2022年12月4日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.48 この聖書の言葉は今日実現した

 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

                  ルカによる福音書第4章21節 

 

旧約時代に、神が預言者によって語られた、神の思い、ご意思は、むなしく消えることなく、時を経て、神から遣わされた御子において実現したという神の真実が今日の箇所に示されています。

主イエスが故郷ナザレに来て、いつもとおり安息日に会堂に入り礼拝をささげられました。聖書を朗読するために席を立たれたとき、係から手渡された巻物(当時は神の言葉は巻物に記されていた)が旧約聖書のイザヤ書でした。それをお開きになった主イエスの目が留まったのが、イザヤ書61章1,2節の言葉でした。

それを読まれた後、イエスは席に座ると、会堂にいたすべての人の目が注目する中、こう言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。すなわち、イエスが読んだこのイザヤ書の言葉は、あなたがたが耳にした通りに、今日実現したと言われたのです。もっと丁寧に言うと、この言葉は、今日、この時、この場であなたがたにおいて実現したのです。そのように、イザヤが語った、「主が遣わされた」わたしという存在によって神の御業が起こるというこの言葉は、今日、実現したのです。この言葉の通りに、この主イエスにおいて、救いが現わされるのです。何という驚くべき宣言でしょう。

2022年11月27日 礼拝説教

きょうどう-2022年 No.48 主の来臨の希望

 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせ

る。彼は公平と正義をもってこの国を治める。

                     エレミヤ書 第33章15節

秋も深まり、早く暗くなってきました。夜の暗さは、今の時代の闇を象徴しているかのようです。世界各地での戦争や紛争、コロナ感染の拡がり、厳しい経済状況など不安なことがあふれています。そのような暗い現実だからこそ、確かな希望を持って生きたいと願います。

今日の主題は、主の来臨の希望です。深い絶望ともいえる状況の中にある希望です。昔、紀元前6百年頃、ユダ王国は大国バビロンに攻め込まれ、王も民も捕虜となってバビロンに連行されていました。

預言者エレミヤは、ゼデキヤ王の時代に、神の命によって彼らユダ王国の王と民の罪を指摘し、神の裁きを宣告しました。彼らが神に信頼せず、神に従わず、偶像にのめりこんだゆえに、神は彼らを裁かれ、打ち殺します。けれども、神は彼らを深く憐れまれ、その傷をいやし、彼らを立て直されます。ダビデ王のような正義の若枝(王)を起こし、その王が公平と正義をもって国を治めるのです。そのような恵みの約束を、エレミヤは語り始めました。

この恵みの約束は、イエス・キリストの来臨において成就し、神の義があらわされたのです。さらに、再臨のキリストがお出でになる時、確かな救いが成し遂げられます。その救いを待ち望みましょう。

2022年11月20日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.47 同胞のための悲しみ

わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリスト
から離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

                   ローマの信徒への手紙 第9章3節

使徒パウロは、ローマ書においてイエス・キリストによって人類に与えられる福音を解き明かしてきました。8章ではキリストを通して人類に注がれた神の愛が力強く語られました。ところが、9章になると、これまでの燃え上がるような喜びの調べが急に深い悲しみと痛みの告白に変わっています。それは、神の愛と救いが全世界に与えられ、人々が喜びをもって受け入れているのに、自分の所属するユダヤの人たちがそれを拒んで、キリストを受け入れず、救いにあずかっていない状況があったからです。
パウロはキリストの福音に触れて、先祖伝来の神の約束が今や成就したと感じ、この喜びの知らせを同胞に宣べ伝えようとしました。ところが、同胞のユダヤ人たちがこれを拒否し、キリストを拒んだのです。それで、パウロはユダヤ人たちの反対の強いところでは、市街地や異邦人の家を用いて異邦人伝道に向かうようになりました。それで人々の中には、パウロがユダヤ人でありながら、ユダヤ人を顧みず、伝道をあきらめ、ただ異邦人だけのために働いているという非難がユダヤ人たちからなされたのです。それに対して、パウロは、自分は同胞ユダヤ人の救われるためならば、自分が救いから締め出されてもかまわないとさえ考えていますと告白するのです。それほどに同胞が救われるように真剣に祈っているのです。

