2016年10月2日 礼拝説教要旨

信じているとおりに

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第9章1-13節

主題聖句:「そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。」

                   マタイによる福音書第929, 30

 

信仰とは、神様がどんな御方かを知って、神様に信頼していくことです。このことを、二人の盲人の信じ求めていく姿から教えられましょう。

 

彼ら盲人は目が見えないゆえに様々な困難や苦しみを経験して、自分たちが救われることを願っていました。彼らの目の前に主イエスが現れたとき、この時とばかりに、主イエスに向かって叫び、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください」とお願いし続けたのです。

 

彼らがどうして、主イエスに向かって「ダビデの子よ」と叫んだのかというと、昔、ダビデが王であった時、神殿を建てることを願ったとき、預言者を通して約束があったからです。ダビデの子孫から、イスラエルを治める王が起こり、その王座はとこしえに続くという約束です。それ以来、人々は、来るべきメシヤが来るのを待ち続けていました。ですから、主イエスが力強い教えをなさり、病人を癒されるという驚くべき御業をなさったことを聞いた人々は、もしかしたら、このイエスこそ、来るべきメシヤではないかと期待したのです。それでこの二人は主イエスにこのように叫んだのです。

 

しかし、主イエスは、外においては、何の応答もされませんでした。そこには深い意味があったのです。それでも、彼らがあきらめず求め続けて、家の中でイエスに近づいたとき、イエスから「わたしに出来ると信じるのか」と尋ねられました。彼らが信じますと答えると彼らの目に触れて「あなたがたの信じるとおりになるように」と言われ、彼らの目が開き見えるようにして頂きました。私たちも彼らのように、主を信じ祈り続けたいものです。

 

2016年9月25日 礼拝説教要旨

 不信仰にならないように

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第6章1-6節

主題聖句:「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に過ごしているではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。

 マルコによる福音書第63

 

今日学ぶ、主イエスの故郷の人々は残念ながら、自分たちの故郷の会堂で主イエスの語る説教を聞いて、驚き、つまずいたのです。そこから、信仰について学びたいと思います。

 

あるとき、主イエスは故郷に帰り、安息日に会堂で力強く教えられました。その教えを聞いた故郷の人々は大変驚いたのです。その知恵はどこから来たのか。この人は、自分たちの知っている大工ではないか。彼の母親も知っている。彼の兄弟たちも、姉妹たちも、一緒に過ごしているではないかと思ったのです。故郷の人々は、自分たちの持っている、幼い時から知っているイエスに対する理解、同じ故郷で過ごして来た中で見て来た理解に基づいて、今のイエスの姿を見て、イエスの語る教えを聞いたので、正しく理解できないのです。イエスの真実を見る目が曇ってしまったのです。イエスが力強く語る姿に驚き、つまずいてしまったのです。それで、イエスを救い主と信じることができなくなったのです。

 

でも、イエスがこれほどまでに、生まれたときからずっと完全な人間の姿で生活なさったことは、神様の恵みであります。しかし、イエスが真の人間として歩まれたことは恵み深いことなのですが、故郷の人々には、正しい理解を妨げることになりました。このことは、神様の御業を見る時、それを信じつつ見るか、それとも自分の過去の理解にも基づいて見るかによって大きく違う結果となることを示しています。信じて見るようになりますように。

2016年9月18日 礼拝説教要旨

 復活の希望

三好 晴夫 牧師

テサロニケの信徒への手紙一 第4章13節-18節

 

主題成句:「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエス信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」 

 テサロニケの信徒への手紙一 第414

 

 

今朝は召天者記念礼拝を持っています。記念するとは覚えることです。先に神のもとに召されて行かれた方々が、生前、どのような歩みをして、共に過ごしたかを憶え、その生涯を導かれ、私たちをも導いておられる神様を見上げて、ほめたたえる時を持っています。

 

