2014年11月9日 礼拝説教要旨

神の国は成長する

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第4章26-34節

 

主題聖句:「…種は目を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」             

マルコによる福音書第4章27節 

                                   

「神の国は次のようなものである」(4章26節)とか「神の国を何にたとえようか。」(4章30節)と前置きをして、主イエスは語られました。それが、「成長する種」、「からし種」のたとえです。弟子たちには神の国の秘密が打ち明けられています。意識を集中し、耳をそばだてて聞けば、覆いが取り除かれて、たとえの方から語りはじめます。奥義が明らかにされるのです。植物の発芽の様子をひとコマひとコマ撮影してつなぎ、早送りをすると映画のようになります。数週間かかる種の成長が、あたかも1分くらいで起こったように見える映像をご覧になったことがあるでしょう。でも、草花の栽培に興味を持たないかぎり、生育の実態をつぶさに見ることはありません。気にも留めないあいだに庭の雑草は驚くほど、はびこっているものです。

 

「神の国は人知れず成長している」と主イエスは言われます。主イエスが宣教を開始され、病の人が癒やされます。しかし、世の中から病がすべて無くなったわけではありません。神の支配が始まったと言っても、世界規模から考えればささやかなものです。主イエスの伝道の後半から十字架への道がハッキリします。それに伴い、〝奇跡〟と言われる行為はめっきり少なくなります。最大の奇跡は罪の赦しのための十字架と復活です。イエス・キリストは人知れず、十字架への道を着々と進んでゆかれます。

 

わたしたちは心が鈍くて、神の推し進めておられる救いに気が付きません。「聞く耳のあるものは聞け!」と主は言われました。人間の手を借りず、救いの御業を主はなさいます。その業に私たちは目を開かれたいのです。

2014年11月2日 礼拝説教要旨

 

ともし火をかかげよ

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第4章21-25節

 

主題聖句:「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか。」             

マルコによる福音書 第4章21

                                    

「ともし火を持って来るのは…」の、もとの言葉をそのまま日本語に置きかえると「ともし火はやってくるだろうか」(岩波書店訳聖書脚注)となります。この翻訳だと、ともし火がまるで人間みたいです。足が生えてトコトコ歩いてこちらへやってくるかのような印象を与えます。したがって大部分の日本語訳が「ともし火を持って来る」と人間が持ち運んだように訳します。

 

しかし、主イエスがご自分を「ともし火」に譬えられたと考えると、理屈にあうように余分な言葉を加えて翻訳する必要はありません。

 

喩え話は、内容とそれを語られた主イエス・キリストとを切り離して考えてはならないのです。「神の国」つまり「神のご支配」は主イエスの宣教とともに始まります。「ともし火」はこの罪の世に救いの希望をもたらします。高く掲げてはじめて、ともし火は部屋の中を明るくすることができるのです。土間やベッドの下に置くと、十分に光を行き渡らせることができません。宝の持ち腐れです。もったいない!! 「キリストとともに救いが来た」とみんなに告げて回ること、それが伝道です。弟子たち、すなわちキリストをともし火として信じる教会は、ともし火を高く掲げて燭台の上に置き、「キリストにこそ、光があります」と宣伝して回るのです。

 

一時期、ともし火が人の目から隠されているように見えることがあります。しかし、内に秘められているだけで、輝く力を無くしたわけではありません。燭台の上に置きさえすれば、ともし火そのものが光り輝きはじめます。伝道とはその光そのものの力を信じて、掲げることを意味するのです。

 

2014年10月26日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

種をまく人

 

マルコによる福音書 第4章1-20節

 

主題聖句:「良い土地に蒔かれたものとは、み言葉を聞いて受け入れる人たちであり、…」             

マルコによる福音書 第4章20

                                    

マルコによる福音書を読み始めて、主イエスのなさった説教をまとめて書いてあるところはありませんでした。しかし、この4章からは内容が詳しく記されています。その教え方の特徴が「たとえ」です。「…多くのたとえでみ言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが…」(第4章34節)この後にこのように出てきます。主イエスの用いられた説教の形式がすべていわゆる〝喩え話〟であったとは考えにくいのです。

 

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って主イエスは宣教を開始されました。伝えたい内容の中心点は「神の国」あるいは「福音」であるはずです。その内容を伝えるのにもっとも適している語り方として「たとえ」を主イエスが用いられたということでしょう。

 

