2012年4月8日 礼拝説教要旨 

主題聖句  「さあ、行って弟子たちとペテロに告げなさい。『あのかたは、あなたがたよ  り先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』と。」

マルコ福音書第16章7節

説教主題「あの方は復活された」

 下線の部分を私なりにもっと丁寧に訳しますと「そして、あのペテロにもまた」となります。これまで、ペテロは12弟子の中で代表格のように扱われてきました。名前が出てくるときは、たいてい真っ先です。いわゆる「筆頭」の弟子でした。ところが、この箇所では、弟子たちとは区別され、末尾に名前が添えられています。

ペテロは3度も(つまり徹底的に)主イエスの弟子であることを否定しました。もう主に顔向けができないと思ったことでしょう。主が十字架の上で苦しまれることは自分の責任のように感じて、いたたまれなかったでしょう。いくら主イエスが復活なさったからといって、おいそれと自分の方から近づくことはできません。

穴があったら入りたいと気後れしているペテロが、負担に感じることなく、スーと主のもとに帰ってこられるように、主イエスの方から呼びかけられました。主のきめ細やかな愛情が感じられます。「ペテロよ、もちろん、君も、ちゃんとメンバーの中に入っているよ。君は大切な人なのだ。さあいらっしゃい。」しかもちっとも押し付けがましくありません。他の弟子たちとは区別し、最後にさりげなく、そっと名前を置かれたのでした。名前の順序を聞いて、ペテロは随分と気が楽になったことでしょう。また、自分のことを深く配慮してくださる主のご愛をもったいなく心から感謝したのです。だからこそ、再び復活の主にお目にかかり、立ち直ることができたのです。

 

 

2012年4月1日 礼拝説教要旨

主題聖句 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、…」  

             マタイによる福音書21章5節

 説教主題「あの方は復活された!」

  シオンとはエルサレムにある丘の名前で、やがてエルサレムの別名のように使われるようになりました。「シオンの娘」とはエルサレムに住む人々のことです。「エルサレムの人々よ。約束されていた救いが成し遂げられ、完成します。王が入場されます。」と預言書が告げます。王がおいでになるという二重の鍵カッコはイザヤ書とゼカリヤ書を組合わせた言葉だと言われています。神の都エルサレムに王がお入りになる。その目的は苦難を受けられ、十字架にかかられるためです。英雄、偉人の殉教ではなく、王が苦しみを受けられる―その王もこの世のユダヤの王ではありません。神の御子です。しかも苦しんで死なれる御子がすべてのものの王なのです。

  立て籠もっていた敵が、降参して城を明け渡すのなら、無抵抗ですんなりと入場できるでしょう。人間同士の争いではなく、神の御子は罪と戦われます。悪しき力が支配しているこの世界と戦い、王権を回復なさるのです。エルサレムはまさに罪が集約されている牙城と言えるでしょう。王の城を制圧すれば、支配者が交代することになります。その意味での戦いの場所は都の王宮でなければならないのです。

  真の王の入城が過越祭中に、起こったことも意味があります。出エジプト以来「過越」は解放を意味します。エジプトで奴隷であった神の民が解放されました。しかし、罪からの解放は御子が十字架に掛かり、「犠牲の子羊」になってくださることによって起こるのです。

2012年3月25日 礼拝説教要旨

主題聖句「…彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、…」             

 フィリピ3章19

説教主題「おのが腹を神とするな」

 上記のすぐ前の18節では「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」とありました。これは信仰者の話です。信者が十字架に敵対することなどあり得るだろうかと思います。口では十字架は大切だと言うでしょう。しかし十字架に対する信頼が体の芯にまで染みこんで、深く根を下ろしていない。生活の仕方は十字架の救いを蔑ろにし、無視するものとなっているのです。「多い」と言われると私たちの心が痛みます。自分もその中に含まれるからです。十字架がなくてもいいとは思わないでしょうが、十字架だけでは何か足りない。他の者で補わなければならないと考えるのです。

 十字架よりも自分で自分の救いを何とか出来ると考えるなら、その行き着くところは滅び以外の何ものでもありません。

 面白い表現があります。十字架を受け入れない者の正体は「腹を神とする」なのです。腹が神とは妙です。腹は「自分の腹」のことでしょう。結局、自分が神となっています。十戒で〝真の神以外のものを神とするな!〟と命令されています。つまり偶像礼拝に陥っているのです。おもしろがってなどおれません。事態は深刻で、このような救いを蔑ろにする人間の姿が現れてきました。

 十字架に背くと偶像礼拝や迷信に陥ります。しかし、そこから救うために十字架が私たちをズッシリと支えるのです。腹を神とする罪人を滅ぼさないで、救ってくださる。それが〝腹〟でない真の神なのです。

2012年3月18日 礼拝説教要旨

主題聖句 「…今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」             

フィリピ3章18節

説教主題「十字架に敵対するな」

  パウロには激情的な面もありました。しかし激情にかられ、冷静な判断を失ってしまうことは無かったはずです。そのパウロが「涙ながらに」訴えようとするのですから、これから述べるのは信仰者にとってよほど重要な内容に違いありません。

  「キリストの十字架に敵対して歩む」人々とは どのような人たちのことでしょうか。フィリピのキリスト者たちにパウロはこの手紙を書いています。十字架への敵対者が別の宗教や福音と異なる教えを信奉している人々とは考えにくいのです。福音によって生かされているはずの人々、つまり教会の信仰者たちの中にこのような人々が多くいるというのです。果たしてそのようなことがあるのでしょうか?

