2023年10月1日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.40  賢く、そして素直に

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。              

マタイによる福音書 第10章16節

 

イエス・キリストが十二人の弟子たちを、伝道に遣わすにあたって様々な注意を語られたのが、マタイによる福音書10章です。今日の箇所では、いずれ教会が見舞われる迫害に対して信仰の備えをするようにと警告がなされています。教会がこの世に遣わされるときに、迫害という困難な状況が予想されるのだということが教えられています。

まず心に留めておきたいことは、「わたしはあなたがたを遣わす」と主イエスが力強く言っておられることです。弟子たちだけでなく、主イエスを信じる私たちも主イエスから、この世に遣わされた者です。主イエスの恵み、主イエスのみ言葉を頂いて、この世に共にある家族、友人たちのところにあって、主イエスの愛と平和を伝える役目を持っています。そのために、礼拝に集い、み言葉の教えを受けて強められたいと願っています。それぞれに与えられている生活の場に、送り出してくださっている主を忘れないでいたいものです。

私たちの伝道は、狼の群れの中に弱い羊が入っていくようになされていきます。主イエスの救いを伝えようとするとき、反対を受けることが起こります。だから、迫害を良く見抜いて賢く行動し、そして心を純粋にして素直に自分の信じる信仰を語ればよいと教えられています。

2023年9月17日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.38  生き生きとした希望

 神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、                 

                            ペトロの手紙 第1章3節

 

今朝、召天者記念礼拝を持っています。会堂の北側に先に天に召された信仰の先輩方のお写真が掲示されています。お写真をご覧になって、生前、一緒に過ごした日々を思い出し、懐かしく感じておられることでしょう。その方々と親しく話し合い、その声を聞きたいのですが、それは叶いません。でも、できることとして、愛する信仰の先輩方が、在りし日に、教会に行くことを大事にして過ごされたことを思い、彼らが、苦難の中にも希望を抱いて過ごされたことを覚えて、心を新たにしたいと思います。

今日の聖書箇所で著者ペトロは、神様から自分たちに生き生きとした希望が与えられたことを感謝しています。自分たちは神から離れて罪深い者であったけれども、神の豊かな憐みによって、救い出して頂いたのです。神の憐みは、神の御子イエス・キリストを私たちの罪の代わりに十字架にかけて裁かれ、死んでしまったこのお方を、神は死より復活させられたことにあらわされました。キリストの復活を自分のためと信じる者は、その復活にあずかって生きる希望を持つことができるのです。死では終わらない希望です。新しく生まれ、神と共に生きる希望です。この生きる希望を私たちも頂きたいものです。

2023年9月10日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.37  働き人を送ってください

 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

マタイによる福音書 第9章36節

 

主イエスは伝道旅行の中で、群衆の苦しんでいる状態を見ておられました。彼らの姿が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」状態であるのを見られたのです。これは当時の人々の霊的な状態でした。羊飼いのいない羊のように、人々は頼るべき方を見失い、どこに向かうべきかを迷っていたのです。

主イエスはこのような人々を見て、深く憐れまれたのです。弱り果て打ちひしがれている人たちを深く愛されたのです。主イエスは人々の内面を、心の中をご覧になり、問題を抱えている人を深く愛してくださり、彼らを神の国の教えを宣べ伝え、いやしの御業をなさいました。

主イエスは、弱り果て打ちひしがれている彼らを深く憐み、彼らを見て「収穫は多い」と言われました。主イエスの目から見て、彼らが真の羊飼いを持たないための困難が大きく、救いを必要としている人が多いのだと、言われるのです。その彼らを、神は「収穫の主」として、救いに導いてくださるのです。この神の愛を伝え、主イエスのもとに人を導く働き人が必要だと、主イエスは言われます。働き人が少ないからです。その働き人を送ってくださるように、神に祈りなさいと、主イエスは言われます。私たちは、働き人が与えられることを祈りましょう。

2023年9月3日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.36  できると信じるのか

  イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。          

                          マタイによる福音書 第9章28節

 

