2015年7月26日 礼拝説教要旨

開けよ

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第7章31-37節

 

主題聖句:「…たちまち 耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった。」      

                               マルコによる福音書第7章35節  

                                

人の話しを聞いていない人がいます。音声としては耳に届いているのでしょう。しかし、相手に心を閉ざし聞く耳をもたないと、そうなります。面白いもので、人が自分のことを褒めてくれる話なら、喜んで聞き耳を立てます。逆に悪口を言われていると感じると、すぐに、耳を塞ぎます。自分の悪口ではなく、人の悪口だとわかると、喜んで聞きたがるでしょう。つまり、自分の都合次第なのです。身勝手と言われても仕方ありません。

 

人に対する態度がこうなのですから、素直に心を開いて、神様からの語りかけを聞くことなどできるはずがありません。罪はこのようにわたしたちの聞く力にまで染み込んでいます。

 

自分は口が重く、しゃべりは上手でないと思っていても、自慢話になると、とたんに饒舌になります。誰でもそうです。そのくせ、神様をほめたたえたり、感謝をささげたりはいたしません。魂だけではなく、体の各部分、すなわち耳も、舌も、唇もすべて主イエス・キリスト様によって救われなければならないのです。指を両耳に差し入れ、ご自分の唾を人の舌につけ、癒やしを行われる前に天を仰ぎ、主イエスは、深く嘆息されました。 (34節)その人をまるごと救うために、主イエス様はものすごい力をお使いになります。そのお姿から、これから向かってゆかれる十字架を連想します。救いの業はイエス様にとっても、生易しいことではありません。

 

いやされた人は口止めされたにも拘わらず、自分の経験を語らないわけにはいきませんでした。解き放たれた舌は神を褒めざるをえないのです。

2015年7月19日 礼拝説教要旨

主イエスの自覚

 

政所 邦明 牧師

 

マタイによる福音書 第11章25-30節

主題聖句: 「…父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知るものはいません。…」

マタイ福音書第11章27

                                   

上記のみ言葉に続く「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(28節)は多くの教会の看板に書いてあります。信仰に招くのにふさわしいとそれぞれの教会が判断されているのでしょう。これまで多くの信仰者を力づけてきた事実が、このみ言葉にはあるのです。「主イエス様のもとにゆき、自分の重荷を降ろしても大丈夫!」との招きの声を私たちはかけられています。しかし、その前後で安心してお任せしても良いと確信できる言葉を語っておられるはずです。そうでなければ、私たちの重荷をこの御方に任せきることはできません。

 

25節以下で主イエス様は父なる神様に祈っておられます。この後の数節の短い中に①父なる神様への呼びかけや、②イエス様と父なる神様との関係が繰り返し出てきます。父なる神様とその独り子でいらっしゃるイエス様との間には、切っても切れない深くて強い結びつきがあるのです。どのようなものも、その間柄を引き離すことはできません。

 

父なる神様がお示しになることに対して「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」(26節)と全面的に同意されました。単なる同意ではなく、父なる神様をほめたたえておられます。独り子としての明確な自覚です。「わたしたちもまたイエス様と同じように父なる神様を『天のお父様!』と呼びかけ、祈るように」と主は促してくださいました。父なる神様は、イエス様をしっかりと支えておられるはずです。だからこそ「あなたのすべての重荷を私に委ねなさい」と確信をもって主は言われるのです。

 

2015年7月12日 礼拝説教要旨

恵みをかちとる信仰

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第7章24-30節

 

主題聖句: 『主よ。しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』…『それほど言うなら、よろしい。…』

マルコ福音書第7章28、29節 

  

この婦人のゆるぎのない信仰に大きな勇気を与えられます。まずイスラエルを選び、この民族から神が救いの計画をお始めになるのを異邦の女性は否定してはおりません。しかし、たとえ神様のご計画がそのような道筋であったとしても、この人は中心点を知っておりました。自分たち諸外国の者も、「パン屑」はいただけると信じていたのです。「屑」でも、パンの一部に変わりはありません。選民としての資格のない自分にも神は憐れみをかけ、娘を助けてくださると確信しています。神様のご計画は認めます。しかし、引き下がるようなことはしません。自分をお見捨てにはならないと信じていますから、「わたしたちを救ってくださる余地は残しておられます」と、まるで神様のご計画のスキをつくように食い下がるのです。