実際に、先に召された方々を覚えることは、悲しく辛いことです。以前肉声をもって語ってくれたあの元気な姿を見ることは出来ません。その人に語りかけて、その人からの返事を肉声で聞くことは出来ません。今もなお耐え難い悲しみにあふれます。その事実は大きいです。ですけれども、もう一つの事実にも目を留めたいのです。故人が人生の中で行き詰まりを覚えた時、神の憐れみによって主イエス・キリストの成し遂げられた十字架の救いを知り、その救いを自分の救いとして信じ受け入れ、自分の罪の赦しを受け、神の復活の命にあずかり、主イエスに導かれて過ごされたと言う事実です。ある方にあっては人生の最終の場面で、家族の愛と祈りの中で、信じるように導かれて、神のみもとに導かれた方もあります。それぞれの人生が神によって導かれ、幸いな人生を過ごされたのです。それで、故人はその信仰のゆえに、救われ、神のいのちによって神に導かれて今は神のみもとにあります。

 

私たちはいつか死を迎え、神のご支配の中に行きます。その場所は人間の造った場所ではなく、神の備えられる住まいです。先に召された方々はそこで眠っておられ、主イエスが死者の中から復活された御業のゆえに、主イエスとともに導かれ、主と会うのです。私たちも共に待望したいと思います。

2016年9月11日 礼拝説教要旨

 ただ信じなさい

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第5章21-24節、35-43節

 

 

主題成句:「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」      

マルコによる福音書5章36節

 

 私たちの出会う大きな苦しみとして、身近な存在が突然、重い病気などで厳しい状態になり、もっと厳しくなることがあります。そんな戸惑い、苦しむ私たちを、主イエスはどう受け止め、どう助けて下さるのでしょうか。

 

当時、ユダヤ人の尊敬を集めていた会堂長ヤイロの娘が、重い病気で死にそうになっていました。父親ヤイロは、自分の立場も世間体も捨てて、主イエスに助けを求めました。それで、主イエスはヤイロと一緒に彼の家に向かわれました。しかし、大勢の群衆が主イエスに押し迫っていて前に進めません。そんなとき、会堂長の家から人が来て、娘がなくなったと知らされたのです。娘が生きていたから、彼は主イエスにお願いしていたのです。しかし、娘は死んだ。これからどうしたら良いのか、父親は途方に暮れたでしょう。厳しい現実を突きつけられて悲しむ父親を慰める言葉を誰が持っているでしょうか。

 

しかし、主イエスは彼に伝える言葉を持っておられます。『恐れることはない。ただ信じなさい』 主イエスは、恐れや不安で一杯の父親に、恐れるな。わたしが人間のいのちを支配し、治めている。わたしはあなたと共にいる。わたしを信じなさいと語られたのです。主イエスはそう言うことの出来るお方なのです。

 

こう語って、主イエスは向かった彼の家にいる人々に、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と語り、娘に「起きなさい」と呼びかけられて、起こされたのです。主イエスが十字架にかかられて後、死人の中より復活されることを予告する力ある御業であります。

2016年9月4日 礼拝説教要旨

イエスに触れる信仰

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第5章21-34節

主題成句:「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。」

マルコによる福音書5章30節

 

 今日の聖書箇所に登場するのは、十二年間も出血の止まらない女性です。その病気の苦しみと共に、この病気は祭儀的に不浄とされ、ユダヤ社会から全く疎外されるという苦しみがありました

 

彼女はイエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、誰にも気づかれないように、うしろからひそかにそうっとイエスの服に触れたのです。それは、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。

 

そういう姿は、主イエスの服に不思議な神秘的な力があると思って、主イエスの服に触って自分のいやしを求めることなので、とても信仰と言えないものでした。しかし、自分が祭儀的に汚れている身体なので、主イエスに正面から近づくことは出来ないけれども、直していただきたいという一心で、群衆の中に紛れ込んで主イエスの服に触ったのです。それにもかかわらず、その時、彼女は自分が全く癒されたことを感じたのです。

 

同じ時、主イエスも自分の内から力が出て行った事に気づかれ、群衆の中で振り返り、御自分の服に触った人を探し始められたのです。この時、主イエスは群衆の中に、主イエスの癒しを求めて真剣に触った人がいると気づかれて、本当の触り方をした人を探されたのです。それはその人が自分の姿を隠したまま主の服に触れて自分の病気を直して頂くことにとどまらないで、主イエスとの生きた交わりを持ってほしいと願われたからです。彼女は隠し切れないと気づき、主イエスに打ち明け、主から「あなたの信仰があなたを救った」と豊かな励ましを頂きました。主との交わりに私達も導かれたい。