「たとえ」は旧約聖書以来「知恵の言葉」あるいは「謎」と考えられてきました。ある意味隠されているのです。カプセル状のお薬のように、中味は外界からは隔てられています。主イエスの教えを聞いて受け入れ、決断して従う時にはじめて真価を発揮します。神のご支配は外側から眺めているだけではわかりません。信じて従ってみた結果、「なるほど、神さまが自分を捕まえくださっていたんだ」と、後から体験的に納得するものなのです。

 

「たとえ」は〝両刃の剣〟です。聞く人が心を閉ざして、真理の中に飛び込もうとしなければ、殻の中に閉じ込められた〝神の国の奥義〟が聞くものに届きません。だから「聞き方に注意せよ」と主イエスは言われるのです。弟子には神の国の秘密が打ち明けられています。聞き方によるのです。

2014年9月7日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

「レビの召命」

 

エレミヤ書 第1章4-10節

マルコによる福音書 第2章18-22節

主題聖句:「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」            マルコによる福音書 第2章17節 

                                   

再び主イエスは湖のほとりに出て行かれます。以前、湖のほとりで4人の漁師を最初のお弟子として招かれました。このような場所で主イエスは誰かとの新たな出会いをなさるのでしょうか。4人の漁師はごく普通の善良な労働者です。漁師という職業のゆえに、〝罪人〟と後ろ指をさされ、非難されることはなかったでしょう。4人が弟子とされる時、彼らが神の前にどのようであるか、“清くて汚れのない”人たちであるかどうかは問題にされません。「従って来なさい」と主イエスが声をかけられたから、従っただけです。

 

ところが重い皮膚病の人(マルコ1:40)も徴税人も、その病の性質や職業からして、当時の社会から〝罪人〟だと決めつけられ、蔑まれた人々でした。確かに同胞から血税を搾り取り、外国のローマ帝国に徴税人は上納します。ついでに役得と称して“上前もはね”るのです。だから、この人達がユダヤ社会の〝敵〟または〝仇〟とみなされても仕方がないのかもしれません。ユダヤ人の掟からすれば、徴税人は毛嫌いされるでしょう。しかし、4人の漁師たちやファリサイ派の律法学者に比べて、徴税人は神の前にことさらに罪が深いのでしょうか。そんなはずはありません。神の前には皆等しく罪深いのです。そのような人間すべてを救うために、主イエス・キリストは来てくださいました。「罪人を招くためにきた」と言われます。「自分は良いことをしない代わりに、神に裁かれるほどの悪いこともしない人間だ」と自分のことを思っています。しかし、その私たちに神の前における姿を突きつけ、「そのあなたを救うために来た」と主イエスは言われるのです。

 

2014年8月10日 礼拝説教要旨

奇跡と癒やし

 

政所 邦明 牧師

 

イザヤ書 第44章24-28節

マルコによる福音書 第2章1-12節

主題聖句:「…人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」    

マルコによる福音書 第2章10

                                    

ガリラヤの町々村々で主イエスは「神の国が来た」と言って福音を宣べ伝えられました。多くの病気の人が連れて来られると人々を癒やされ、悪霊を追い出されます。〝奇跡的〟に癒やされると言う現象が起こるのです。

 

人それぞれに抱えている問題は違うでしょう。健康、経済生活、人との不和などいろいろあります。困り果てて〝奇跡的〟な事態の好転、解決をもとめて主イエスのところにやってきます。中風の人を連れてきた4人は、体の麻痺を良くしてほしいとだけ願って、屋根を剥ぎ、床を主イエスの前に吊り降ろしました。“なりふり構わない”激しい行動です。そのような事までして主に願ったのは、中風の人の体が動くようになることだと思います。

 

この4人の行為の中に主イエスは信仰を見られました。そして「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃいます。「神の国が来た」とは自分の困窮が奇跡的に解決し、欲求が満たされることではありません。対症療法的に次々問題が解決したとしても、人間の根本に横たわる罪が赦されない限り、わたしたちは神の前に安心して立つことができません。最大の奇跡は主イエスが死から甦られたことです。主イエスの救いの業を通して罪が赦されることの証が〝主のご復活〟と言えるでしょう。奇跡中の奇跡は罪の赦しです。「神の国、すなわち〝神のご支配〟が始まった」と主はお告げになりました。それは病が癒やされ、悪霊が追い出される〝奇跡の時〝が来たことを意味しません。「救い主イエス・キリストと共に罪が赦される時代」が来たのです。わたしたちはこの罪の赦しにすべてをかけ、すべてを委ねてゆくのです。

 