 

わたしたちの祈りはあまりにも淡白すぎないでしょうか。…神様のお考えは自分たちの願いとは別だ。祈ったところで、御心を変えてくださるはずがない…このように祈る前から諦めてしまっているのです。しかし、祈りの道を切り開く熱心のあることを、このフェニキアの婦人は示してくれました。したたかに、しかもユーモアを交えた自由さのある求めです。

 

その求めに主イエス様は応えてくださいました。「…それほど言うのなら、よろしい」これは〝その言葉だけで十分で、もうお帰りなさい〟というのが元の意味です。“そこまで言われるとあなたには叶わない”と、すっかりこの婦人に主イエス様が脱帽されたと理解している翻訳もあります。婦人の信仰を“然り、その通り!”と心から肯定されたのです。

 

2015年7月5日 礼拝説教要旨

主イエスだけがおられる。

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第9章28-36節

主題聖句:「 これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」という声が雲の中から聞こえた。           

ルカによる福音書 第9章35

                                   

主イエスに対して、あなたは「神からのメシアです。」とペトロが信仰を言い表します。すると“自分は、苦しみを受けて殺され、3日目に復活するメシアである”と使徒たちに主イエスは打ち明けなさいました。

 

その8日後、祈るために、12人のうちペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを連れて、山に登られます。祈っておられるうちに主イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きはじめます。神の独り子のお姿が現れるのです。

 

さらに旧約聖書の代表モーセとエリヤとが栄光に包まれ、出現します。すでに神のもとに召された二人が再来するのは不思議としか言えません。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後」つまり、十字架と復活について主イエスも交え、3人で語り合っておりました。復活され、使徒たちに現れなさった時、旧約聖書をひもときながら、主イエスは「メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する」と言われます。

 

主が殺されると聞かされた使徒たちはショックだったでしょう。それは受け入れがたい事柄だったはずです。しかし、旧約聖書を代表する、モーセとエリヤもまた、死んでよみがえられる救い主を支持し、証言しました。それ以上に決定的なのは「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言われる父なる神様の承認です。主イエスご自身も、旧約聖書も、そして、何よりも父なる神様のお考えも、すべてピタッと重なりました。最後にそのように証言されたイエス・キリスト様だけが3人の前に残っておられたのです。弟子たちの心に強く刻印された光景だったに違いありません。

2015年6月28日 礼拝説教要旨

主イエスに触れる

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第6章53-56節

 

主題聖句:「病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」 

マルコによる福音書 第6章56節 

                                  

ゲネサレトという地名の所に主イエスの一行が着くと、それを知った人々の行動は激しいものでした。イエス様がおられる所なら、何処へでも病気の人を運んだと言います。この人たちは〝ご利益〟だけを求めたと非難できません。悩み苦しむ人を主イエスは待っておられたのです。病人にご自分の服を触らせ、癒しの力が出てゆくのを拒まれませんでした。

 

主イエスの所に行けば、神がおられる、神の力によって強められ、慰められると信じたからこそ、追いかけ回すように、居所を突き止め、病人を床に乗せて運んだのです。わたしたちは果たして、イエス様のところへ連れてゆくのに、これだけの情熱を傾けられるでしょうか。

 

「病人に、せめてイエス様の衣の裾にでも触らせてあげてください」と人々は願いました。それは肌に触れるのは恐れ多い、服の、しかも端っこで構わないと遠慮したのでしょうか。ところが民数記第15章37節以下には、衣服の4隅に房を縫いつけなさいと命令されています。それはイスラエルの民が神に属する人々であることを思い起こすためなのです。

 

主の力によって癒やしが起こります。奇跡と言ってよいでしょう。しかし、病状の改善、回復などその人の〝得〟や利益が大事なのでしょうか。民数記のその箇所で神は「わたしはイスラエルをエジプトから救い出した主だ」と宣言されました。神との深いつながりができて奇跡は始めて奇跡としての意味を持ちます。病気の人が衣の裾に信仰をもって触る時、イエス様は癒やすだけではなく、救いをお与えになる方だとわかったのです。

2015年6月21日 礼拝説教要旨

「神のこと・人間のこと」

船本 弘毅 師

マタイによる福音書 第16章13-28節

主題聖句:「 それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか 」 

マタイによる福音書 第16章15

 

