2015年5月10日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

共にいて下さる神

 

創世記 第31章1-13節

マタイによる福音書 第28章16-20節

 

主題聖句:「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」           

マタイによる福音書第2820

                                   

復活された主イエス・キリストは弟子たちを再びガリラヤに集められます。ここを新しい出発の場所とされたのです。ガリラヤの高い山で11弟子たちに主イエスは出会ってくださいました。紛れも無い出来事として復活された方が神の力をもって現れてくださったのです。その厳かさにうたれたのでしょう。弟子たちはひれ伏さざるを得ません。礼拝をします。しかし、この時の様子をマタイ福音書は正直に伝えています。「疑う者もいた」何人かの者は疑ったのです。完全に信じた人と疑いを含んでいた人と2つのグループがあったとは思いません。みんな大なり、少なり、信じることにためらいがあったのです。完璧な信仰者などありません。目の前にイエス様がいらっしゃいます。疑いようなどないはずです。「幻でも見たのか」と自分の目を疑ったのでしょうか。そうではなく、思わずひれ伏した弟子たちにとっても、常識からすれば“復活はありえない出来事”であり、戸惑いを覚えざるを得なかったということでしょう。見たり聞いたりする自分の感覚にだけ頼ろうとすると、主イエスの復活は不確かになります。復活は見て確かめるのではなく、最後は信じるべき事柄なのです。

 

弟子たちから疑いを取り去って、その後伝道に遣わされようと主はされません。疑いがあったとしてもそのままにして、弟子たちに近づいてゆかれ、宣教の命令を出して、遣わされます。弟子たちは宣教する中で主イエスが自分たちと共におられることに気がついていきます。伝道の経験の中で疑いが消えて行き、主が生きておられる確信に変えられていったのです。

 

2015年5月3日 礼拝説教要旨

ここは神の家

 

政所 邦明 牧師

 

創世記 第28章10-17節

 

主題聖句:「…ここはなんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」           

創世記第25章23

                                   

 

生まれた時を起点し、死ぬ時を終点とします。「その2点に挟まれた線分(数学用語)が自分に与えられた人生である」としましょう。人生の中でも進学、就職、結婚など一般に重要であるとされる時があります。そのような節目、節目に、神の御心を尋ね、過ちに気づかされたら、悔い改め、その後、感謝をささげて、もう一度出発できたらどれほど幸いでしょうか。重要と思われる時は、とりわけ神と祈りにおいて格闘するものです。

 

人生を左右する分け目の時だけとは限りません。「キリスト者の生涯は毎日が悔い改めである」とルターは言いました。起床から就寝まで、場合によれば寝ている間も、祈る生活であればこれほどの幸いはありません。

 

「ズルい」ことをして、そのまま家庭に居続けることができなくなったので、母方の伯父のもとへヤコブは逃れます。途中、野宿することになりました。兄エサウと父イサクを騙し、長子の権利と神の祝福を奪い取ったヤコブです。〝してやったり〟と、ほくそ笑んでばかりいたのでしょうか。そうでもないでしょう。親子、兄弟の関係は崩れてしまいました。悔やんでもいたはずです。ヤコブは夢を見ます。天に階段があり、天使が上がったり下りたりしていました。ヤコブにみ言葉を運んでいたのです。御心を告げようとしたのでしょう。ヤコブにとって、そここそが礼拝する場所でした。よく朝、目が覚めたヤコブは、神がこの場におられることを知ります。居住まいを正し、記念碑を立て、礼拝して、出発の起点としたのです。

2015年4月26日 礼拝説教要旨

ヤコブとエサウ

 

政所 邦明 牧師

 

創世記 第25章19-34節

 

主題聖句:「…二つの民があなたの腹の中で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」    

創世記第25章23

                                   

旧約聖書の神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれます。親・子・孫、3世代に亘って、神の祝福の約束が受け継がれて行きます。アブラハムは〝信仰の父〟として尊敬されてきました。神の祝福の約束を信じ抜いた模範であり、〝ひな形〟の人物と言えるでしょう。しかし、祝福の約束を受け継ぐのは容易ではありません。イサクに双子の男子が授かります。胎児の時から二人は母親の胎内で争い、出産の時には行く末が案じられる出来事が起こります。先に産まれた兄エサウのかかとを掴んだまま、弟ヤコブが続いて産まれたのです。“兄を先に行かせたくない!”とする野心を、かかとをつかむ行為で弟ヤコブは表したのだと思います。

