2021年5月9日 日曜礼拝要旨

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

マタイによる福音書 第6章6節

信仰の歩みにおいて、祈りは大切なものではないでしょうか。祈りは神さまと私たち人間との交わりです。神様を意識して自分の思いをお話することです。でも、実際に祈ろうとするとき、どのように祈ってよいのか戸惑ってしまうことはないでしょうか。だからこそ、主イエスがどのように祈るべきかを教えられたことに注目しましょう。それが「主の祈り」です。この祈りの言葉 私たちも一緒に祈っていくときに、どう祈ったらよいかを知ることができます。 主の祈りを教える前に、主イエスは祈りの姿勢を教えています。一つは、ユダヤ人指導者たちのような偽善的な祈りをするなです。彼らは、時間になると、人に見てもらおうと会堂や大通りの角で立って祈っていたのです。人々からの賞賛を期待してのことでした。これに対して、主イエスは、上記の言葉を語り、祈りを聞いて下さる神さまに向かって真実に祈りなさい、神は聞いて下さると教えられ、もう一つはくどくどと自分の熱心さをぶつける祈りをするなです。父なる神は願う前からこちらの必要なものをご存じです。こちらの必要をご存じの神に向かって私たちは祈るのです。

2021年5月2日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.18 道・真理・命の主 
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
ヨハネによる福音書 第14章6節
いつもそばにおられ助けてくださっていた先生が、どこか遠くに行かれると知って、弟子たちは、不安に感じ、どうしたらよいのか心騒がせました。その彼らに主イエスは「心騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい」と語られ、確かな約束と励ましを与えられました。
主イエスの語られた励ましは、ご自分がこれから向かうのは、父の家であり、そこであなたがたのために住む場所を用意するのだということでした。一時的には弟子たちと離れることになるが、父なる神のみもとに行かれて、あなたがたの住むべき場所を用意されるのです。そのために、主イエスは十字架にかかられるのです。私たちの罪とその結果の裁きをご自分が背負って、贖いの業を成し遂げられるのです。そのようにして父なる神の前に、あなたがたの罪が赦され、永遠の命が与えられるようにしてくださるというのです。父の家に住むべき場所が備えられたあと、主イエスは戻ってくると約束されました。 さらに、主イエスは、ご自分が、道である。あなたがたを父なる神のもとに導く道そのものだと宣言されました。主イエスが真理そのものでありいのちそのものだからです。このお方に信頼して、私たちをも父なる神のみもとへと導いて頂きましょう。

2021年4月25日 礼拝説教要旨

復活の主イエス 

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第11章17-27節

             

主題聖句: イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。   

ヨハネによる福音書 第11章25節

 私たちは、毎日の生活の中で、色んな困難や苦しみで出会い、戸惑い、動揺してしまうことがあります。そんな時こそ、私たちの持つ信仰のあることが問われます。実に私たちは弱い者なのですが、私たちと共におられて生かしてくださるキリストを信じてお頼りして行くとき、強められ、支えられていく事が起こるのです。キリストを信じて行く信仰の大切さを今日の箇所は教えてくれています。

 

ある時、ベタニアに住むラザロが病気になり死んでしまいました。彼は主イエスを信じていた人でした。主イエスは彼が墓に葬られて4日経ったあと、ベタニアに来られました。その時、主イエスは、悲しみの中にある姉マルタに、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。でもその時のマルタには、その言葉は、終わりの日の復活の時に復活することだと思って、それは信じますとだけ答えるだけでした。そのマルタに主イエスは力強い約束と宣言を語られたのです。それが上記の言葉です。

 

この世の終わりの時だけでなく、今、主イエスを復活であり、命であると信じるなら、主イエスは私たちの命一切をご自分の復活の命で生かしてくださるのです。主イエスは、事実、この言葉の通りに、十字架で死なれ贖いの業を成し遂げられた後、死人の中から復活されました。主イエスを復活させられた神の全能の力は私たちをも生かしてくださるのです。

2021年4月18日 礼拝説教要旨

ヨナのしるし  

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第12章38-42節

 

      

主題聖句: イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。           マタイによる福音書 第12章39節

 主イエスは、病気の人や悪霊に取りつかれている人を癒されるなど多くの奇蹟を行っておられましたが、人々の中には、主イエスに「先生、しるしを見せてください。」と求める人がいました。それは、律法学者、ファリサイ派の人たちでした。彼らは、一応主イエスを「先生」と呼びかけて敬っているようですが、その実、主イエスが救い主であるとは認めず、救い主ならそれ相応の特別な能力を持っている外に見える証拠を見せてくれと要求したのです。

