2015年10月4日 礼拝説教要旨

主イエスの洗礼

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第3章21-22節

 

主題聖句: 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が…イエスの上に降って来た。」

ルカ福音書 第3章21節 

 

悔い改めの洗礼をバプテスマのヨハネは民衆に授けておりました。罪に染まった人間であることを、神の前に素直に認めるのが悔い改めです。さらに、罪人であるのをお詫びします。そして新しい人間に生まれ変わるのです。これらを象徴的に表すのが水による洗礼です。

 

悔い改めとは“神様の方に回れ右をする”つまり、神様へ心の向きを変えることだと説明されます。悔い改めは本人が自覚的に行うので、誰もその人に代わることはできません。ヨハネは民衆に悔い改めを呼びかけました。しかし、ヨハネの行動は、人々にきっかけを与えたにすぎないのです。

 

この民衆に紛れるようにして主イエス様も洗礼をお受けになりました。主イエス様は罪のない神の独り子です。罪のない方が洗礼を受ける必要はありません。けれども十字架にかけられる前「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」と主イエス様は言われました。(ルカ22:37) すべての人の身代わりとして、十字架にかかられたのです。主イエス様の洗礼も、すべての人の罪を身に引き受ける出発なのです。「自分には受けなければならない洗礼がある」と言われ(ルカ12:50)十字架の死をご自分の〝洗礼〟になぞらえられました。

 

洗礼を受ける時、救いの確かさを〝自分の決心の強さ〟に置こうとします。「一生ぐらつかないで信仰を守り通すぞ!」と力こぶを入れます。しかし私たちはあやふやです。信仰の確かさの根拠は私たちにはありません。自ら、洗礼を受け、十字架にかかられた主イエス様にのみ、あるのです。

2015年9月27日 礼拝説教要旨

栄光に輝くキリスト

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第9章2-8節

主題聖句:「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」

マルコによる福音書 第9章3節

イエス・キリスト様とはいったいだれか?本当のお姿は何なのか!これが、マルコによる福音書の大きなテーマです。12弟子を選び出し、伝道をいっしょにする中で、主イエス様が弟子たちに伝えたい内容であったにちがいありません。ペトロが代表して「あなたは、メシアです」と答えます。言葉としては間違っていないのです。しかし、次に〝メシア〟(救い主)が意味する内容がしだいにイエス様によって、明らかにされてゆきます。

 

そこで、苦難を受け、排斥されて殺され、3日目に復活されるとイエス様は予告されました。「殺される」の部分にペトロは引っかかったのでしょう。イエス様を脇へ引き寄せていさめはじめます。そのような救い主では困る、受け入れがたいとペトロは抵抗を示したのです。殺されるのは惨めでみすぼらしいと決めつけました。

 

“三日目に復活する”とハッキリおっしゃっているのです。弟子たちに主イエス様の言葉が届いておりません。しかし、受難の予告の後、3人の弟子たちだけを高い山に連れてゆかれます。そこで主イエス様は姿が変わりました。着ておられた服が真っ白に光輝いたのです。服ではなく中味である主イエス様が神の独り子としての栄光を放たれました。やがて起こる復活の前触れと考えて差し支えありません。

 

無残な殺され方をするのと素晴らしさがきらめくのとは正反対です。どちらが主イエス様の本当のお姿なのでしょうか。救い主が私たちために苦しみをお受けになるからこそ、御子に神様が栄光をお与えになるのです。