 

二人が大人になり、長男としての神の祝福の約束をどちらが受け継ぐかで争いが起こりました。弟ヤコブは周到に準備し、機会を伺い、兄の弱みにつけこんで、一杯の食べ物と長男の特権とを巧みに交換させてしまいます。創世記は「エサウは長子の権利を軽んじた」(25:34)と評定をくだします。ヤコブはずる賢いのです。褒められることをしたとは思いません。ただ神の祝福の約束は何としてでも手に入れたいと願いました。私たちがヤコブから学ぶべき点があるとすれば、あらゆる機会を捉え、力を尽くして救いを得たいと願う心を彼が、持っていたことではないでしょうか。しかし、兄も弟も両親も人間の欲や好みをむき出しにして策略をめぐらし、駆け引きをします。私たちの姿を見るようで嫌になります。でも「兄は弟に仕える」と予告されていた神のご意思が、色々な人の思惑に阻まれることなく、貫かれたのです。

2015年4月19日 礼拝説教要旨

驚くべき光の中で

 

政所 邦明 牧師

 

ルカによる福音書 第5章1-11節

 

主題聖句:「シモンは『…しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」              

ルカによる福音書 第5章5

                                    

一晩中、漁をしても何も取れなかったペトロに「沖へ漕ぎだして、網を降ろし、漁をしなさい」と主イエスは命令されます。長年魚をとって生計をたててきたペトロにとっては、非常識極まりない指令です。〝それにもかかわらず〟漁師としての理性的な判断より、主イエスの言葉に信頼し、ペトロは身を委ねました。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」

 

この出来事を「ペトロたちの上に輝くばかりの光を、神は照り輝かせられた」と理解することができます。失敗し、失意の中に落ちてしまうことがあります。自分で気持ちを立て直し、もう一度仕事に挑んでみるのは簡単なことではありません。しかし、イエス・キリストと関わりのある人間は、用意を整え、臆病になることなく、意欲を抱いて仕事に赴くようになるのです。

 

シモン・ペトロは何かしたのでしょうか。ただ、主イエスのお言葉に従っただけです。むしろペトロは何もしなかったと言った方が良いでしょう。神がなさっておられる御業の前にたち、そこに居合わせただけなのです。

 

「闇の中を歩む民が、大いなる光を見、…(彼らの)上に光が輝」きました。(イザヤ書9章1節)復活なさり、ペトロの罪を赦されたイエス・キリストの救いが、ペトロの上に照り輝いていると言ってもよいでしょう。主イエスとペトロとの出会いは、キリストの復活の光の中で読むと、いっそう意味が深くなります。「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 秋の美しさに耐えかね 琴は静かに鳴りだすだろう」(八木重吉) 復活の光がペトロに差し込み、主のお言葉がペトロを新しい使命へと突き動かすのです。

 

2015年4月12日 礼拝説教要旨

主イエスを愛する

 

政所 邦明 牧師

 

ヨハネによる福音書 第21章1-19節

 

主題聖句:「…ペトロはイエスが3度も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」         

ヨハネによる福音書第21章17

                                    

復活なさったイエス・キリストはティベリアス湖(ガリラヤ湖の別名)畔で弟子たちに現れなさいます。ペトロには3度も「わたしを愛しているか」と尋ねられました。同じことを3度も聞かれたのでペトロは〝悲しくなった〟とヨハネ福音書は記しています。「よほどイエス様から信頼されていないな」とペトロは思ったのかもしれません。また、主イエスが十字架に掛かられる前に3度も「あの方のことを知らない」と関係を打ち消した出来事を思い出し、おそらく心が疼いたのでしょう。

 

これからご自分の大切な羊たちの指導をペトロに委ねようとしておられます。信頼しているからこそ大事を任せるのです。そのためにペトロが主を愛し、信じて従ってくる気が本当にあるかを確かめたいと思われるのは当然と言えます。生半可な気持ちでペトロにお尋ねになったとは思いません。

 

何度も聞かれるので、結果として、ペトロは追い詰められることになります。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ…」とパウロは申しました。(コリントの信徒への手紙二第7章10節) 神が導いて下さる悲しみによって、ペトロは悔い改めに至ります。これから群れの指導者になるペトロにとって必要な事です。

 

