2015年9月20日 礼拝説教要旨

死からの復活

政所 邦明 牧師

ペトロの手紙一 第3章18-22節

主題成句:「…キリストは、捕らわれていた霊のところへ行って宣教されました。」

ペトロの手紙一 第3章19節 

今日は、神様のもとに召された方々を思い起こし、礼拝をささげています。教会にゆかりのある方の生きておられた頃のお姿が心に浮かびます。
上記の「捕らわれていた霊のところ」はいろいろな理解が可能です。その一つは ―「すでに死んだ人のいる場所に」― の意味に解釈します。
“愛する者は自分の手の届かないところに行ってしまったのだ”…と家族を亡くした時、強く思わされます。しかし、生きているものと死んでしまった家族との間を隔てる深い谷間を主イエス様は、超えてくださいました。召された連れあい、両親、家族などのいる場所に、主イエス様は行かれます。たとえ途中を遮るものが無くても、犠牲を払ってまでわざわざ行ってくださるでしょうか。愛がなければできません。
ところが、滅びゆく人を惜しまれる主イエス様は、ひとりの人を探し求めて、陰府にまでも赴いてくださるのです。「捕らわれている」とは監視つきで自由に身動きの取れない所を意味します。さしあたり、牢屋が思い当たるでしょうか。自由を奪われるのは、すでに死んだものも、死におびえなければならないわたしたちも無関係ではありません。さらに、“人間は罪の奴隷である”と聖書は言います。
死にも罪にも捕らわれの身であるわたしたちを解放するために、主イエス様はただ一度、十字架につかれ、人間の罪を完全に償われました。たとえ、捕らわれ人たちのところへゆかれたとしても、救いがなければ無意味でしょう。イエス様が十字架で死なれたことこそが、確かな保証なのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です