2014年8月3日 礼拝説教要旨

交わりへの回復

 

政所 邦明 牧師

 

レビ記 第14章1-9節

マルコによる福音書 第1章40-45節

 

主題聖句:「…厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さいないように気をつけなさい。」       

マルコによる福音書 第1章43、44節 

                                   

主イエスがガリラヤの町々村々で神の福音を宣べ伝えると、たちまちこの御方の評判は隅々にまで広がります。ある重い皮膚病を患っている人が窮状を訴えて、主イエスに清めてもらいに来ました。この人はおそらく人の住まないような町外れに、社会から隔離されてポツンと暮らしていたのでしょう。この種の病気の人は、〝癒される〟とは言わないで〝清くされる〟となっています。それがこの病の特徴です。自分では症状が回復したと思っても、祭司に診察してもらい、治癒診断のあと、神殿に犠牲をささげて、はじめて、ユダヤ人社会へ入ってゆくことができるのです。病が癒えても、ほかのユダヤ人たちが自分を交わりの中に受け入れてくれるかどうか、この人は不安だったと思います。そのことをわきまえておられた主イエスは祭司にちゃんと手続きをしてもらい、誰からも咎められることなく社会に入って行くように重い皮膚病だった人の背中を強く押されたのです。

 

「ナザレのイエス様が皮膚病を治してくれた」と、この人が触れまわれば、宣伝効果は抜群かも知れません。しかし、一切を秘密にするように主イエスは言われました。病が癒やされることは「神のご支配(神の国)」が確かに来たことの証拠です。しかし、それがすべてではありません。〝癒やし〟を自己宣伝のための〝目玉商品〟にすることを主は厳に慎まれました。神の国が宣べ伝えられることが第一の目的です。最後は十字架と復活によって、人が罪から解放されることを主イエスは明らかにされます。その時までお急ぎになりません。明らかになる時まで救いの真理を秘密にしておかれるのです。

 

 

2014年7月20日 礼拝説教要旨

汚れた霊をも追い出す権威

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第1章21-28節

 

主題聖句:「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」            

マルコによる福音書 第1章27節 

                                   

 

汚れた霊にとりつかれた人が福音書に登場します。「憑依」(ひょうい)妄想という言葉があります。「悪霊、あるいは動物の霊にのりうつられ、引き回され、支配されていると妄想すること」を言います。昔は異常な行動、また奇行をする人の原因をそのように考えたのでしょう。どこの世界でもあると思います。しかし、心の病なのに、うまく解明ができず“何か得体のしれない力”を持ち出して説明するのは“非科学的”だと避難されます。“もののけ”に支配されるというのはありえない。仮にあったとしても特殊な心霊現象で、自分たちとは関係ないと決めつけるのです。

 

わたしたちは何か一つのものの考え方に取り憑かれて突き動かされ、支配されることはないでしょうか。「競争社会で勝ち残らなければ滅んでしまう。」あるいは「良い学校に入れば将来は保証される」などです。盲信に近い思い込みにさえなります。「その時代に優勢な考え方に巻き込まれ、押し流されていない」と誰が自信をもって言えるでしょうか。“狐に憑かれた”などというとみんな眉をひそめます。ところが、「時代を支配する考え方がその時代に生きる人をとりこにしている」というと、現実味を帯びてきます。

 

バプテスマのヨハネによって主イエスが洗礼を受けられた時、聖霊が鳩のようにくだられました。「愛する子、心に適う者」と主イエスに対して父なる神は保証を与えられました。(マルコ1:11)その神の力を帯びて、神に逆らう力を滅ぼし、その力に捕らえられている人を解放するために、主イエス・キリストは来られました。福音を携え、ガリラヤの会堂で教えられたのです。

2014年7月13日 礼拝説教要旨

主はわたしの羊飼い

 

政所 邦明 牧師

 

詩編 23編1-6節

ヨハネによる福音書 第10章11-18節

 

主題聖句:「死の陰の谷をゆく時もわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」                

詩篇第23編4

                                    

半年をかけて学んできたダビデは「先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られ…」ます。(列王記上第2章10節) 全国統一をなした王にふさわしく盛大な葬儀が営まれ、そのことが書かれているかと想像しました。ところが、葬りの様子などは一切記されておりません。まことにあっさりしたものです。「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている」とダビデは息子ソロモンに言い残しました。死とはダビデにとって①神の手の中に落ちること、②安心して憩うこと、なので、ことさらに騒ぎ立てる必要もなかったのでしょう。葬儀のことを何も書かないというあたり、信仰に生きたダビデらしさを現しているように思います。