自分の愚かさ、罪深さと同時に、主に対する愛の無さも思い知らされたでしょう。新しく造り替えられ、再出発するためには自分の無力を知るだけではなく、主イエスの恵みを深く味あう必要があります。愛を尋ねられることによって、これまで以上に主を愛する大切さをペトロは確認したのです。

2015年4月5日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

わが主よ わが神よ

 

イザヤ書 第25章6-9節

ヨハネによる福音書 第20章28節

 

主題聖句:「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」

ヨハネによる福音書 第20章29

  

仲間の弟子たちにトマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25節)原文では「この私の指を」「この私の手を」となっていて、「私の」がしつこく繰り返されています。自分で確かめてみたいというのです。さらに、「あの方」と主イエスのことを呼んでいます。これも他人行儀な言い方です。数年間そば近くにいて導かれた恩義はどこに行ったのでしょうか。見て、触れて、確かめなければ絶対に信じないと強く心に誓っている感じです。どうしてそこまで意固地になるのでしょう。

 

8日前の復活日、弟子たちに主イエス・キリストが現れなさった時、何かの都合でトマスはその場に居合わせませんでした。自分だけが置いてきぼりを食ったように感じたのかもしれません。不安と怖れとは人の心を頑なにします。ところが8日経過して、ほかの弟子たちと一緒にトマスにも復活の主は現れてくださいました。「あの方」と言っていたトマスが「わたしの主、わたしの神よ」と賛美を込めて信仰を言表します。イエス様との距離がグーンと近づいています。変化をもたらした大きな出来事があったはずです。

 

弟子たちの心を支配していたのは人への恐れです。(19節)霧を吹き払うように恐れから解放するのは「平和があるように」と言って近づいてくださるイエス・キリストの力によるのです。この時には、〝見る〟とか〝指を入れる〟などには、もはやトマスはこだわらなくなっていました。見ないで信じる信仰に導かれつつあるからです。その信仰を幸いだと主は言われます。  

2015年3月8日 礼拝説教要旨

 

悪魔への抵抗

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第5章8-11節

 

主題聖句:「…悪魔が、…だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」

ペトロの手紙一 589

 

 人生そのものが戦いであるだけでなく、信仰に生きていく時も戦いは付きものです。しかし、信仰の戦いは固有の性質を持っています。それは①祈りにおける戦いであり、②神を拝むか、悪魔を拝むか、どちらか一つを選ぶ戦いと言えるでしょう。

 

「悪魔」などというと中世までの話で、現代人には〝非科学的〟でしょうか?しかし、すきあらば、神への信仰から引きずり降ろそうとする悪しき力が確かに働いているのをキリスト者は本能的に知っています。悪魔はどのような手を使ってくるかわかりません。確かに不気味です。しかし、イエス・キリストが罪にも、滅びにも勝利をしてくださっています。信仰者は恐れることはありません。その際にペトロは教会に次のように薦めます。

 

1.身を慎む。…もとの意味はお酒に酔わないしらふの状態を指します。沈着冷静、平常心を保つことでしょう。各自の気の持ちようではありません。信仰を持って不動の岩、神に確かな根拠を見出すのです。「主はわたしの岩、砦、…避けどころ、わたしの盾、救いの角」(詩編第18編3節)

 

  1.  目を覚ましている。…ゲツセマネの園で、目を覚まして祈るようにペトロは主イエスから命じられました。その戒めに背き、眠り込んでしまったのです。自分の失敗からすれば、ほかの人に偉そうに薦められた義理ではないでしょう。しかし、1.も2.も結局、「信仰にしっかり踏みとどまること」につながるのだと、あえて言わざるを得なかったのです。 

     

2015年1月25日 礼拝説教要旨

包んで赦す愛

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第4章10-11節

 

主題聖句:「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」             

(ペトロの手紙一 第410)

                                    

 

イエス・キリストのご愛は「包んで赦す愛」です。この前の9節では「愛は多くの罪を覆う」と言われていました。それは都合の悪い罪を一時しのぎで隠すことではありません。根本的に解決するために“罪を赦す”のです。「包んで赦す愛」は赦された人を新しく造りかえ、力を与えます。そして自分のためではなく、神の栄光を求めて生きるように促します。

その人の存在そのものが神の贈り物・〝賜物〟であることには違いありません。しかし、神がそれぞれに賜物を与えておられます。何も秀でた才能のことだけを考える必要はないでしょう。「自分は何もできない」と、ことさら自分を卑しめる人がいます。そんなことはありません。〝救い〟という何ものにも代えがたい素晴らしい贈り物を与えられているではありませんか。イエス・キリストが十字架にまでかかり、甦らたのに、「包んで赦す愛」を貰っていないと主張すれば、これほどの恩知らずはないのです。