 

 

今日も、多くの人たちが、イエスを立派な優れた人格者と認めつつも、神の御子、救い主であるかどうか、それ相応の特別な能力を持っていることを示す外に見える証拠を見たいと思っているのではないでしょうか。証拠があって、自分たちに納得できる科学的証明がなければ信じないという思いが私たちの中にあるのではないでしょうか。この問いに対して、主イエスは「よこしまな神に背く時代の人たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」のです。「神に背いた」とは、神から愛されているのに愛を受け止めず裏切るような生き方のことです。何か特別のしるしによって神の愛の証明がなければ信じないという姿です。ただヨナのしるしがある。それは主イエスの死と復活によってあらわされた神の力です。主イエスの示されたしるしを見つめましょう。

2021年4月11日 礼拝説教要旨

からっぽの墓 

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第28章11-15節

 

主題聖句:    言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。

           マタイによる福音書 第28章13節

今日の箇所は、主イエスの納められた墓がからっぽであったことが、弟子たち、主イエスを信じる人々に重要なことであっただけでなく、ユダヤ人の指導者たちにも大変気になることであったことを示しています。

 

主イエスが十字架でなくなられた後、納められた墓を、ピラトの命で番兵が見張っていました。週の初めの日の朝、大きな地震が起こり、その墓に主の天使が現れ、墓の入口の石がわきに転がり、その番兵はそれを見て震え上がったのでした。婦人たちも墓に行き、天使から主イエスが復活されたことを聞きました。この番兵は、その話を聞いたかもしれません。   その番兵たちは都に戻り、この出来事すべてをユダヤ人指導者たちに報告しました。それを聞いた指導者たちは、兵士たちに多額のお金を与えて「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いなさいと命じたので、彼ら兵士たちはそのお金を受け取って教えられたとおりに、出て行って言いふらしたのです。このようにして偽りの話が広まって行ったかに見えます。それほど、ユダヤ人指導者たちには、主イエスの墓がからであったことは、主イエスの復活を示すとは信じられなかったのです。しかしこの妨害の中に主イエスの復活は広まっていった。

2021年4月4日 礼拝説教要旨

主は復活なさったのだ

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第28章1-10節

 

      

 主題聖句:  あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

           マタイによる福音書 第28章6節

 今日は、主イエス・キリストが死より復活されたことをお祝いするイースター(復活日)です。

 

金曜日の午後3時過ぎ、主イエスが十字架につけられ確かに死なれ、新しい墓に葬られたその様子を、婦人たちは見届けました。

 

やっと安息日が終り、日曜日の朝、まだ暗いうちに彼女たちは主イエスの葬られた墓に駆け付けたのです。死んで葬られた主イエスに少しでも近づき、何かをしたいと思ったのです。

 

転がされていた墓石の上に主の天使が現れ、言いました。主イエスはここにはおられません。空の墓を指し示して「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と。墓には主イエスのお体はありませんでした。

 

では主イエスはどうなったのでしょうか。天使は「かねて言われたとおり、復活なさったのだ」と告げたのです。死者の中から復活なさったのです。天使は、この出来事を弟子たちに告げるように伝言しました。その知らせを聞いた婦人たちは恐れながらも大いに喜んで、弟子たちのもとに走って行ったのです。その婦人たちに復活の主イエスは現れ、「おはよう」と励まして下さいました。主イエスは復活され生きておられるのです。

2021年3月28日 礼拝説教要旨

十字架のキリスト

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第27章32-56節

 

      

主題聖句:三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 

マタイによる福音書 第27章46節

 今日から始まる受難週において、主イエス・キリストの味わわれた御苦しみを覚え、その遂げられた救いに感謝したいと思います。

 

主イエスは神の御子であられ、何の罪を犯しておられない方なのに、ユダヤ人指導者たちからねたまれ、イエスは自らをユダヤ人の王と言い、自らをメシアと言っていると訴えられ、裁判で十字架につけられることが決まり、ついに十字架につけられました。その裁判の時も十字架の上でも、主イエスは何の弁解もせず黙ってその苦しみに耐え続けられました。

 