  キリスト者であれば、誰でも「主イエスの十字架による救いの恵みによって生きる」はずです。それは今更ながら、涙ながらに重要性を強調しなければならないとは思えません。ところが根本的なところは意外と盲点ですっぽり欠落してしまうものです。その人たちは口でキリストの十字架はいらないとまでは言わないでしょう。しかし、その人の生活ぶりを見ていると十字架はいらないと言っているのと同じで、それが「十字架に敵対している」ことなのです。キリストの救いは半分くらいは有効だけれど、残りの足りない部分を自分の良い行いで埋め合わせてあげなければならないと考えます。それは誤りです。

「キリストによる救いこそ、すべて!」パウロはこれに徹するのです。

2012年3月11日 礼拝説教要旨

主題聖句 「皆一緒にわたしに倣うものとなりなさい」

 フィリピ3章17節

説教主題「キリストによって生きる

   パウロは自分に自信があり、偉い信仰者だと思い込んでいるので「わたしに倣え」といっているのでしょうか。この「ものの言い方」は高慢な鼻持ちならないいやらしさを感じて、反発を感じる方もおられるかもしれません。「パウロ先生!あなたはそれほどお偉いの?」と皮肉のひとつも言いたくなります。
しかし、「自分を誇るのではなく、主キリストを誇れ」と常々言ってきたパウロが自分を誇るなどとは考えられません。キリスト者は神の前の謙遜さを求められます。自分は救われる資格も価値も無いと思っているはずです。「私は立派だから、私に見倣え」と言っていないことは確かです。それでは何を見倣えといっているのでしょうか?
パウロはコリントの信徒への手紙一 第11章1節でも「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と述べています。パウロの何に倣えというのでしょうか。パウロが主イエス・キリストに倣っているその姿勢です。煎じ詰めれば、「キリスト者はすべてキリストに倣って生きよ」ということなのです。当たり前の事かもしれません。しかし、いきなり「キリストに倣え」と言われると気後れする人もいるでしょう。そこでパウロは次のように言うのです。「私のように不完全ながら、キリストに従おうとしているものがいます。皆さんと同じ悩みを抱えながら戦っている私なら真似しやすいでしょう?」…このように自分の身を晒しつつ、信仰の仲間の前にキリストに従う見本として我が身を差し出しているのです。

2012年3月4日 礼拝説教要旨

主題聖句 「あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」                 

フィリピ3章15

説教主題「到達したところに基づいて」

   パウロは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」ただひとつのことに専心すると申しました。(第3章13節)この生き方は一面、純粋でひたむきと言えます。しかし、ちょっと落ち着いて考え直してみると、「一本調子で単純」、「勢いだけで、回りの状況全体が見えていない。」と指摘することもできます。

   しかし、ここは世間一般で言われている「前向きの生き方」を強調しているのではありません。キリスト者は自分が理想を追いかけ、グイグイ前に向かって生きることだけを求めません。神の守りと導きとを信じ、神の救いを確信します。そうしてはじめて神に喜ばれる生き方ができるのです。

   パウロはハッキリ自分の生き方を打ち出す一方で、冒頭の御言葉のように、信仰者の仲間が別の考えを持つことを許容します。同じ救いに与っているキリスト者の間でも「ずいぶん考えが違うな」と感じることがあります。おそらく大きな原因のひとつは成熟の度合いの違いでしょう。しかし、この人が成熟した大人で、あの人が成長過程にある子供だなどと誰も決めることはできません。みんな不十分で未発達です。しかし、信仰を持った立派な人なら、自分のことを今生まれたばかりの幼子のような未熟なものだと謙遜に認めるはずです。…そのことを自覚するなら一層信仰生活に励むでしょう。大人なら、そう考えるのではないですか?…とパウロは私たちに問いかけ、挑戦しているのです。

2012年2月26日 礼拝説教要旨

主題聖句 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに身を向けつつ、…目標を目指してひたすら走ることです。」  

フィリピ3章10

説教主題「目標を目指して」

 後ろのものとは何でしょうか。過去でしょうか。「済んだことをいつまでも悔やんでいても仕方がない。やってしまったことは変えられないのだから、それよりも将来のこと、いろいろな可能性の広がっているこれからのことを〝前向きに〟考えましょう。」などと言います。この〝前向き〟とは「悲観的にならず、より良くなることだけを目指し、積極的に生きて生きましょう。」という意味です。このような考えは、世間一般に広がっており、聖書が言わなくてもだれでも言いそうな事です。

 過去の失敗をくよくよ考えるのは良くないでしょう。しかし、過去の良い思い出、人に慰めてもらった経験が今の自分を支えている面もあります。過去のすべてがかならずしも悪い訳ではありません。それ故に「後ろのもの」は「過去」というより、神に対する罪なのではないでしょうか。自分の周りに不幸なことが起こると、過去に何か良くないことをしたせいで、その報いが回ってきているのではないかと考えてします。