2022年11月13日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.46 神の愛の勝利

 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを

愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。

          ローマの信徒への手紙 第8章37節    

 「わたしたちは…輝かしい勝利を収めています」。ここでパウロの語る勝利とはどのような勝利なのでしょうか。苦難のなかで、他者のために生き、かつ死ぬこと、自分を犠牲にし、他者に与えてしまう愛の勝利です。その愛の勝利は、主イエス・キリストの生涯とその御業に見られ、そして主イエスを信じる者の生涯にも見られる勝利です。

パウロの言う勝利は、「これらすべてのことにおいて」、すなわち、極めて困難な状況においての勝利です。35節にある「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」という厳しい苦難です。これらは、パウロが実際に体験していた苦難であり、今も体験している状況でした。

どんな状況か36節で詩編44編23節を引用して説明しています。この言葉は、イスラエルの民が周囲の民から攻撃を受けて苦しんでいるのは、主なる神のゆえに、一日中殺されていると苦難を訴えています。その言葉のように、パウロは、自分たちキリストを信じる者も今、主のために苦しんでいる。けれども、私たちはキリストの愛から決して引き離されることはない。それは、キリストが、私たちを愛し、ご自分を犠牲にして私たちを罪から救い出してくださったからです。このように私たちを愛してくださるお方によって私たちは勝利しているのです。

2022年11月6日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.45 神は私たちの味方

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわ

たしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

          ローマの信徒への手紙 第8章31節       

 「神が私たちの味方である」。これが、神が私たちに与えてくださる救いの事実を示す言い方です。ですが、パウロは、「もし神がわたしたちの味方であるならば」と、何か控えめに、私たちに向けて、あなたは、もし神を自分の味方であると認めているならば、と問いかけています。

神が私たちの味方ではない場合が、あるのでしょうか。いいえ、神はいつも私たちの味方です。ですが、神が私たちの味方ではなかった時がありました。それは、どんな時かと言うと、神が私たちの味方でなかったのではなく、私たちが神の敵になっていた時です。私たちが、神を敵のように思って、神と闘っていた時です。そういう私たちでしたのに、神は御子をこの世に遣わして、私たち人間をその罪から救い出すために、私たちに対する罰を、御子に負わせて、この御子を裁いて、私たちを救い出してくださいました。神の方からこの御子キリストを犠牲にして神との和解を与えてくださいました。

だから、神は私たちの味方です。神が私たちと共にいてくださいます。だから、私たちを攻撃する者たちが襲って来ても、私たちは守られるのです。私たちを救うために御子を惜しまず死に渡された神が、御子と共にすべてのものを賜るほどに私たちを愛してくださっているからです。

 

 

2022年10月30日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.44 神のご計画

   神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

                         ローマの信徒への手紙 第8章28節 

このみ言葉によって、希望を持てるようになったと言う人は多いのではないでしょうか。信仰を持っている者には、すべてが共に働いて益となるというのです。何事も思うようにならない世の中です。一時は、とても辛くてどうしてこんなことが起こるのかと理解できず苦しんでいたが、今になって見ると、あのことも意味があって恵みであることが分かったということがあります。そう解釈することは、自分の身勝手な説明だと思う人もあるかもしれません。

この言葉は、自分にとって都合の良いように解釈できる言葉に思えるかもしれませんが、実は、そう思う人間にとって便利な話ではなく、全く反対のことが言われているのです。人間が考えて都合のよいことを神が成就されることを言っているのではなく、神の御心の変わらないこと、神には揺るぐことのないご計画があって、それを変えることなく貫かれるということが、このみ言葉に示されている信仰です。それだからこそ、一切のことが私たちにとって益となることを確信できるのです。

「神を愛する 」とは、愛してくださる神を信頼することです。それは、神に望みをおき、神の御計画に信頼することです。苦難の中にも神に望みを置く者に、神は万事が益となるように働いてくださるのです。

 

2022年10月23日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.43 聖霊のとりなし

  同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

                  ローマの信徒への手紙 第8章26節   

 御霊が弱い私たちを助けてくださるということは、信仰を持つ私たちにとってとてもありがたいことです。大変ありがたいことなのだと覚えておきたいのです。実は、私たちは弱いからです。この弱いと言う意味は、人間としての弱さ、肉体が弱くなり病気をするという弱さと共に、日々生きていく上で、なすべきことを知りつつも、行うことができない心の弱さ、信仰の弱さを持っている私たちです。本当は弱い者なのです。