 イエスの公生涯は、あまり長くはありませんでした。前半の「ガリラヤの春」と呼ばれる時期と後半の「十字架への道」を分けるのが、今日のテキストであるフィリポ・カイサリアの出来事です。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問われた主は、さらに弟子たちに向き直って、「それでは、あなたがたは」と問われました。ブーバーは神を信じるということは三人称で語りうることではなく、二人称で向き合う時に成立すると語っています。

 

ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。そしてまさにこの時からイエスは受難の予告を語り始められました。「そんなことがあってはなりません」といさめ始めたペトロを、主は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と叱責されました。

 

「メシア告白」の直後に「受難の予告」がなされたのは、イエスは救い主として、否、救主であるがゆえに、十字架にかかられたことを示しています。そこに人間の思いを超える神の思いがあります。ボンヘッファーは、「神の恵みは、独り子を十字架につけるという高価な価を払って実現された。神の犠牲を伴なう高価な恵みを、わたしたちは安価な恵みとして受けとめていないか」と問いかけています。

敗戦70年という節目の年は、ISのテロ事件で始まり、多くの自然災害が続き、平和が脅かされている危険を感じさせられています。この時代をわたしたちは、どう生きようとしているのでしょうか。「わたしを誰と言うのか」という主の問いを聞きつつ、キリストなしには生きられないキリスト者として生き続けたいものです。

2015年6月14日 礼拝説教要旨

恐れず、安心しなさい

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第6章45-52節

主題聖句:「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」 

マルコによる福音書 第6章50

                                   

パンの奇跡が行われた後に、弟子たちをしいて舟に乗りこませ、向こう岸へ主イエスはゆかせます。そして、ひとりになられ、山で祈りに集中されました。湖の上では弟子たちの行く手を逆風が阻みます。弟子たちは漕ぎ悩み、夕方から夜明けまで、風と格闘します。その間、ずっと主イエスはとりなしの祈りを続けておられました。

 

古来より教会は舟にたとえられてきました。教会も、キリスト者も試練にさらされます。わたしたちの苦闘や試練の時にも、主イエスは祈り続けて、支えてくださるのです。そして、何もかも〝もうダメだ〟と追い詰められ、弟子たちが神を信頼するしか方法がなくなった時、主イエスは近づいてきてくださいました。しかし、弟子たちはイエス・キリストが神の力をもって現れてくださっているのに、実体のない幻〝幽霊〟としか思えません。〝確かにここにいてくださる神〟として、主に助けを呼び求めることをしません。そこで、怯える弟子たちに舟の外から、親しく語りかけられます。心がほぐれます。弟子たちは不信仰から信頼へと変えられました。

 

さらに「安心しなさい。」と励ましの声をかけられます。“わたしだ”これは「わたしはある。わたしはいる」と宣言なさって、神が民に、ご自身を表される時に用いられる言い方です。復活された主も、そう言って弟子たちに現れなさいました。神として自らを表されたのです。このお言葉によって、弟子たちは心を開きます。お迎えする用意ができました。主は舟に乗り込まれます。そして、湖にも弟子たちにも平安が訪れたのです。

 

2015年6月7日 礼拝説教要旨

豊かな命を与えるキリスト

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第6章30-44節

主題聖句:「イエスは…大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れみ…」

マルコによる福音書 第6章34節

主イエスの評判は高まっていきます。信仰への渇きを感じて、主と使徒たちを追いかけて、人々は向こう岸に先回りをしました。群衆のお腹がすっかり空いていたかどうかはわかりません。たとえ餓死寸前ではなかったとしても、群衆の魂は「飼い主のいない羊のような有様」だと鋭く見抜かれます。腸が痛む強い感情を伴って、主イエスは人々を憐れまれたのです。
羊たちが食べ物に事欠かないようにさせるのが、羊飼いの第一の使命です。それのみならず羊たちに信頼されつつ、群れをしっかり導かなければなりません。「主は羊飼い、わたしには何も欠けるものはない」(詩編23編1節)とあります。神のものとされ、神に完全に支配されたと信じるようになって初めて、わたしたちは一人前の信仰者となるのです。神が心を占めてくださらなければ、神でない偶像が支配します。導びかれていると信じることができれば、幸いです。そのために主は奇跡を起こされます。

