2012年1月22日 礼拝説教要旨

主題聖句 「…主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、

今では他の一切を損失と見ています」

フィリピの信徒への手紙第3章8節

説教主題「キリストに頼る」

 クリスマスの期間に途絶えていたフィリピの信徒への手紙の連続説教に戻ります。この手紙は「喜びの手紙」であると申しました。それと同時に「戦いの手紙」でもあるのです。パウロが伝え、フィリピの信徒たちが受け入れていた信仰とは異なっている、教会の信仰の根本を揺るがしかねない人々やものの考え方が入って来ました。この人たちの一番の問題点は「キリスト・イエスを誇りとせず、それ以外のものを頼りにする」ことです。

 パウロは生粋のイスラエル人、つまり、神の選びの民族の一員であること、さらには自分で努力した律法に対する忠実さを誇りに思っていました。イエス・キリストを信じる以外に何も持たないのであれば、キリストにすがりつくほかないでしょう。ところが豊かなものを持っていれば、かえって手放すことが難しく、持っているものを誇りたくなります。パウロに比べれば私たちは何も持たないと言えるでしょう。それでも手元に残っている何がしかの僅かなものを自分の〝寄るべ〟(頼りになるべき根拠)としたくなります。

 自分を支える価値の根本的な転換がパウロに、起こりました。それまで、誇りに思っていた生い立ちや律法への忠実さなどを損失とみなすようになったのです。価値を無理に代えようとしたのではありません。イエス・キリストを知る絶大な価値に気がついて、キリストの恵みに捉えられたのです。自分の誇りでなく、キリストを誇るようになったのです。

2012年1月15日 礼拝説教要旨

主題聖句 「…気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちにたとえを話された」

 ルカによる福音書 第18章1節

説教主題「失望なき祈り」

 このやもめはこれまでの歴史の中に現れた教会を象徴しているように思えます。主イエスの生きられた当時のやもめは、社会的に不利な立場にあり、民事のもめごとなどでも理不尽な扱いを受けることもしばしばであったようです。ですから自分が正当に扱われようと思えば、裁判官に訴える以外にありません。困り果て、無力で、しかも自分は正しいと思っています。頼みとするのは裁判官だけです。厄介な状況の中で、なすすべもなく、神にせがみ、神ご自身が義を貫いて下さるように求める弟子たちの共同体(教会)とやもめの姿は重なります。
ところがたとえ話に出てくる裁判官は頑ななのです。「神など畏れないし、人を人とも思わない」が2度繰り返されます。裁判官自身がそのように豪語します。やもめがどんなに懇願しても取り合ってもらえそうにありません。しかし、やもめはこの裁判官のもとにひっきりなしにやってきます。それは裁判官が「さんざんな目に合わされるかもしれない」と脅威を感じるほどでした。「殴られるかもしれない」というのが元の意味です。「人を人とも思わない」裁判官を恐れさせ、ついには裁判をするところにまでやもめはもってゆきます。
神はこの裁判官と似ても似つかぬ義なる方です。その方は速やかに裁きをし、ご自分の義を貫いて下さいます。〝神の義の実現には絶望するな!〟〝信じて耐えよ!〟…望みを持ちつつ耐えるように主イエスはこのたとえ話を通じて励まして下さるのです。

2012年1月8日 礼拝説教要旨

主題聖句   「主が預言者を通して言われたことが実現するためであった」

マタイによる福音書 第2章15節

 説教主題 「夢に導かれて」

    マタイによる福音書第1章の後半から第2章にかけて上記のことば、それに類する表現が何度も繰り返されています。主イエス・キリストはマリア共々ヨセフの家に迎え入れられ、生命の危機の時はエジプトに難を逃れます。そしてエルサレム近辺のベツレヘムではなく、北のガリラヤ地方ナザレの町に住んで「ナザレ人イエス」と呼ばれるようになりました。その経緯(いきさつ)が、この箇所に、記されているのです。