 

何も貰っていないことはありません。気がついていないだけでなく、与えられているのに、あるがままを見ようとしないのです。しかも所有者ではなく管理者だと言われています。ほかの人のものを預かっているのですから、いつも所有者に対して責任があり、大切に、しかも〝宝の持ち腐れ〟にならないように活かして用いる期待を管理者にかけられています。

 

贈り物は自慢したり、〝自己実現〟すなわち、自分のために才能を開花させたりする目的で使うのではありません。「互いに仕えあうため」です。独り占めを考えているとすれば、「包んで赦された者」の名に値しないのです。

2015年1月18日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

祈り、愛しあう

ペトロの手紙一 第4章7-9節

主題聖句:「愛は多くの罪を覆う。」       

(ペトロの手紙一 第48) 

                                   

イエス・キリストの復活によって最初の教会が生み出されます。福音は各地に広がり諸教会ができていきます。その諸教会が共通に抱いておりましたのは、“神がご自身の力と決断とにおいて今ある世界を終わらせる”という信仰です。それは〝地球の爆発〟〝この世の滅亡〟ではありません。良き意志をもって業をお始めになったお方が、無責任に途中で放り出したり、失敗した残骸を残したりはなさらないのです。最後までご意志を貫いて、わたしたち人間の救いを完成させてくださいます。

 

ですから、むやみに怯えたり、騒ぎたてたりするのを慎まねばなりません。この8節の前に「身を慎んで、よく祈りなさい。」と勧められています。「身を慎む」とは〝しらふ〟、つまり酒に酔っ払っていないことです。自分の罪にも、移ろいやすい感情にも振り回されず、「覚めた目で、冷静に、神のなさる業にじっと目を留めていなさい」とペトロ先生は命じられます。祈りなくして冷静でおれるはずがありません。

 

人の弱さや失敗につけ込み、あばいて、攻撃する時代です。そっとしておき、傷に触れないで優しく包んであげれば、悩んでいる人はどれほど気が楽でしょうか。しかし、ここでは〝弱さ〟〝失敗〟ではなく罪が問題とされています。罪を覆うのです。罪をそのままにして見てみぬふりをするのではなく、罪を赦すのです。「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく」と主イエスは教えられました。その方が十字架の上で、「父よ、彼らを赦したまえ」と祈られました。赦しを後輩たちに説きながら、ペトロは自分のことを思っていたのです。赦しの恵みを数え、感謝していたに違いありません。

2014年12月7日 礼拝説教要旨

マリアの息子イエス

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第6章1-3節

主題聖句:「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。…」       

マルコによる福音書6章3

クリスマスが近づきました。この時期、イエス・キリストとは誰か、いったいこのお方はどのような方かをわたしたちは知ろうとしています。そうでなければ、ただ単に偉い宗教指導者の誕生だからお祝いしようというだけのことになってしまうでしょう。故郷の町ナザレで、安息日礼拝の時に起こった出来事がマルコによる福音書に記されています。

 

この日、説教を主イエスは頼まれたようです。その教えは素晴らしく、会衆席で聞いている人は驚きました。しかし、次の瞬間主イエスがどのような素性の人かを故郷の人々は思い出します。ナザレは大きな町ではありません。小さい頃からの様子を知っている人もいます。近所のおじさん、おばさん、それに一緒に遊んだ竹馬の友もいたかもしれません。それらの人々にとっては自分の知っている大工であり、マリアの息子イエスとしてしか理解できないのです。それを「人々はイエスにつまずいた」、そして主イエスは故郷の「人々の不信仰に驚かれた」とマルコ福音書は端的に表現します。

 

日常の主イエスをよく知っていても、それが救い主として信じることにはつながらないのです。そのこととは別に、いかにも神の子らしい、あるいはイエスが〝神に似ている〟と思わせる珍しいことだけを並べることも福音書はしません。奇跡によって、神の子でいらっしゃることを納得させたり、証明させたりするのが目的ではないからです。神が旧約聖書を通じて約束なさり、成し遂げようとしている救いは十字架に集中して現れます。そこに向かって進まれる救い主を私たちに聖書は知らせようとしているのです。