2015年9月20日 礼拝説教要旨

死からの復活

政所 邦明 牧師

ペトロの手紙一 第3章18-22節

主題成句:「…キリストは、捕らわれていた霊のところへ行って宣教されました。」

ペトロの手紙一 第3章19節 

今日は、神様のもとに召された方々を思い起こし、礼拝をささげています。教会にゆかりのある方の生きておられた頃のお姿が心に浮かびます。
上記の「捕らわれていた霊のところ」はいろいろな理解が可能です。その一つは ―「すでに死んだ人のいる場所に」― の意味に解釈します。
“愛する者は自分の手の届かないところに行ってしまったのだ”…と家族を亡くした時、強く思わされます。しかし、生きているものと死んでしまった家族との間を隔てる深い谷間を主イエス様は、超えてくださいました。召された連れあい、両親、家族などのいる場所に、主イエス様は行かれます。たとえ途中を遮るものが無くても、犠牲を払ってまでわざわざ行ってくださるでしょうか。愛がなければできません。
ところが、滅びゆく人を惜しまれる主イエス様は、ひとりの人を探し求めて、陰府にまでも赴いてくださるのです。「捕らわれている」とは監視つきで自由に身動きの取れない所を意味します。さしあたり、牢屋が思い当たるでしょうか。自由を奪われるのは、すでに死んだものも、死におびえなければならないわたしたちも無関係ではありません。さらに、“人間は罪の奴隷である”と聖書は言います。
死にも罪にも捕らわれの身であるわたしたちを解放するために、主イエス様はただ一度、十字架につかれ、人間の罪を完全に償われました。たとえ、捕らわれ人たちのところへゆかれたとしても、救いがなければ無意味でしょう。イエス様が十字架で死なれたことこそが、確かな保証なのです。

2015年9月13日 礼拝説教要旨

十字架を負う

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章34節-第9章1節

 主題聖句:「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」 

マルコ福音書第8章35

                                   

主イエス様は言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節) 従う意志のある相手にだけ声をかけられるのです。したがって「自分の十字架」とは自ら進んで選び取るものです。自分の思いと関係なく、強制的に負わせられるものではありません。ともすれば、“自分は生まれつき体が弱い”とか、“天災や不慮の事故に巻き込まれた”などを自分の十字架だと考えたくなります。しかし、それらは、その人の責任ではなく、意志と無関係に負わせられた苦しみです。自分の力ではどうにもならないものを引き受けなさいと主イエス様は言われるはずがありません。

 

「自分の十字架」とは神様のために進んで背負うものです。苦しみ自体をことさらに美化してはいないでしょう。信仰生活は喜びであるはずです。

 

しかし、滅びに向かう人間を愛し、父なる神様は独り子イエス・キリスト様を送ってくださいました。わたしたちを救うために主イエス様は、十字架の死を選びとってくださったのです。この父である神様と御子イエス・キリスト様を愛するからこそ、キリスト者は十字架を進んで選び取るのです。誰でも愛する者のために犠牲を払ったり、辛さを引き受けたりします。その場合と違いはありません。救われ、命を与えられた者として苦しみを担います。その際も、主イエス様にどこまでもついて行くことが前提とされます。一人で歩くのではなく、先立って十字架を取られた方がおられるのです。その御方の背中を見つめながらついてゆくのです。

 

2015年9月6日 礼拝説教要旨

サタンよ 引き下がれ

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章31-33節

 主題成句:「弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『…あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」 

マルコ福音書第8章33節      

ペトロが「あなたは、メシアです」と主イエス様に信仰を言い表しました。その告白を受けて、これからご自分の身の上に起こる出来事を弟子たちに話しはじめられます。宗教指導者たちから多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、3日の後に復活する道をたどられるのです。苦難を受けて人を救うメシアを父なる神様は望んでおられ、お定めになっているのです。

 

自分たちの尊敬する大切な先生が殺されるなどあってはならないと思ったペトロは、聞いた途端に主イエス様をいさめはじめます。

 

「サタン、引き下がれ」とペトロに言われました。師弟関係に上下の秩序があるにしても、ひどい言葉です。ペトロが憎いのではありません。十字架にかかって死に、人の罪を償うあり方こそ、神様の願われる救い主の姿だと断固として言われます。しかし、十字架を避ける道をペトロは無意識のうちに持ち込もうとしました。主イエス様にとっては誘惑になります。〝十字架以外に救いなし〟です。自分たちに幸福をもたらすのが救い主ではありません。人間にいちばん必要なのは罪の赦しです。しかし、心が鈍くなっているため、罪からの救いを人間は切実に求めたりはしないのです。

 

神様からの導きと示しとを受けなければ、わたしたちはどのような救いが必要なのかはわかりません。自分にとって好ましい救いを求めるからです。十字架の死に向って進まれるのは主イエス様にとっても戦いであったに違いありません。しかし、あらゆる誘惑を退け、父なる神の望まれる救い主の姿を追い求め、最後まで従い抜こうとされたのです。

 

2015年8月30日 礼拝説教要旨

イエス様はメシア

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章27-30節

 主題聖句:「それでは、あなたがたはわたしを何ものだというのか」ペトロが答えた。「あなたはメシアです」    

マルコによる福音書第8章29

                                   