    主イエスが幼児期の危難をくぐり抜けるために神はヨセフをお用いになりました。そして、危機に直面した折々に夢で具体的な指示を与えられます。このような指示がなければ、ヨセフは動きようが無かったはずです。しかし、マタイは私たちに告げます。ヘロデの幼児殺害計画、エジプトへの逃避行はその場しのぎの切羽詰まった行動ではなく、神が永遠の昔から立てられた一つ一つの計画なのだと…。

    アブラハムは約束の地カナンにまずたどり着きます。しかし、食料危機のため一度エジプトに逃れます。孫のヤコブも同様にその息子ヨセフの招きでエジプトに行きます。そして後にイスラエルの民族はエジプトから約束の地カナン(パレスチナの地)へとモーセを通して連れ出されるのです。幼子の主イエスが両親と共に歩んだエジプトへの往復の道は先祖の道を辿るものでした。出エジプトこそイスラエル民族にとって救いを表しています。それは罪からの救いを象徴しているのです。主イエスこそイスラエル民族、いや全人類の真の救いをもたらすお方なのです。

2012年1月1日 礼拝説教要旨

主題聖句  
「8日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた」


ルカによる福音書 第2章21節

説教主題「その名はイエス」

   新しい年も、皆様の上に祝福がありますように。昨年は主日のクリスマス礼拝が12月25日降誕日と重なりました。2006年以来のことです。25日も含め8日目は1月1日となり、元旦と共に教会の暦では「主の命名日」などと呼ばれます。①ルカによる福音書によれば、マリアに、②マタイによる福音書によればヨセフに、「生まれてくる子供には『イエス』と名を付けなさい」と天使が告げます。新生児に名前を付けるのは両親の特権でも、また喜びでもあるでしょう。赤ちゃんの名前に親の思いや願いを込めるものです。しかし、主イエスの場合は、神の命令とご意志が最優先されました。この子にどのような人になって、どのような使命を果たして欲しいか、神のお考えが込められています。「イエス」とはヘブライ語では「ヨシュア」に当たります。その意味は「主は救いたもう」というのです。(マタイによる福音書第1章21節では)この子は「自分の民を罪から救う」から「イエス」と名づけよと天使がヨセフに夢の中で命じました。
「イエス」は当時長男によく付けられ名前です。同じ地域にも何人もこの名前の人がいたことでしょう。しかし、聖霊によってマリアの胎内を通して与えられた赤子は「イエス」が本来表している文字通りの意味を表しています。当時としてはごくありふれた名前をつけたようでありながら、実は神がその命名を通して、この赤ちゃんが生涯をかけてどのような使命を果たすかを明らかにされたのです。

2011年12月25日 礼拝説教要旨

主題聖句  「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので彼らは非常に恐れた。」

ルカによる福音書 第2章9節

説教主題「万民のための福音」

  「彼ら」とは「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番を」している羊飼いたちです。王宮に住む国の支配者や宗教指導者たちではなく、羊飼いたちがまず、キリストの誕生の知らせを聞きました。当時のユダヤ社会は農業と牧畜とで成り立っています。羊飼いは大切な仕事です。しかし、どちらかというと軽蔑されていました。人口調査のため、人々が自分の町に帰っている時も、羊飼いたちは普段通りに羊の世話をしています。人口調査の目的は課税対象者をハッキリさせ、きっちりと取り立てようとするものです。すると羊飼いは納税義務も免除されていたということでしょうか。確かに羊を追って、その時その時でどこにゆくかわからない人々に「生まれ故郷へ帰って住民登録をせよ」と命令しても、無意味なことです。社会行事に参加することを期待されず、ひたすら夜勤を続ける羊飼いたちは過酷な労働条件に喘ぎ、羊たちを守らなければなりません。
しかも、この人たちをとり巻くのは夜のとばりです。暗闇は死の臭がします。羊を狙う猛獣の遠吠えが聞こえていたとしたら、ぞっとします。生活も楽ではなかったでしょう。〝お先真っ暗〟という日常と将来を闇夜は象徴しているかのようです。社会から相手にされなかったような羊飼いに神の御使は近づいてゆきました。そして救い主の誕生を告げます。暗闇に生活する者たちをまばゆいばかりの神の栄光の輪が包みます。

