2016年5月15日 ペンテコステ礼拝説教要旨

 真理の御霊

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第2章1-12節

ヨハネによる福音書 第14章15-21節

 

主題聖句:「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」

ヨハネによる福音書14章16節

 今日は、教会の暦では、ペンテコステ、聖霊降臨日です。死人の中から復活された主イエスは、地上に残していく弟子たちに、聖霊を送ると約束されて天に上られました。それで、祈って聖霊を待ち望んでいたところ、約束通り、弟子たちにその聖霊が降ったのです。こうして、その聖霊に満たされた彼らは、確信に満ちて、大胆に主イエス・キリストを宣べ伝え始めたのです。すると、そのメッセージを聞いた人々が、心刺され、悔い改めて救われたのです。主イエスを信じる人々が起こされ、信じる者の群れが誕生しました。その信仰の群れが教会です。ですから、今日、人々を救い、教会を生み出したところの聖霊を覚えるのです。

 

この聖霊降臨日に、ヨハネによる福音書14章16節がよく読まれてきました。この言葉は、主イエスが地上を離れ去るにあたって、残していく弟子たちに与えられた約束です。主イエスは、聖霊のことを「別の弁護者」と呼び、ご自分が去った後、ご自分の代わりに、別の弁護者として聖霊が遣わされると約束されたのです。

 

この約束が現実になったのが、聖霊降臨日の出来事です。その日、弟子たちは聖霊に満たされ、神のすばらしさを大胆に伝え、教会が誕生しました。聖霊は信じる人々を励まし、信仰の歩みを導いてくださいます。

 

2016年5月8日 礼拝説教要旨

求め続ける信仰

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第15章21-28節

 

主題聖句:女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

マタイによる福音書15章27節

 

 

  主イエスがティルスとシドンの地方に行かれた時、その地方に住む一人の婦人がみもとに来ました。主イエスを救い主と知って、「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけ、自分の娘の病気の癒しを願い、「わたしをあわれんでください」と叫びました。

 

しかし、主イエスは何もお答えになりません。しばらくしてその理由を示されました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」のだとお答えになりました。救い主として、何よりもまず神の選びの民であるイスラエルを救い出すことが、ご自分の優先すべき使命だと言われたのです。

 

そう言われても、なおこの婦人はなおも必死に助けを求めました。しかし、主イエスは「子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言いました。この言葉だけを聞くと、主イエスは何と冷酷な人と思われるかもしれません。よく聞くと主イエスのユーモアと愛があります。小犬という、かわいがられているペットと呼ばれたのです。

 

これを聞いた婦人は主イエスの言葉を当然と受け入れ、自分は小犬のような小さな者ですが、神のあふれる祝福から、こぼれ落ちる祝福を頂きたいと求めたのです。このような、神の御心を受け止めつつ、へりくだった婦人の信仰を、主イエスは喜び、願いに答えてくださいました。   

2016年5月1日 礼拝説教」要旨

ザアカイの回心

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第19章1-10節

主題聖句:「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」

ルカによる福音書19章5節

 私たちは、生き甲斐のある喜びに満ちた生き方をしたいと心の中で願っています。しかし、現実には、それを妨げるものがあって、それが邪魔をして、そのような人生が送れない悩みがあります。私たちの人生の中に、このままではいけない、変えられなければならない部分があることが、もしかしたら、わたしたちが喜びに満たされることを妨げているのかもしれません。
そのために、私たちは、どうしたらよいのでしょうか。聖書は、主イエスに出会うとき、自分の人生が変えられることを教えています。

その経験をしたザアカイは、徴税人でした。当時のユダヤを支配していたローマ政府から請け負って、同じユダヤの人々から税金を取り立てていたのです。徴税人の頭で、金持ちであったということは、かなりあくどく取り立てをして、金儲けをしていたのでしょう。人々から嫌われていました。