フィリポ・カイサリアの地方に弟子たちと主イエスが向っておられた時のことです。さりげない様子で、「君たちは私のことを何者だと言うのか」と弟子たちに質問されました。「言う」とは言葉にハッキリ表すことです。心秘かに、「ああでもないこうでもない」といろいろ悩み、迷った状態で留まっているのとは違います。口に出すのです。結論をひとつに定め、責任をもって答えます。その答えそのものが、答えた人のその後の生き方、信仰生活の方向を定めます。生き方そのものにも責任が問われるのです。

 

「あなたはどう言うか」とそのものズバリを質問される前に、別の問いかけをキリストはなさいます。…「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」…それに対して、「洗礼者ヨハネ」と「預言者エリヤ」の名を弟子たちは挙げます。その時二人はもう地上にはおりません。つまり死んでしまった人間が再来したと言うのでしょう。ほかに宗教的天才、偉人、などいろいろな言い方をした人がいたはずです。しかし、どれも主イエスが期待され、望まれる答えではありませんでした。〝これぞ答え!〟はひとつです。主イエス様はすでにご自分でちゃんと答えを持っておられるのです。弟子たちが口で告白するまで、待っておられるのでしょう。

 

しかし、正解を言い当てれば、「それでおしまい!」ではありません。「あなたはメシアです」…メシアとは救い主を意味します。口で言いあらわすだけでなく、確かに私を救ってくださると信じて、この御方に自分自身を投げかけ、実際に救っていただいて、始めて告白が意味を持つのです。

 

2015年8月23日 礼拝説教要旨

 

キリストが見える

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章22-30節

 

 主題聖句:「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」

マルコ福音書8章25

 

                                   

この箇所のすぐ前で「…悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか」(8章18節)と主イエスは弟子たちに理解を求められました。弟子たちの姿との比較で、ベトサイダにおいて盲人がいやされ、見えるようになります。この奇跡と弟子たちの姿は無関係ではありません。この後の8章29節において、「イエス様はメシアだ」とペトロが告白する出来事に繋がってゆきます。病のために視る力を持たなかった人が視力を回復してゆく、…ここは、単にそれだけの話ではありません。信仰の目をもって、主イエス様をどう見るかが問題なのです。

 

人から教わらなくても、生まれながらに他人の粗捜しをする能力を私たちは身につけています。その代わり、自分の本当の姿をあるがままに見ようとはしません。自分の欠点には目をつぶるのです。それなのに、「自分は見るべきものをちゃんと見ている」と言いはります。…見えていないのに、見えているつもりでいる。…だから余計に始末が悪いのです。

 

「愛はすべての咎を覆う」と聖書にあります。他人の悪を忘れれば良いのに、それができません。見なくても良いものに目を凝らし、見なければならない事柄から目を背けます。「神様!わたしは悟りの悪い、物事が見えない者です」と素直に認め、「導いてください」と助けを求めれば、その一点から始められます。神様のお力によって、目が開かれてゆくのです。イエス様が、私たちの信仰の眼を開いてくださいます。この御方が目を開いてくださる時、メシアであるイエス様の姿が見えてくるのです。

 

2015年8月16日 礼拝説教要旨

悟りなさい

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章11-21節

主題聖句: 「どうして、今の時代の者たちはしるしをほしがるのだろう。…決してしるしは与えられない。」   

マルコによる福音書 第8章12節 

 

「世の中、そして自分の将来はこれからどうなってゆくのだろう?」とわたしたちは心配になります。そのような時、将来を予測する手掛かり、〝しるし〟がほしくなる気持ちはわからないわけではありません。〝しるし〟によって、将来の良くないことに備えようとするのです。

 

しかし、信仰生活は本来、〝しるし〟(予兆)を必要としないのではないでしょうか。たとえば「信仰の父・アブラハム」を思い浮かべてください。行きなさいと神様が命令された時、アブラハムにはまだ行き先が示されていませんでした。手掛かりは何もありません。しかし、やがて必ず教えてくださるはずだと信じ、「行き先を知らない」でアブラハムは出発します。保証は神様がしてくださった約束だけなのです。

 

