のために祈りなさいと、教えています。このようにすることは、自分の頑張りや意志だけでは大変難しいことです。

 

どうしてこうしなさいと教えられているのでしょうか。私たちに天の父がおられ、このお方が、私たちを子として愛してくださっておられるからです。このお方が善人だけでなく悪人にも太陽の光を与え、恵みの雨を与えておられるからです。天の父から愛されているのです

2021年8月15日 礼拝説教要旨

      

 きょうどう-2021年 No.33 善をもって悪に勝て

      

 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。      

マタイによる福音書第5章39節

 

「目には目を、歯には歯を」という言葉はよく知られています。この言葉の本来の意味は、レビ記24章20節を見るなら、人々がケンカをして、人に被害があれば、その傷害を加えた者はそれと同一の傷害を受けなければならないという刑罰の定めでした。被害に応じた罰が定められていて、それ以上の仕打ちを止めていたのでした。しかし、ユダヤ人指導者たちは、目がやられたら、必ず目を打つ、歯をやられたら、歯を打たなければならないと教えたのです。そのように、今日でも解釈されているのではないでしょうか。

 

これに対して、主イエスは「悪人に手向かってはならない。」と教えられました。悪人が自分に被害を加えてきたら、こちらは大変苦しんでしまいます。それなのに、悪人に手向かわないでいることが果たしてできるでしょうか。怒りや恨みを抱かず、相手に仕返しをしないでいるのは難しいことです。誰にもできないことのように思います。

 

ですが、この言葉を聞いている私たち、すなわち、神を信じ主イエスを信じている私たちには、主の憐みによってさせていただけるかもしれません。自分が神から赦していただいたと言う思いを頂いて、このことを自分で解決するのではなく、神が放っておかれない、後始末をしてくださると信じるとき、神がさせてくださるのではないか。