イエスとはどんなお方でしょうか。当時の人々は、イエスをどのように見ていたのでしょうか。

二人の盲人が、イエスが自分たちの近くを通りかかったと聞いて、大声で叫んで「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらイエスについて来たのです。周りに多くの人は取り巻いてにぎやかだったのでしょう。そんな状況で、イエスに目を留めてもらおうと大声を出して呼びかけたのです。「ダビデの子」。当時のユダヤ人はダビデ王の家系から解放者が出るとの約束を信じて現れを待っていました。この盲人たちは、イエスこそ、来るべきメシア・まことの救い主だと信じて叫んだのです。神の憐みを自分たちに注いでくださいと求めたのです。大声を出しながらイエスの後についていきました。

イエスはすぐには応えられません。イエスは何も応えられないまま、家の中に入られました。この二人はあきらめないで、イエスのそばに行きました。イエスは「わたしにできると信じるのか」と問われました。彼らに信仰を問われたのです。その問いに彼らは「はい、主よ」と答え、イエスを神の救い主と信じ、イエスが自分たちを救うことができると信じたのです。その信仰のとおりに目が見えるようになったのです。た

2023年8月27日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.35  絶望からの救い

  イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。          

マタイによる福音書 第9章16節

 

今日の箇所に登場する人物の一人は、十二年間も患って出血が続いている女性でした。マルコによる福音書5章によれば、彼女はその病気のために多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであったのでした。祭儀的に不浄とされた病気であり、ユダヤ社会から疎外されていました。

彼女はイエスのうわさを聞いて群衆の中に紛れ込み、誰にも気づかれないように、後ろからイエスの服に触れたのです。それは「この方の服に触れさせすれば治してもらえる」と思ったからです。すると、彼女は病気がいやされたと感じたのです。

同時に、イエスも、自分の内から力が出て行ったことに気づかれ、群衆を振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われて、触れた者を探し始められました。そのように探されるイエスの姿に、彼女は恐ろしくなり、進み出てすべてをありのまま打ち明けたのです。

イエスはそれを聞かれ、彼女が、自分の苦しみを救ってもらおうとイエスを本当に信じて触ったと認められ、「あなたの信仰があなたを救った」とその信仰を励まされました。私たちも、自分の苦しみから救って頂くために、イエスを信じて求めていきましょう。

2023年8月20日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.34 新しい生活

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。
                            マタイによる福音書 第9章16節

 

「わたしに従ってきなさい」との主イエスの招きに従って弟子となった人たちは、どんな生活をするようになったのでしょうか。
洗礼者ヨハネの弟子たちが、主イエスのもとに来て断食について質問しました。「ヨハネの弟子たちもユダヤ人たちもよく断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか」(14節)と。
当時のユダヤ人たちは年1回7月の贖罪日には苦行として断食をしていました。断食とは罪を自覚し神の憐みを求めてへりくだって祈ることです。しかし、いつの間にか形式化し、律法化し断食を誇り、やつれた顔をして過ごしていたのです。
主イエスはたとえを持ってお答えになりました。第一は婚礼の客のたとえです。婚礼の客は、喜びに招かれた者たちです。花婿と花嫁の婚礼を喜ぶ食事の席です。そこに連なっている間は喜ぶのが当然です。暗い顔はできません。そのように主イエスに従う者の生活は喜びの生活です。主イエスによって罪を赦され、救い出された喜びの中に生かされています。第二は、真新しい布切れと古い着物のたとえです。古い着物の継ぎ当てに、新しい布切れを当てると周囲から傷みがひどくなります。古いユダヤ教の生活を捨て、主イエスの教えによる新しい生活を行う。

2023年8月13日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.33  罪びとを招くイエス

 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」    

              マタイによる福音書 第9章13節

 

医者を必要とするのは丈夫な人ではありません。健康な人は、自分の体を医者に診察と治療をしてもらう必要はないと思っています。医者を必要とするのは、自分には病気であると気づく人です。

主イエスは、自分は大丈夫だ、身を清く保とうとして神の前に正しくあろうとしているファリサイ派の人たちこそ、霊的な医者が必要だと言われたのです。しかし、彼らファリサイ派の人たちは、自分に医者が必要だと気づいていなかったのです。なぜなら彼らは、聖書に従って聖なる者となろうとして、罪人と交わらないように努力していたからです。