 

半年間、慣れ親しんだ信仰の先生ダビデを記念し、偲ぶことにします。例えば、ダビデの作と言われる詩篇第23編に“人となり”と信仰とがよく現れています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」この言葉に尽きるのではないでしょうか。かつては羊飼いの少年で、後には羊飼いの心を持つ“王”として国民という羊たちの群れを養ってゆくようになります。

 

しかし、神の前には今度は一匹の“羊”の立場に立つのです。自分の全生涯を振り返えれば、あらゆる面で“欠乏”を感じることはありませんでした。一歩間違えば、崖を踏み外し奈落の底に落ちても不思議でないところを、紙一重で踏みとどまり、生かされる連続でした。… このように、サムエル記上下のダビデにまつわる場面、場面を思い起こすたびに、「主は羊飼い」と告白するダビデの言葉が真実、胸に迫ってくるのです。

2014年7月6日 礼拝説教要旨

ダビデの死

 

政所 邦明 牧師

 

列王記上 第2章1-12節

ヘブライ人への手紙 第12章10-12節

 

主題聖句:「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。」         

列王記上 第2章2節 

                                   

ダビデは自分の死期が迫っていることを悟っています。この世界に存在する“生きとし生けるもの”が「死すべき限界のあるもの」であることはだれでも認めざるをえません。しかし、自分の死も神の御手の中にあることをダビデは信じていたのです。誰にとっても死が厳しい現実であるのには変わりがありません。しかし、死にゆく自分をはかなんだり、ヤケを起こして、取り乱すようなことはしませんでした。…神のご支配の中で、命を与えられ、王として任命され、その役目が終わったので死んでゆく。…生きるにしても、死んでゆくときにも、“神のもの”にされている。このことにたった一つの慰めをダビデは見出していたのではないでしょうか。

 

「たとえわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」(詩篇第23篇4節:口語訳)のダビデの言葉が響いてきます。死に際してのダビデの気持ちをこれほど端的に表している言葉はないと思います。信仰があるからこそ言えた言葉なのです。

 

神が一方的にお選びになり、ダビデを王としておたてになったのは彼の人生において決定的でした。(サムエル記上第16章12節)さらに「ダビデの子孫によって王座を堅く据え、王国がゆるぎのないものする。(サムエル記下第7章13,14節)」と神はダビデに約束されます。

 

ソロモンに「勇ましく、雄々しくあれ」と励まします。信仰を息子に継いでもらいたいと思いました。一番確かな方にしがみついて離れないように促したのです。神から離れないことこそ、ほんとうの強さの源なのです。

2014年6月29日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

祭 壇

 

サムエル記下 第24章18-25節

ヘブライ人への手紙 第13章10-16節

 

主題聖句:ダビデはガドに言った。「…主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」   

サムエル記下第24章1

                                    

ダビデは人口調査を思い立ちます。統計を取り、客観的に国力を知りたかったからでしょうか?調査をすると、徴兵できる男子の数を把握できます。調査は戦争の準備になり、結局は自分の力を誇ることに通じます。そのことに気がついたダビデはたいそう悔やみました。

人口調査の発端を聖書は次のように述べます。「主は、『イスラエルとユダの人口を数えよ』とダビデを誘われた。」(サムエル記下第24章1節)わたしたちを悩ませる表現です。神が人を悪に誘い込むことは考えにくいのです。(ヤコブの手紙第1章13節) ダビデの心が人口調査に傾いたということでしょうか。ダビデの選択に当たって、神が無理に仕向けられたとは思いません。調査をしない選択肢もあったはずです。本音は自分がしたいだけなのです。それなのに「あなたの望むようにしなさい」と神がおっしゃっているかのようにわたしたちは錯覚します。自分の思い込みと神のみ心を混同し、すべて神のせいにしたことをダビデは恥じたのだと思います。

 

この罪に対して先見者(預言者)ガドを通じて神はダビデに語られました。3つの刑罰のうちから1つを選ぶように言われたのです。その時にダビデは自分で選択せず、一切を神に委ねました。「神のお決めになることはどのような内容でも甘んじて受けます。」自分に任された選択権を卑怯にも回避したのではありません。自分の思いのままに人口調査を断行して失敗したダビデは委ねる幸いを学び取ったのです。その信仰は、アラウナの麦打ち場を自費で買い求め、祭壇を築いて礼拝する行為となって現れたのです。