一方で「〝しるし〟は決して与えられない」と言われながら、同じ内容を記しているマタイや、ルカによる福音書では、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と主イエス様は言われました。預言者ヨナは三日三晩大きな魚に飲み込まれ、その後、吐き出されます。ヨナの姿を、ご自分の十字架の死と葬り、さらにはお甦りになぞらえられました。

 

ファリサイ派の人々にとっては、自分たちが思い描く、 “天からのしるし”と考えるものがあったのでしょう。それに照らすと、十字架と復活よりも、もっと“しるしらしいしるし”があると言って、この人たちは拒絶するかもしれません。しかし、〝しるし〟があるとすれば、救いの〝しるし〟は十字架と復活以外にはありえないと、主イエスは明言されるのです。

2015年8月9日 礼拝説教要旨

 

神の義

政所 邦明 牧師

ローマの信徒への手紙 第1章17節

主題聖句: 「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」 

ローマの信徒への手紙第1章16

                                   

 

日本語の翻訳には現れていませんが、「福音は、」の前に「なぜなら、福音は」と元の言葉には接続詞「なぜなら」が置かれています。16節で、「わたし(パウロ)は福音を恥としない」と言っておいて、「なぜなら福音が、すべての人に救いをもたらす神の力だから」と理由を述べるのです。

 

新約聖書の中でも、ローマの信徒への手紙は救いについて順序正しく、ハッキリと書いている書物のひとつです。手紙の受け取り手の中には、まだ救いに確信を持てず、「恥」と思っている人がいたのかもしれません。

 

福音とは〝十字架〟で処刑されたナザレのイエスを〝救い主〟とする信仰です。ローマの人々が、なお複雑な気持ちを持っていたとしても不思議ではありません。パウロ自身は救いの確信を持っています。ほんとうは「恥としない」と言わず、「福音を誇りに思う」と積極的に言いたいのです。

 

しかし、それでは「恥」と思っている読者との間の距離を詰めることはできません。まずは相手の気持ちを十分に汲み取って、聞き手と同じ地平面に立つことが必要でしょう。そうでなければ、相手の心を開かせ、納得させることはできません。ところが「なぜなら」と、いったん理由を述べ始めると、今度は一歩も怯まない確信に満ちた強い調子に変わるのです。「福音はだれをも救う力を持つ」とパウロは断言しています。ユダヤ人として神から与えられた律法を守ってきた人も、そうでない諸外国の人も、救われるのに何ら差別はありません。福音はダイナマイトような破壊力を持ちます。罪の頑固さは福音の力でないと打ち破れないのです。

2015年8月2日 礼拝説教要旨

泣かなくともよい

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第7章11-17節

主題聖句: 「主はこの母親を見て、憐れに思い『もう泣かなくともよい』と言われた。…近づいて棺に手を触れられると…」  

ルカ福音書第7章13節 

  

ナインという町の門で、葬列に主イエス様と弟子たちとが出会います。町の中から郊外の墓地へ棺を運んでいるところでした。喪主と思われる一人の女性がひときわ目を引きます。嘆き悲しむ様子が際立っていたのです。やもめが一人息子を手塩にかけて育てておりました。その子の葬儀です。母ひとり、子ひとりの関係を引き裂いてしまう死は何と酷いものでしょうか。〝野辺の送り〟に加わった人もなすすべがありません。埋葬へ向かう流れを止めることはできず、その流れに身を任せるだけなのです。

 

ところがたったひとり、死への行進に立ちはだかった方がおられます。主イエス様は死の奥深くまで踏み込んでゆかれました。命へ向かう戦いが始まります。主イエス様だけが命へ押し戻すことがおできになるのです。「起きよ」と命令されれば、母親を悲嘆にくれさせていた死も逆らうことはできません。父なる神様は主イエス様を死から命の中に引き起こされました。3日間も墓の中におられても、陰府から主イエス様は復活されたのです。強力な敵である〝死〟が母から息子を奪いました。しかし、死を打ち滅ぼして、母に息子をお返しになったのです。

 

葬列を止められたのは、死に顔を見て、主イエス様が〝お別れ〟を為さりたいからだと人々は思ったでしょう。しばらくは葬列を止めてもやがて、「墓穴への行進が再開される。」と思った瞬間、若者の蘇生が起こりました。主イエス・キリスト様こそ「もう泣かなくてもよい」と言えるだけの実力を備えた大預言者であると人々は思い知ったのです。