主イエスは、彼らに「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」という言葉の意味を学べと言われました。これは旧約聖書ホセア書6:6の70人訳の言葉です。その意味は神に対する真実な心こそ神の御心に適うことだというのです。ファリサイ派の人々の関心は祭儀的に身を清く保つことでしたが、神の望まれるのは憐みです。主イエスはまさにその憐みを注ぐために地上に来られたのです。

自分は大丈夫、医者はいらないと言えるでしょうか。私たちには罪があり罪人です。この罪人を招き救うために主イエスは来られたのです。

2023年8月6日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.32  あなたの罪は赦される

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。

              マタイによる福音書 第9章2節

 

  人生には苦しみがつきものです。その苦しみの原因は直接には様々色々でしょうが、その根本的な原因は、人間の罪にあります。聖書は、最初の人間が罪に陥ってから、その罪の結果として人類に苦しみがあると教えています。

今日の箇所の出来事は、主イエスがガダラ人の地から湖を渡り、カファルナウムの町に帰って来られてから起こった出来事です。これと同じ出来事がマルコ、ルカにも記されていますので、他の福音書の助けを借りながら学びたいと思います。

主イエスはカファルナウムのある家で教えていました。そこには多くの人々が教えを聞こうと集まっていて家は入口まで一杯でした。そこに数人の人によって一人の中風の病人が運ばれて来ました。ところが、戸口まで一杯の人々だったのですが、彼らはあきらめずその家の屋根をはがして天井から病人を釣り降ろし主イエスの前に連れて行きました。そのなりふり構わぬ熱心さを、主イエスはご覧になり、彼らの信仰と認められました。彼らの信仰の中には中風の人の信仰も入っていたのを主イエスは見抜かれ、言われました。「あなたの罪は赦される」と。こう言われたのは主イエスが罪を赦すことのできるお方だからです。

2023年7月30日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.31  悪霊を追い出すキリスト

突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」      

              マタイによる福音書 第8章29節

 

  今日の箇所は、神の御子イエスは目に見えない霊の世界をも支配しておられるお方であることを示しています。

主イエスと弟子たちが共に舟でガリラヤ湖の向こう岸に向かい、途中嵐が襲いましたが、主イエスが静められ、ガダラ人の地方に着きました。すると、悪霊に取りつかれていた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来たのです。彼らは異常でした。非常に狂暴で、誰もその辺りの道を通れないほど暴れまわったのです。その彼らが、主イエスをみると、彼らは主イエスの本質を見抜き、恐れて叫んだのです。「神の子、かまわないでくれ」。イエスを神の子と知っていたのです。「まだその時ではないのにここに来て我々を苦しめるのか」と叫んだのです。彼らは、自分たちが世の終わりの時に滅ぼされるとわきまえていたのです。世の終わりの時を恐れていたのです。突然主イエスが現われたので、恐れ慌てているのです。

イエスを恐れ、滅ぼされたくなかった悪霊たちは「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願ったところ、イエスから「行け」と言われたので、出て行って豚の中に入りました。豚は崖を下って湖になだれ込み、死にました。悪霊をも支配される主イエスに信頼しよう。

2023年7月16日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.29  嵐を静めるキリスト

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」                   

                           マタイによる福音書 第8章26節

  イエス様を信じて歩む生活は、穏やかで順調に楽しい生活ばかりではなく、時には嵐が起こって行く手を阻み、前に進めないことが起こることがある。イエス様が共におられても嵐が襲ってくるのです。「湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。」

その嵐のために、舟の中に巻き起こる大変な状況に対して、弟子たちは何とか助かろうと必死に頑張っていたのでしょう。その中にも、イエス様は眠っておられたのです。イエス様はお疲れであったのです。そして、神の守りを信じて安心して眠っておられたのです。

しかし、弟子たちは、イエスが眠っておられるままで良いとは思いませんでした。イエス様に起きていてほしくて、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と必死にイエス様に助けを求めました。

しかし起きられたイエス様は厳しい言葉を弟子たちに語ります。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者」。イエス様は、彼らのそばにイエス様がいるのに、非常に怖がっている状態を、不信仰と思われたのです。あなたがたは、イエス様がそばにいると信じていたかと問われたのです。

イエス様は、彼らが求めていたよりももっと大きなことをなさいました。起き上がって風と湖をお叱りになると、すっかり凪になりました。