昼の12時に全地が暗くなり、三時まで続き、その時主イエスは大声で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。主イエスは、ご自分の死が迫る中、死の恐ろしさを思い、見捨てられたと感じられたのでしょうか。「見捨てられる」。神から見捨てられることは大変恐ろしいことです。私たち人間の罪をご自分の罪として背負って主イエスは神から見捨てられたと感じられたのです。もう神は自分を見捨てられたと感じられたのです。罪のゆえに神から見捨てられ、裁かれることを知って苦しまれています。その苦しみを背負って裁かれてくださったのです。それはこの方にあって私たちが神の前に義とされるために。

2021年3月21日 礼拝説教要旨

皆に仕える者になりなさい 

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第20章20-28節

 

      

主題聖句:しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、                

マタイによる福音書 第20章26節

 主イエスがエルサレムに向かって行かれる途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて、神の御心によって、ご自分がエルサレムで指導者たちに引き渡され、十字架につけられるという苦難の予告をされました。しかし、そのことを弟子たちは理解できませんでした。そのとき、弟子の母親が主イエスのもとに来て、主イエスが王座にお着きになられるとき、その王座の右と左の席に息子たちを着座させてくださいと願いました。ほかの弟子たちよりも自分の子を優遇し、高い地位につけてほしいという願いです。このように自分を優遇してほしい願いは他の弟子たちも持っていたようです。

 

そう願った母親と弟子たちに、主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているのか、わかっていない」と答えられましたが、叱るのではなく、ご自分のこれから飲もうとしている「杯」(十字架の苦難)を一緒に飲むように促されたのです。その上で「あなたがたの間では」、すなわち、主イエスを信じて従う者の仲間の中では、偉くなりたい者は皆に仕える者になれと教えられました。仕えることは、給仕することです。主人の思いをくみ取りながら忠実に働く人です。仕えることが、リーダーに求められているのです。まず主イエスが仕える模範を示されました。主イエスが私たちの身代わりとなって罪を背負って命をささげて下さったのです。

2021年3月14日 礼拝説教要旨

栄光に輝くキリスト

  

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第17章1-13節

             

 主題聖句: 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。     

マタイによる福音書 第17章5節

 

時おり、笑顔で人助けをされている方の姿を見かけて、光輝いていると感じることがあります。地上を歩まれ、多くの人の心に寄り添われた主イエスのお姿も、きっと光り輝いていたことでしょう。しかし、今日の箇所に登場する、主イエスのお姿は、それまでとは全く違う、栄光に輝くお姿でありました。

 

それは、主イエスが弟子たちにご自分が苦難に遭うことの予告をなさった6日後に起こりました。そのお姿は、神の栄光のお姿でした。主イエスは元々神のもとにおられたお方で、その栄光を捨てて人間となられた方です。今ここでその本来の栄光のお姿を現されたのです。その時、栄光に輝く主イエスのそばに、モーセとエリヤが現れて、主イエスと話をされました。彼らが話していたのは、主イエスがエルサレムで十字架において成し遂げられる人類のための救いについてでした。

 

この時、その光景を見た弟子のペトロは、それがすばらしいと感じ、この状態をずっと留めおきたいと思い、主イエスに願い出たのです。

 

その時光り輝く雲が彼らを覆いました。すると、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」という声があったのです。これは父なる神が、十字架に進まれる主イエスを認められた言葉でした。そしてこの主イエスに聞きなさいと励まされたのです。

2021年3月7日 礼拝説教要旨

キリストに従う  

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第16章13-28節

             

  主題聖句:それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

           マタイによる福音書 第16章24節

 主イエスを信じ従うとはどういうことでしょうか。それが今日の箇所に教えられています。

 

ある時、主イエスは弟子たちに「わたしを何者だと言うか」とお尋ねになりました。するとシモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、その告白を主イエスは喜ばれました。この告白を聞かれた主イエスはこの時から、弟子たちに、ご自分が救い主としてどんな働きをされるかはっきりと語られたのです。すなわち、必ずエルサレムに行き、ユダヤの指導者たちから多くの苦しみを受けて殺されるが、三日目に復活することになっているという神の御計画を語られたのです。

 

しかし、ペトロには全く理解できません。善意で主イエスをおいさめしたのです。それに対して主イエスは「サタンよ、引き下がれ」としかり飛ばされました。主イエスとしては神のことを思い、神の計画に従って十字架の道に進もうとされていたからです。そう語られた後、主イエスは弟子たちに今一度「わたしについて来たい者は」どうあるべきかを語られました。「自分を捨て」自分の中に絡みつく執着する自分を手離し、「自分の十字架を背負って」主イエスのゆえに負わされる苦しみを負って、主イエスに従うなさいと招かれたのです。主イエスは信頼する者を導かれます。