彼のいる町に、あるとき、主イエスが来られました。それを聞いたザアカイは、主イエスを見たいと思いましたが、彼は背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができません。彼はどうしても主イエスを見たいと思って、前方の大きな木に登って、主イエスを見ようと待ち構えたのです。主イエスがちょうど彼のいる木のところに来られたとき、主は見上げて彼を見つめて「ザアカイ。急いで降りて来なさい」と呼びかけられ、「今日、あなたの家に泊まりたい」と言われました。この驚く申し出に彼は主イエスを喜んでお迎えして、変えられました。主は私たちの所にも来て救ってくださいます。

2016年4月24日 礼拝説教要旨

恵みを証しする

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第8章26-39節

 

主題聖句:「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」

ルカによる福音書8章39節

 

 

今日は、ゲラサ人の地方で悪霊に取りつかれていた男に注目します。

 

この男は長い間、衣服を身に着けず、墓場を住まいとして、鎖でつながれ、足枷で縛り付けられなければならないほど、狂暴な行動をしていました。彼を苦しめるものが、彼の内にいて、彼の身体をも痛めつけていたのです。

 

この人は、私たちと全く縁のない異常者ではありません。私たちも、欲望や衝動に突き動かされて、周囲の状況を考えないで、物事をむやみに押し進めてしまうことがあります。その欲望や衝動の背後に、悪の力や闇の力がいて、私たちを攻撃して、神から引き離そうと狙っている場合もあります。この攻撃に対して、私たち人間の力だけでは太刀打ちできません。

 

そんな狂暴な力に支配され、苦しみながら、突き動かされているこの人のもとに、主イエスは近づかれました。主イエスが神の子としてこの人の前に立たれた時、主イエスは、汚れた霊に男から出るように命じられたのです。すると、悪霊どもはその人から出て、豚の中に入って、その豚の群れは湖になだれ込み、おぼれて死んでしまいました。

 

さて、悪霊どもを追い出してもらった人は、服を着、正気になってイエスの足もとに座っていました。主イエスの御力によってそうなったのです。そこで、彼が主のお供をしたいと願ったとき、主イエスは、家族のもとにとどまって、自分の家族に主がどんなに大きなことをしてくださったかを聞かせなさいと命じられました。私たちも主から頂く恵みを証ししたいものです。

 

2016年4月17日 礼拝説教要旨

心の目も開かれる

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第9章13-39節

 

主題聖句:イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

ヨハネによる福音書9章35節

 

ヨハネによる福音書9章には、生まれつき目の見えない人が、主イエスによって、目が見えるようにしていただいたことが記されています。

 

生まれつき目の見えない状態で過ごしてきた人は、目が見えるようになり、どんなにか感激したことでしょう。しかし、そのことが起こった日がユダヤの戒めでは仕事をしてはいけない安息日であったので、癒した人は安息日を破ったということで大問題になってしまいました。

 

彼は、人々によってファリサイ派のところに彼を連れて行かれました。厳しい尋問を受ける中で、彼は、以前は見えなかったのに、今見えるという事実を語ったのです。そう証言しても、人々は、イエスを、安息日を守らない悪い人だから、神から出た者ではないと決めつけてしまいました。

 

そういう尋問を受ける中で、彼は、自分を癒されたイエスという方に対する、心の目が開かれたのです。彼のイエスを救い主と信じる思いが深められていったのです。ついに、彼は、ユダヤ教から破門されたとき、そこに主イエスが近づいて、彼を励ましてくださいました。

 

私たちの信仰の始まりにおいても、神様は、このように、御自身の方から近づいてくださっているのです。今日も神様の方から私たちに近づいておられます。いつも近づいて励ましてくださっています。このお方を信じて行きましょう。

 

 

2016年4月10日 礼拝説教要旨

 信じる者になれ

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第20章24-29節

 

主題聖句:それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。…信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ヨハネによる福音書20章27節

 復活された主イエスは、トマスにも復活の姿を現されました。

 

主イエスが復活されたその日、すなわち日曜日の夕方、その彼ら弟子たちが隠れているその場所に、主イエスは入って来られ、あいさつをされ、御自身の十字架刑でできた釘の跡のある両手と、槍で刺された傷跡のある脇腹を示されたのです。それを見た弟子たちは、主イエスの復活を知って喜びました。しかし、その場に、弟子のトマスはいませんでした。