パウロは非常に優れた信仰者ですが、よく自分の弱さを知っていた人です。彼は健康上の問題を抱えていましたので、それを除いていただきたいと祈ったのですが、その度に「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と神は答えられました。そこから彼は弱さをありがたく思うようになりました(Ⅱコリント12:5~9)。しかし、病気だけが弱さではありません。様々な弱さに悩むのです。ですから、私たちに信仰を与えてくださった御霊が弱さに苦しむ私たちを助けとなってくださることは大きな力です。

私たちはどう祈るべきかわからないものです。何が正しい祈りかわかりません。その私たちのために御霊がとりなしてくださることは感謝です。

2022年10月16日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.42 神と共に生きる喜び

  わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。                詩編 第16章8節

 

詩編16編は、神への信頼を歌っています。信仰のすばらしさを賛美しています。詩人は、自分を攻撃してくる人たちの脅威を感じ、神に自分の身を守ってくださいと必死に叫んでいます。私たちも、自分の置かれている状況にも日々危険が満ちていますから、この叫びを日々神に向かって信じて求めましょう。

8節で、詩人は「わたしは絶えず主に相対しています」と告白します。多くの人はいつも人を見て、誰かの顔色をうかがい、他の人の期待に添うような生き方をしがちです。しかし、この詩人は、「主」、自分を生かし支えてくださる神を信じ、この方を見て、主を前に置いてすべてのことを行い、主のご期待に添うようにと考えようとしています。

そうできるのは、「主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません」からです。主がわたしの右にいて支えてくださるからです。自分が主を見て、主が自分のそばにおられると意識しているのです。人は、自分の支えとなる人の眼差しを意識し、その期待に添おうとするのが常ですが、目に見える助け手の背後におられる方こそ、主です。その主の支えこそが、力強い支えですから、この支えを覚えて、主の前に自分が立たされていることを意識し、主に対する責任を果たす気持ちですべてのことを行いたいものです。そうするとき、神に支えられている喜びが生まれます。

2022年10月9日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.41 わたしたちの望み

 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。

  ローマの信徒への手紙 第8章24節

 

パウロが、このローマの信徒への手紙で伝えている福音(良き知らせ)は、主イエス・キリストの現わされた救いによって、信じる者が義とされ、神との間に平和が与えられているだけでなく、神の栄光にあずかる希望も与えられると教えています。5章1,2節にある通りです。

「神の栄光にあずかる希望」とは、やがて世の終わりの時、キリストが再臨されるときに、私たちに栄光が与えられるという希望です。その時を私たちは待ち望んでいるのです。

現在、私たちがこの世において様々な苦しみを味わっています。うめき苦しんでいます。そのような苦しみの中にあるからこそ、神の栄光が神から与えられるということは、私たちにとって大きな希望、救いなのです。

現在、この世に生きる私たちは信仰によって神の子として生かされていうのですが、この世に生きる私たちの体に弱さ、汚れ、罪が内在するゆえに、まだ本当の神の子の実質を味わってはいません。やがて世の終わりの時、キリストがお出でくださるとき、贖い出されて、キリストと同じ神の子の栄光の体に変えていただけるのです。このことが確かな希望である根拠は、神が私たちを救うために、私たちの代わりにキリストを十字架につけて裁かれて、死から復活させられた神の御業が現わされたからです。

2022年10月2日(日)) 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.40 神の霊に導かれる者

 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

  ローマの信徒への手紙 第8章14節

 

イエス・キリストの現わされた救いを、この私のためになしていただいたと信じて歩み始めている私たちです。キリストの救いによって罪が赦され、戒めから解き放たれて生かされています。その恵みを恩に感じて感謝して歩み始めています。

「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)。

恵みに感謝し生きるためには、体の仕業を絶たなければなりません。体の仕業、すなわち、人間の持つ肉の欲望が私たちの体において生じて罪深い働きを大きく起こして、神様に従って生きることを弱め、妨げてしまうからです。実際の生活で、欲望のままに行動してしまいがちな私たちではないでしょうか。体の仕業を絶つことは難しいと思いますが、神の霊が助けてくださるのです。この霊によって絶つ時、私たちは生きるのです。

体の仕業を絶つように神の霊が私たちの内に宿って、働いてくださるのです。この霊が私たちを導かれるのです。その霊の導きに気づいているでしょうか。神の霊に一層導かれて神の子として歩むことを求めて生きたいものです。

私たちの内に宿ってくださっている神の霊は、恐れを抱かせる奴隷の霊ではなく、神の子としてくださる霊です。この霊によって「アッバ、父よ」と父なる神様に向かって親しみを込めて呼びかけることができるのです。