 
群衆の魂の飢えを満たすため、5つのパンと2匹の魚を分け与えられました。ヨハネ福音書では「私は命のパンだ」(6:34)と主は言われました。この何千人かの人をわずかの食べ物で満腹させた話は4つの福音書全部に書いてあります。心に強い印象を残し、この出来事によって、最初の教会の人々は慰められたに違いありません。単にパンの奇跡として励まされただけではありません。この話は、教会が聖餐を祝う場面で、繰り返し語られるようになりました。キリストご自身が命を差し出して、自分を救い、永遠の命をお与えになりました。十字架と復活の話として読んだのです。

2015年5月24日 礼拝説教要旨

聖霊が降る

政所 邦明 牧師

使徒言行録 第1章1-11節

主題聖句:「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」           

  使徒言行録第1章5

  

ガリラヤで宣教活動を始められる前に主イエスはバプテスマのヨハネのところにゆかれ、洗礼を受けられます。ヨハネは次のように言います。「自分は水で洗礼を授けるが、自分のあとからおいでになる方、すなわちイエス・キリストは聖霊により洗礼をお授けになる」…このヨハネの言葉は主イエス様の耳に届いていたはずです。しかし、ことさらには言及されません。黙っておられましたが、やがてそのような時がくるのを承認して、時を待っておられました。

 

宣教されたのち、最後は十字架で、罪の裁きの刑罰を受けてくださいました。そして甦り、40日に亘って使徒たちに現れなさいます。そこで、ヨハネが語った言葉を改めて口にされます。「あなたがたは間もなく、聖霊による洗礼を授けられる」主イエス様の甦りによって水による悔い改めの洗礼は確かな根拠を持ちました。神が行われた救いの業が水で洗礼を受けた者に、目には見えなくても、救いの現実とならなければ意味がありません。そのために間もなく聖霊が働いてくださるのです。主イエス様の救いが聖霊なる神のお力により、その人にグングン迫り、「確かに自分は罪赦されている」との確信が与えられます。エゼキエル書第11章16節には、「一つの心に新しい霊を授ける。その霊が働いて、肉から石の心を取り除き、肉の心を与える」と預言されていました。聖霊が来てくださる時、目が開かれます。頑なさが砕かれ、救いを受け入れる心が与えられるのです。

聖霊は、わたしたちに救いの確信をハッキリさせてくださるのです。

2015年5月17日 礼拝説教要旨

神にのみ頼る

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第6章6-13節

主題聖句:「…イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、12人を呼び寄せ、2人ずつ組にして遣わすことにされた。」  

マルコ6章6,7節 

                                  

ガリラヤの町々村々を巡り歩いて、主イエス・キリストは神の国の福音を宣べ伝えられます。「神のご支配がこのお方と共に始まっている」…これが宣教の内容です。しかし、聞いた人が快く受け入れてくれるとは限りません。故郷ナザレでは、会堂に集まった人がイエス様につまずき、不信仰に陥ります。(5節)、それでも主はひるまれません。伝道を続けられ、志と熱意とは、変わることはありませんでした。

 

活動を始められた時、まず4人の漁師に「わたしについて来なさい」と声をかけられます。さらにこれと思う人を呼び寄せます。その中から、12人を選び抜かれ、「使徒」と名前をお付けになりました。「12人を(ご自分の)側に置く」(3章13,14節)ことが選抜の第一目的です。12人は主と行動を共にし、教えを聞き、また、主の力ある業に立ち会いました。

 

12人の選任後、ご自分は伝道の最前線から身を引き、宣教は弟子たちに任せることもできたはずです。準備が整い、12弟子をふたりずつお遣わしになる時でさえ、主イエスが伝道の業をおやめになるわけではありません。依然として中心には伝道なさろうとするイエス様がおられます。冒頭の6,7節のみ言葉は、一見当たり前のようでありながら、伝道の中心が主イエスであるのをよく示しています。「使徒」たちは主イエスの伝えられた「神の国の福音」を託されたにすぎません。12人は、ご命令に従い、主の業を受け継ぎます。この御方が、神の守りと支配とを、保障してくださるからこそ、持ち物を最低限に留め、神を信頼し、安心して出て行くのです。