―人々に希望の光が灯る―これこそが最初のクリスマスなのです。

2011年12月18日 礼拝説教要旨

主題聖句

「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせた。」

イザヤ書第53章6節

説教主題「探し求める神」

   主イエスはご自分がなさった例え話の中で、「百匹の羊を持っている人も、もしその内の一匹がいなくなってしまったら、見つかるまで探さないであろうか」と言われました。羊は迷いやすい動物です。草を食べることに熱中していて、気がついてみたら羊飼いからも仲間からもはぐれていたなどということはよくあるようです。自分の直ぐ目の前のことばかりに気を取られて、回りの状況が見えなくなる私たちに似ています。この点を預言者イザヤは「道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」と表現しました。一旦迷い出ると羊は羊飼いからも仲間からも遠ざかり、自力で群れに戻ることが難しくなるでしょう。
主イエスはたとえのなかで、羊に対する愛を語られました。99匹も残っているのだから、1匹くらいいなくなったって構いはしないとはおっしゃいません。迷った羊は藪に足を取られたり、斜面を滑り落ちたりして怪我をすることもあるでしょう。羊飼いは迷った羊の足取りをなぞるようにして追いかけてゆきます。羊飼いもまた途中危険な目にあうかもしれません。茨の茂みをくぐったために、棘で傷つくこともあるでしょう。「見つかるまで探すとは」羊たちの辿った苦難の道、迷いの道を自らも傷つきながら、共に歩いてくださることなのです。共に苦しむ果てに羊の身代わりとして十字架にかかられました。良き羊飼いとなって、私たちを救うために主イエスはクリスマスに生まれてくださるのです。

2011年12月11日 礼拝説教要旨

主題聖句 「主は羊飼い、わたしには何もかけることはない」                                                                                               詩編第23編

説教主題「主はわが牧者」

   キリストとは「油を注がれたもの」という意味です。旧約聖書の時代には、王、祭司、預言者がその仕事に就く時に頭に香油を注がれました。これら3つの役目はひとつひとつ主イエス・キリストに当てはまります。このお方はお一人でこの3つの職を兼ね備えておられるのです。

 クリスマスに一人の赤ちゃんが生まれます。その方が成人してどのような救い主になられるかは注目するところです。主イエスはダビデ王の血筋を引くヨセフの家系に組み込まれるようにして、しかも男性の助けを借りない処女マリアからお生まれになりました。

 王は専制政治に陥りがちです。道をあやまてば、民衆を苦しめることにもなりかねません。しかし、イスラエルには羊飼いの心を持った王を求める伝統がありました。ダビデは少年の時は羊飼いであり、神の選びにより、王となります。しかもキリストがお生まれになったベツレヘムの出身です。ダビデは〝羊飼いの心を持った王〟である主イエス・キリストをあらかじめ、指し示しているとも言えるでしょう。

 詩編第23編では、神を羊飼いにたとえています。この羊飼いのイメージは主イエス・キリストと重なります。「主は羊飼いだ!」とみんなに公言してはばからない信仰は何と幸いではないでしょうか。この救い主がおられれば、他には何も要らない。満ち足りている。そのような喜びと確信とにあふれた信仰告白です。羊飼いのような救い主が来て下さり、どんなときにも共にいてくださいます。このような救い主のおいでを心から喜び、感謝することこそクリスマスの祝いなのです。