 

2016年8月28日 礼拝説教要旨

嵐を静めるキリスト

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第4章35-41節

主題成句:「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」

マルコによる福音書4章39節

 

 主イエスがガリラヤ湖の岸に集まって来た群衆に向かって、岸近くで舟の中から話を続けられていましたが、夕方になりました。『向こう岸に渡ろう』と主イエスは勧められ、弟子たちは主イエスを舟に乗せたまま向こう岸に向けて漕ぎ出しました。

岸を離れて沖に出た時でしょうか、激しい突風が起こり、舟は波をかぶり、水浸しになるほどでした。この状況に弟子たちは大変慌てふためきました。その時、弟子たちの目に入ったのが、主イエスが艫(とも)の方で枕をして眠っておられる姿でした。主イエスは大きく舟が揺れる中にも安心して眠っておられたのです。その姿を見た弟子たちは苛立ちを覚え、主イエスを起こして、「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」と不平不満を言ったのです。

 

私たちも、実はこの弟子たちの様です。人生の中で激しい嵐が起こって、身の危険を感じたとき、神様は何もして下さらない、眠っておられるのではないかと思い、不平不満が起こります。神様を起こし助けを求めます。そんなとき、主イエスはどうしてくださるのでしょう。この時は、起き上がって、風を叱り、「黙れ。静まれ」と言われたところ、すぐに風はやみ、すっかり凪になりました。その時、主イエスは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちをお叱りになりました。

 

それは、舟が風や波で揺れ動いた時も、主イエスが一緒におられると信じるべきではないかという励ましです。主イエスは、彼らと共におられたように、私たちと共におられ守ってくださるのです。

 

2016年8月21日 礼拝説教要旨

 神の前に豊かになる

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第12章13-21節

暗礁聖句:「そして一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』」         

ルカによる福音書12章15節

                   

 この世で生活していくためには、お金は大変役立つものです。そのお金がもっともっと自分にあればと思います。生活を快適に過ごすためにもっとお金が必要だと求め続けていくと、その求めは際限がありません。それほどにわたしたち人間は貪欲に捕らわれやすいものです。そしてその貪欲のとりこになってしまうと、人生を誤らせてしまうことも起きやすいのです。

そういう状況にある人をご覧になった主イエスは、上記の言葉を言われました。どんなに有り余るほど、多くの富、財産、お金を持っていたとしても、

その財産の多さによってその人の命が確かに保証されるのではないのだ。貪欲に用心しなさいと言われました。

その意味を深く教えるために、主イエスはたとえ話をされました。ある金持ちの畑が豊作になったので、金持ちはどうしようかと考えた。今ある倉を取り壊してもっと大きな倉を建て、そこに穀物と財産をしまおうと思い付き、これで何年先も生きていくだけの蓄えができたと喜んだ。しかし、神は「愚か者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。御前の用意した物がいったい誰のものになるのか」と言われたというのです。

このたとえ話を通して主イエスが教えられることは、人は自分のために多くの財産を蓄えて裕福になるだけでは十分ではないということです。神様の前にこそ、豊かになっていなければ、その人の人生は空しいものになってしまうというのです。ではどうしたらよいのか。それは、わたしたちに命を与えて下さるお方、神を信じ、神の救いをいただくことではないでしょうか。

2016年8月14日 礼拝説教要旨

 多く赦された者

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第7章36-50節

主題成句:「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されるこの少ない者は、愛することも少ない。」

                   ルカによる福音書7章47節

 

 主イエスがシモンの家で食事の席で足を延ばしておられた時、ある女性はイエスの足の汚れたままであると気づいたようです。早速、主イエスの足を洗って差し上げたのです。彼女はあふれる涙でイエスの足を濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して、高価な香油を塗ったのです。

 