 

その後、トマスが戻ってきて、ほかの弟子たちから、「私たちは主を見た」と聞いて、彼はそれを全然受け付けられず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。

 

でも、そんな信じられない中にも、トマスは仲間のことを大事に思って離れないでいたのです。とにかく、この群れの中にいたのです。

 

1週間後、トマスと弟子たちが皆、家の中にいたときに、主イエスが閉ざされていた戸から入って来られました。そしてあいさつをされ、すぐにトマスの心にある疑いを指さすようにして、言われました。

 

主イエスは、トマスに、御自身の手のひらにある釘の傷跡を見せられ、「ここにあなたの指を付けてみなさい。ご自分の脇腹にある、槍で刺された傷跡を見せられ、手を伸ばし入れなさい。」と言われたのです。

 

トマスは、主イエスの復活されたお姿を見、彼の疑いが消え、信じたのです。理屈でわからないと信じないと思っていた私たちですが、復活の主イエスを見た人たちの証言によって復活を信じる信仰が与えられています。

 

2016年3月27日 イ-スタ-礼拝説教要旨

ペトロにも伝えよ

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第16章1-8節

 

主題聖句: 「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。…」

マルコによる福音書 第16章7節 

                                  

金曜日の夕方、十字架からおろされた主イエス様の体をきれいに拭き、香油を塗って葬りの準備を婦人たちはしたかったのです。けれどもその時は日暮れが迫り、十分な暇がありませんでした。安息日あけのよく日、日曜の朝、夜が明けるのを待ちかねたように、婦人たちはお墓にでかけます。

 

行ってみると、入り口を塞いでいた大きな石が脇に転がしてあり、墓の中が覗けました。ふつうではない気配を婦人たちは感じます。中には天使と思われる人物がいて、主イエスのお体がないのを示して、「主は甦られた」と告げるのです。そして男の弟子に伝言を頼みました。内容はこうです。「主イエス様は先にガリラヤに行って、あなたたちを待っておられる。行きさえすれば、お目にかかれる」その時、弟子たちとは区別するように、「ペトロ」の名前を天使は挙げました。「ペトロにもまた」、あるいは「そしてペトロにも」と訳せるのです。

 

婦人たちは、はじめ恐ろしくなって黙っていました。しかし、そのうちのひとりマグダラのマリアに甦られたイエス様は出会ってくださいます。もう男の弟子たちに黙っているわけにはゆきません。

 

男たちは聞いても信じません。その11人が食事をしている時、主は現れてくださいました。「ペトロにも」とわざわざ付け加えられたことをマリアはそのまま伝えたはずです。3度も知らないといったペトロは主イエス様に顔向けができないと思っていたでしょう。しかし、そのペトロにも主は出会ってくださいます。お忘れになることはけっしてなかったのです。

2016年3月20日 礼拝説教要旨

 恐れのない愛

政所 邦明 牧師

ヨハネの手紙一 第4章13-18節

主題聖句: 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出す。」

ヨハネの手紙一 第4章18節

 

18節の少し前、第4章10節です。その箇所で、「罪を償ういけにえとして御子を(父である)神様がお遣わしになりました。“ここに愛があります”」とキッパリと言い切っています。その文脈において、18節の〝愛〟は主イエス様が命を捨ててわたしたちを滅びから救ってくださった愛と同じものです。そして、十字架を通して与えてくださった神様の愛の中には「恐れが存在しない。」と言っています。

 

神様の愛はまるで大きな家のようにたとえられています。その家の中には愛がいっぱい詰まっているのです。〝恐れ〟が外から入ろうとしても、愛が満ち満ちているのでつけいるスキを与えません。もし、恐れが、中にまぎれ込もうとするなら、すぐに外につまみ出されてしまいます。