2011年12月4日 礼拝説教要旨

主題聖句 「捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」            

イザヤ書第61章1節

説教主題「解放を告げる知らせ」

 主イエスが成人され、宣教を開始してから、まず故郷のナザレの会堂で説教をされます。その日に開かれた聖書の箇所がこのイザヤ書第61章冒頭のみ言葉です。このみ言葉の朗読がなされたあと、聖書(巻物)を係の者にお返しになって、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスは言われました。この〝解放〟がイエス・キリストによって、また、キリストのうちに起こります。突き詰めて言えば、この御方こそ解放そのものと言えるのです。昔、神がイスラエルの民を通してされた、預言の一つが単に実現したというだけではありません。その解放の約束そのものがキリストの身に起こり、成就したのです。ナザレで宣教を開始されたイエス・キリストは、数年後、十字架に掛かり、死んで甦られます。そのご生涯と行われた御業において、主がもたらされる救いが罪からの救いであることが明らかにされました。〝解放〟とは何よりも罪の束縛からの解放と言えるでしょう。約束は実行されてこそ内実があり、実行されないままなら、神は約束を違え、人間を裏切ったことになります。私たちは主イエスのご生涯を知っています。この約束が〝空手形〟でないことをどのようにして知るのでしょうか。イエス・キリストの全生涯を通して以外にありません。この御方のご生涯を改めて思い巡らすとき、イザヤ書の約束が間違いなく、この御方において実現している。主イエスがご生涯を持って、約束の成就の保証、裏書きを与えてくださったことがわかるのです。

2011年11月27日 礼拝説教要旨

主題聖句 「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」   

フィリピの信徒への手紙第2章6節

説教主題 「人となられた神」

 今日から待降節の礼拝を守ります。クリスマスの季節はイエス・キリストがどのようなお方であるかを深く思い巡らすときです。

 ナザレにお生まれになり、宣教してのち、十字架にかけられ、甦られた主イエスを「真の神にして、かつ同時に真の人」とキリストの教会は最初から言い表してきました。これが教会の信仰告白です。このフィリピの信徒への手紙も「キリストは神の身分でありながら」と言っています。

 真の〝神であることをおやめになることなく〟人となられ、さらに〝神のままで〟十字架にかかられ、死んで甦られました。その間も終始神であることを貫かれたのです。

 人間を救うために辿られた救い主の道筋は、父なる神がお決めになったといえるでしょう。その道をまるでお芝居を演じるようにキリストは何の苦もなくこなしてゆかれたとは思えません。荒野で40日悪魔から試みを受け、ゲツセマネでは血の汗を流して祈られました。さらに十字架の上で「神はなぜ、お見捨てになるのか」と叫ばれたのです。このように神のご意志に従うために激しく戦っておられるのは明らかです。

 救い主として地上にお生まれにならなければ、このような戦いを経験なさることも無かったでしょう。人の救いのためには大きな犠牲が必要です。救いのために犠牲を払わないで済む「神の身分」「神と等しい者」を主イエス・キリストはお考えになりません。自ら進んで、犠牲になることを引き受けてくださったのです。神のご愛を思わずにはおれません。

2011年11月20日 礼拝説教要旨

主題聖句 「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、…」   

フィリピの信徒への手紙第3章3節

説教主題 「キリスト・イエスを誇る」

 フィリピの信徒への手紙を読んでいると、神が与えてくださる喜びがまるで波状攻撃のように迫ってきます。ところが、第3章2節からは立て続けに「注意しなさい」「気をつけなさい」「警戒しなさい」とガラっと調子の変わった言い方になります。〝喜びの手紙〟からまるで〝戦いの手紙〟になったかのようです。非常に激しい調子です。

警戒を促されている相手は外部から、教会を迫害して、教会を潰そうとする人々ではありません。教会を誘惑し、正しい信仰から引き離し、間違った信仰に引っ張り込もうとするのです。

このような間違った信仰に迷わされないための方法は「キリスト・イエスを誇りとする」ことです。

 誇りはあながち悪いものとばかりは言えません。「人間としての誇り」を保たなければ、生きがいを失ってしまうからです。しかし、自分の尊厳を保つ「誇り」にも罪が忍びこんできて、誇ってはいけないことまでも誇るようになります。自分を誇るようになると傲慢に陥ります。それが特に救われることに関係してくるのです。イスラエルの人々は「割礼を受けているのだから、神が私たちを救ってくださるのは当然ではないか」と考えるようになります。それを突き詰めてゆけば、イエス・キリストによる救いが絶対的なものにならなくなります。

 「キリスト・イエスを誇りとする」とはキリスト以外に救いは無いと確信し、全面的により頼み、キリストを心から喜ぶことなのです。