その行為をみた、その家の主人であったファリサイ派のシモンは、その女性が罪深い過去のある人であるのに、その女性の行為をイエスが受け入れるとは、まことの預言者と言えるか、おかしい、と心の中で軽蔑しました。それを見抜かれた主イエスは、あるたとえ話をされました。ある金貸しが二人に金を貸した。一人に五百デナリオン、もう一人に五十デナリオン貸した。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。どちらが多く金貸しを愛するだろうか。という話でした。このシモンは、帳消しにしてもらった額の多い方だと思いますと答えました。

 

その後、イエスは、シモンに、この女性がした行為の意味を説明したのです。シモンが、イエスの足を洗う水をくれなかったのに、彼女は涙でイエスの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、イエスの足に香油を塗ってくれた。彼女のこのような行為は、イエスに示してくれた大きな愛です。だから彼女が多くの罪を赦されたことは、その愛の大きさによって分かるというのです。多く赦されたと感じたからこそ、彼女は多くイエスを愛したのです。

 

私たちも、主イエスから多くの罪を赦していただいています。そのことに気づいて、主イエスを愛し、感謝しているでしょうか。

2016年8月7日 礼拝説教要旨

             敵を愛しなさい

            三好 晴夫 牧師

        ルカによる福音書 第6章27-36節

主題成句:「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、

あなたがたを憎む者に親切にしなさい」。 

                     ルカによる福音書6章27節

                   

 8月は、平和を覚え祈る月です。71年前の1945年の8月6日の朝、

広島に、続いて9日の朝に、長崎に原子爆弾が落とされ、それぞれの町で1

0数万人の人たちが、一瞬にして犠牲になりました。さらに、8月15日に、

ポツダム宣言を日本政府が受諾し、無条件で降伏して、第二次世界大戦は終

わりました。このような事が続けて起こったこの8月に、私たちは平和を祈

りたいのです。

 

この日に開かれた聖書の言葉が、ルカ6章27節「敵を愛しなさい」です。

この主イエスの教えは、主イエスの言葉を聞いている主イエスの弟子たちと

主イエスを信じる人々に対しての教えです。すなわち、主イエスを求めて、

主の語られる教えに耳を傾けている人に語られた大切な教えです。

 

「敵」という言葉の前に、「あなたがたの」があります。ですから、私を

憎み、侮辱する人です。その人を愛しなさいとは、その人を、神様が無償で

憐れみ深く愛されるその愛でもって愛することです。でもこの教えを私たち

が守るのは不可能と思えます。

 

でも、神はあわれみ深く、主イエスは神の敵であった私たちを愛してくだ

さいました。この愛の迫りを受ける時、敵をも愛するようにされるのです。

2016年7月31日 礼拝説教要旨

良い羊飼いキリスト

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第10章11-18節

主題成句:「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

                  ヨハネによる福音書10章11節

 

 主イエスは、御自分のことを、「わたしは、よい羊飼いである。」と言われました。何と大胆な発言、何と思い切った発言でしょうか。

 

この「良い」という言葉は、「まことの」という意味です。「信頼に足る」という意味です。親身になって心配し、しっかりと守る信頼できるものだということです。では、どんな点で、主イエスはまことの羊飼い、信頼に足る羊飼いなのでしょうか。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」と言われます。つまり、愛する羊の世話をし、その命を守るために、自分の命を捨てる。主イエスはそういう羊飼いであられるのです。

 

当時、自分の羊を持たない雇人がいました。雇われて、給金をもらって、そのためにだけ働く人でした。もし危険なことに直面すると、羊を置いて逃げ出してしまいます。それは、羊のことをあまり心にかけていないからです。羊よりも自分の命や生活が大事だと思っているからです。その雇人が逃げてしまったら、羊は危険な目に遭い、悲惨な状態になってしまいます。しかし、本当に羊のことを心にかけている羊飼いは、羊が困ったことになったとき、親身になって命がけで守ります。

 

羊が自分勝手に迷い込んでしまうことがあるように、私たちも、神様から離れて、自分勝手に進み、迷子の状態になり、危険なことになっていました。そんな私たちを、まことの羊飼いは決して見捨てられません。一緒に苦しみ、捜し続けてくださいます。私たちを救い出すために、自ら進んで十字架にかかって死んでくださり、わたしたちに命を与えて下さいました。ご自分の命を捨てられるのは主イエス・キリストだけです。