2023年5月28日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.22  聖霊の降臨

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。              使徒言行録 第2章4節

 

本日は、聖霊降臨日です。ペンテコステ(第五十)とも言われます。

復活された主イエスが天に上られる前に、弟子たちに「聖霊が降る」ことを約束しておられました(ルカ24:49、使徒1:5)。それで彼らは皆一つ所に集まって心合わせて熱心に聖霊を祈り求めて待っていました。

「五旬祭」。五十日目の祭。ギリシャ語で「ペンテコステ」と呼ばれるユダヤ教の祭の時も、彼らが一つになって集まっていたところ、突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らの座っていた家中に響き、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまったのです。すると、一同が聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままにほかの国々の言葉で語り出したのです。彼らが聖霊に導かれて、大胆に語り出したのです。

彼ら弟子たちは、人前で語る勇気を持っていない人たちでしたのに、そんな彼らが今、人々の前で大胆に語り始めたのです。しかもほかの国々の言葉を語り出したのです。その物音を聞きつけて集まって来た天下のあらゆる国から帰って来た信心深いユダヤ人たちは、目の前で弟子たちが自分の故郷の言葉で神の御業を語るのを聞いてあっけにとられてしまいました。聞いている人々自身が、理解できる言葉で語られたのです。このような証しによってキリストを信じる人々が起こされたのです

2023年5月21日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.21  託された大切な使命

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。                        

 マタイによる福音書第28章19節

 

このみ言葉は、復活された主イエスが天に上げられる直前に、地上に残していく弟子たちに託された大切な使命です。

この使命を伝える前提が、「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている」という主イエスの権能です。主イエスは、権威ある教えをなさり、人の罪を赦す権威をお持ちであり、病や悪霊を追い出す建機をお持ちの方でした。その方が、神の御心に従い、十字架の死にまで従われましたが、神の御力によって死者の中から復活され、すべての支配と権威の上に立たれたのです。イエスは主であり、すべてを支配しておられます。この偉大な権能をお持ちの主イエスが、弟子たちに、そして主イエスを信じる者たちに託された使命がこれです。「行って、すべての民を主イエスの弟子とする」ことです。

すなわち、主イエスがまことの救い主であると人々に知らせることです。それは、主イエスが私たちを愛し、私たちを救うために、ご自分のいのちを捨てて救いを成し遂げられたお方だからです。この愛と救いによって私たちは神の前に罪赦され、救いを頂きました。この救いによって私たちは生かされています。すべての人にも、自分が受けた救いを受けて幸せになってほしいものです。私たちの愛する家族や友が、主イエスが救い主であると知ることができますように信じて祈ろう。

2023年5月14日 M・フランシス著「聖霊に満たされてから」の引用

きょうどう-2023年 No.20  イエスの歩まれた従順の道

 

神を愛する多くの人々が、信仰によって聖霊を内にいただきながら、落ち着きのない生活をしているのが現状です。不当に非難されたり、中傷されたりするとイライラしてくるのです。…疑い、迷い…ついに自分の人間的な経験によってものごとを判断し…暮らすようになります。

愛する皆さん。多くの人々がこの点でつまずくのは無理もないことですが、聖霊は私たちを人間として完全な者にするわけでもないのです。正直に言って、多くの信者は、聖霊が神の目でご覧になるような「自我の醜い姿」を私たちに示そうと望んでおられることを知らないと思います。だから人々は醜い自我をそのままにして、せっかくイエス・キリストの十字架の死にあわそうとする神のみこころに従いません。

さて、死にあわされる道とは、おのれを低くする従順の道のことです。イエスの歩まれた道は、従順に十字架の死へ進む道でありました。イエスはご自身を低くして、神の御子にふさわしくない人間の姿をとられました。これはイエスが…進んで創られたものの姿をとって、私たちのところに来てくださったということです。これは非常に意味の深いことで、私たちには知り尽くすことはできませんが、さらに主は、私たちに仕える者として…最低の立場に身を置く人間になられました。こうして十字架の死に至るまで従順であられたのです。…主が私たちに望んでおられるのは…このような態度ではないでしょうか。M・フランシス著「聖霊に満たされてから」の引用

2023年5月7日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.19  友と呼んでくださる主

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。 

                    ヨハネによる福音書第15章15節

 私たちは、キリストを主と信じ、キリストの尊い血によって買い取られた者たちです。すなわち、キリストの奴隷です。罪の奴隷であった者でしたが、キリストの血によって買い取っていただき、キリストの奴隷となった者たちです。しかし、主イエスはこう言われました。あなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶと言われました。何という特権でしょうか。キリストが「わたしの友」と呼んでくださる間柄に私たちを入れてくださったのです。

昔アブラハムは「神の友」と呼ばれました。「神の友」と呼ばれたアブラハムに対して、神はこう言われました。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」(創世記18:17)神はアブラハムにご自分のしようとしておられるご計画を示されたのです。

そのように、私たちキリスト者にも主イエスは「友」と呼んでくださいます。ということは、父なる神から聞いたことを皆私たちに知らされるのです。主イエスは、これからなさろうとしておられるすべてのご計画、御心を私たちに示してくださるのです。主イエスは私たちのために命を捨てて私たちを愛してくださいました。それゆえ、私たちは、主の御心をいつでも知ることができるのです。