今日は教会の暦では棕櫚(シュロ)の日曜日です。この日エルサレムに弟子たちと共に主イエス様が入られます。受難週が始まるのです。群衆は木の枝を打ち振って歓迎しました。おりしも過越祭が間近です。雰囲気に酔いしれ、よく考えもせず、人々はお祭り気分で、主イエス様を迎えただけかもしれません。罪を償うための呪いの十字架を背負おうとしておられることをどれほど理解していたでしょう。しかし、じっさい神様は罪人を救おうとなさいました。ここに愛が確かにあるのです。

 

その主イエス様の救いは〝恐れをまったく〟締めだしてしまいました。運命も罪の呪いも、自分すらも恐れる必要はありません。それなのになぜ恐れるのでしょう。“恐れはもうこれでおしまい!”決着はつきました。

2016年3月6日 礼拝説教要旨

宣教に遣わす

 

政所 邦明 牧師

 

マタイによる福音書 第10章5-15節

 

 主題聖句:「病人をいやし、死者を生き返らせ、…悪霊を追い払いなさい。ただで受けのだから、ただで与えなさい。」

マタイによる福音書 第10章8

                                   

受難節に入り、十字架を目指して進まれる主イエス様のお姿をたどって礼拝してまいりました。マタイによる福音書第10章は12弟子を選び、主イエス様が宣教に遣わされる話が出てきます。受難とは直接関係ありません。福音書の記述の順番からみれば、はじめに戻ってしまうのです。

 

しかし、この箇所は主イエス様が与えてくださる〝救い〟について重要な側面を語っています。病気と死の苦しみにある人を解放する権能を弟子たちに授けられました。しかし、主イエス様はエルサレムで処刑されてしいまします。するとそれまで苦労して行ってきた宣教や奇跡などはすべて水の泡になってしまったのでしょうか。

 

そんなことはありません。重い皮膚病の人が清くされ、悪霊が追い出されるのは十字架によってすべての人の罪が赦される前触れなのです。表面からだけ軽々しく判断し、“癒しは良いしるし、十字架は忌まわしいしるし”と決めつけてはなりません。

 

この救いに対して、その価値と釣り合いのとれるお返しをわたしたちは神様に差し上げることはできません。一方的にいただく以外にないのです。またその価値をこの世の金銀など貨幣で換算もできません。傷のない主イエス様の命がささげられました。それを“ただで受けた”と言っているのです。粗品であれば、無料で配られることもあるでしょう。しかし、救いはとても高価です。いただいても〝それ相応の見返り、報い〟などできるはずがありません。わたしたちは「ただで受けるだけ」なのです。

 

2016年2月28日 礼拝説教要旨

十字架の上の主イエス様

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第15章33-41節

 

 主題聖句:「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 マルコ福音書 第15章34

                                   

これまで「天のお父様、アッバ父よ」と、事あるごとに父なる神様に信頼をよせて祈ってこられた主イエス様です。いよいよ息を引き取られる前に「お見捨てになったのですか」と祈られたのはふつうではありません。口にされていた父なる神様への信頼はどこに行ったのでしょう。これまで人々に語ってこられたことを最後の祈りで、すっかりくつがえしてしまわれたのでしょうか。神様を恨むというより、絶望の淵に主イエス様が落ちておられる印象を持ちます。

 

この祈りは詩編第22編2節のことばそのままです。小さい時から詩編を口ずさみ、ご自分の祈りとされてきたのでしょう。み言葉が深く体に刻みつけられていて、ここぞという時、思わず口をついて出たのです。

 

ことばのうわべからだけ判断すれば、父なる神様と主イエス様との心のつながりは完全に断ち切られているように思われます。しかし、詩編の方は「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」(22編4節)と続くのです。信頼への告白まで捨ててはおりません。信頼と絶望とは一見矛盾するようでありながら、けっしてそうではないのです。

 

神様を信じ続けながらの絶望と、父なる神様を見限って叫ぶ絶望とは、たとえ絶望という言葉を使ったとしも、まったく違います。最後の最後まで信頼し抜かれる中で、神様から捨てられる凄まじい恐怖を一滴も残すことなく主イエス様は飲み尽くしてくださいました。その荘厳な有り様を見て「本当に、この人は神の子だった」(14:39)と百人隊長が言ったのです。