 過去は忘れ去れば、気にならなくなるかもしれません。しかし、神に対する罪は、自分が忘れてもなお動かしがたく残っています。罪は消しようがないのです。

 罪は神が赦してくださってはじめて解決します。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」(エレミヤ第31章34節)犯した罪を神は赦してくださいます。この赦しを感謝して生きる時、私たちは、罪の重荷から解放され、目標に向かって歩みはじめるのです。

2012年2月19日 礼拝説教要旨

主題聖句 「何とかして、捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」 

        フィリピ 3章10節

説教主題「前のものにむかって」

 パウロはキリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかって、何とかして死者の中からの復活に達したいと申します。しかし、完全な者になっているとも言えないと付け加えます。

ここで言う「完全な者」とは〝悟りを開いて既に特別な境地に達した人〟とか〝解脱者〟を意味しているのではありません。〝成熟した大人〟のことです。つまりまだ自分は十分に成長しきっていないと言っているのです。

 大人にまで成熟していない子供も、人としての資質は備わっています。ただ、これからの成長の可能性を秘めており、また成長を期待もされているのです。完全の水準にまで到達していないのでダメだというのではありません。キリスト様に救われたと言うちゃんとした基礎は既に与えられています。例えばキリストを知るということを考えてみます。パウロといえどもキリストを知る知り方は十分とはいえないでしょう。しかし、知っているのは嘘ではないし、いい加減な気持ちでもないことも確かなのです。もっとも時に気持ちが揺らぐことも、がっくりくることもあるでしょう。しかし、おしなべてキリストを信じて生きてゆくのは間違いありません。「キリストを信じているから、もっとキリストを知りたい。」と望むことは当然といえば当然の願いなのです。与えられた救いや恵みをもっと成熟したより良いものにしたいと願うのは、実はパウロがイエス・キリストに捕らえられているからなのです。

2012年2月12日 礼拝説教要旨

主題聖句 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって…何とかして死者の中からの復活に達したい」

フィリピ 3章10節

説教主題「キリストの義」

  パウロはキリストを信じる、あるいはキリストを愛するという事を「キリストを知る」という言い方をします。キリストだけではありません。「その復活の力」を知るのです。力とはダイナマイトのもとになった言葉で「爆発する力」を表します。土砂崩れが起こり、トンネルの出入り口が落石で塞がれたとします。十分に安全性を確認し、ダイナマイトを用いられることがあります。救出に一刻を争う場合に瓦礫撤去に大きな威力を発揮するでしょう。主イエスのご復活にはそのようなエネルギーが秘められているのです。

  復活の力は第一に死を爆破します。さらに死を打ち破ることによって罪を打ち滅ぼします。人間をがんじがらめに縛っていた罪の力は並大抵のものではありません。「復活の力を知る」とはキリストが私たちを捉えている死と罪を打ち破られるとわかることなのです。

  私たちは相変わらず罪を犯します。それでも罪が支配者ではなく、罪に代わってイエス・キリストが私たちの主人となってくださるのです。

  すべてを清算して全く新しい人間になりたいと思うことはないですか。しかし、自分に与えられた能力・環境・性格は大体決まっており、今の自分からは抜け出しようがありません。だから新しくなりたいと思うし、また同時にそれは難しいとも感じてしまうのです。職業を変え、家族との関係を断ったところで新しくなりません。イエス・キリストの復活の力のような全てを爆破して打ち破る力が必要なのです。

2012年2月5日 礼拝説教要旨

主題聖句 「熱心の点では教会の迫害者…しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。] 

                       

フィリピの信徒への手紙 第3章6節7節

 

説教主題「神の憐れみの手本」

  パウロは自分の律法に対する熱心さを表す物差しとして「教会を迫害する者である」と申しました。それが誇りだというのです。このような言い方に対しては抵抗を感じます。いじめるのは良くありません。ましてやそれを自慢するなどひどい話です。しかし、福音を信じるキリスト者たちをユダヤ人の指導者や律法を信奉する人々は自分たちの宗教を破壊するけしからん者たちだと考えていました。何とかそのような悪影響を食い止めなければなりません。律法に熱心であり、自らの宗教を守る真面目さの現れがキリスト者たちを潰すことだと考えていたのです。

   そのパウロはキリ スト者たちを迫害していたさなか、180度変わります。信じる者たちを懲らしめるとは結局、大本におられる主イエス・キリストに歯向かうことです。その攻撃をしていた主イエスにお目に掛かったのです。このところの経緯について使徒言行録には3度も記述してあります。(9章、22章、26章)パウロの個人的な経験としてだけでなく、キリストの教会にとっても余程大きな出来事であったに違いありません。

   パウロはこの主との出会いを「主キリスト・イエスを知る」と表現します。滅ぼそうとするパウロを〝返り討ち〟にするどころか、限りない憐れみをもって近づき、赦して救ってくださったのです。そのような「愛の主イエス・キリストが分かった」と言って心から喜んだのです。