2015年12月13日 礼拝説教要旨

恐れるな、マリアよ

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第1章26-38節

 

 

 主題聖句:「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

       ルカによる福音書第1章38

  

神の独り子イエス様のお誕生を祝うクリスマスです。しかし、この方がどこで、だれからどのようにお生まれになるか、細かい経緯を知っている人はだれもいません。もちろん「乙女が身ごもって男の子を生む」とか「ユダヤの地方ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」とかは預言書に書かれています。大筋はわかっていても、具体的には知らされてはおりません。神様がご計画を進められるからです。その出来事に出会う人々は、不意を打たれたようで戸惑うばかりでした。マリアもその一人です。

 

結婚もしていない若い田舎の娘が、男性の助けなしに、男の子を生むのです。しかも、その子は救い主だと天使は告げます。マリアにとっては心乱され、悩みを抱え込む事態となりました。自分の力ではどうしようもなくなって無力さを感じたに違いありません。確かにマリアの悩みは私たちと比べることのできない特別なものだったでしょう。それでも、わたしたちも人間の力ではどうにもならない問題を経験します。しかし、神様に全部をお任せしたために、「重荷でしかなかったものが、一変する」ことは信仰の世界でよくあることです。苦悩の中でこそ、神の恵みを知る機会が与えられる…その実例をマリアは証ししてくれました。

 

「お言葉どおりにこの身になりますように」を言い換ると、「神様のお望みになることであれば、わたしはどのような事でもいたします。」となります。条件を付けてはおりません。一切合切をお任せした時、解放される喜びがマリアの心に満ち溢れます。これがクリスマスの喜びなのです。

2015年12月6日 礼拝説教要旨

 

政所 邦明 牧師

 

命をささげるキリスト

 

マルコによる福音書 第10章35-45節

 

 

主題聖句: あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

                  マルコによる福音書第10章38節 

                                  

「エルサレムで、ご自分は引き渡され、捕まえられて殺される」と主イエス様は弟子たちに言われました。そして自分を捨て自分の十字架を背負って、従うように促されます。ところが弟子たちは主イエス様の願いを少しも理解しません。「自分たちの中でだれが一番偉いか」とか、「神の支配が完成する時、だれが序列で上位に着くか」とか…そんなことばかりに気にしているのです。出世に対する野心をむき出しにします。

 

そして主イエス様が十字架と復活とを予告されると、決まって、主の願いに逆らうように、欲望を口にし始めるのです。わざとではないでしょう。けれども、救われがたい人間の惨めな姿が隠しようもなく現れてしまいます。弟子たちだけの問題でしょうか?とても他人事とは思えません。

主イエス様から大切なことを聞かされます。けれども、自分自身の信仰生活を振り返れば、あんがい初歩的なところで失敗をしているのではないでしょうか。それは主イエス様のことを理解していないからです。わかっていたら恥ずかしい我欲を平気で口にしたりはしません。

 

主イエス様の言われた十字架の価値を私たちはなんと無意味にしていることでしょう。無意味どころか、実は十字架にこそほんとうの力があるのです。「多くの人の身代金としてご自分の命をささげる」(45節)と主イエス様は言われました。十字架に無類の価値を見出す時、私たちは本当に恥じ入り、悔い改めに導かれます。そして服従への道を歩み始めるのです。

 

2015年11月29日 礼拝説教要旨

神にだけできる救い

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第10章35-45節

 

 弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。」      

  マルコによる福音書第10章26節  

 

「金持ちが神の国に入るのはらくだが針の穴を通り抜けるより難しい。」と弟子たちに主イエス様は言われました。同趣旨の言葉は3度に及びます。財産そのものの良し悪しを言っておられるのではありません。「神様以上に財産を最後の頼みとする者は神の国に入るのが難しい」とおっしゃっているのです。キリストの教会はそのように理解してきました。金持ちであっても、貧しくても、財産を拠り所とする誘惑は同じかもしれません。

 

これだけ、徹底的に言われると「それではだれが救われるのですか」と弟子たちが反応するのもわかります。正直な気持ちだったのでしょう。

 

それに対して「人間にはできなくても、神様にはできる。神様だけが何でもおできになる」と主イエス様はお答えになりました。旧約聖書に何度も出てくる言葉です。しかし子供同士が遊んでいる時でも、あまり深く考えないで「神様は何でもおできになるもん!」と言うことだってあるでしょう。ごくありふれた言い方を用いながら、「救われる」、あるいは「神の国に入る」とはどういうことかを主イエス様は語られるのです。

 

〝神の国〟とは神に支配していただくことです。「神様に頼っているだけでは安心できない。神様に頼っているのは不安だ」と私たちは不敬虔にもつぶやきます。神様に身を任そうとしません。これでは「神のご支配に入れていただいた」とは言えません。神様だけがほんとうの安心をお与えになります。「神様にはおできになる。神様だからこそ、可能だ」だれでも言えそうな言葉で、実は深い真理を主イエス様はお語りになるのです。

2015年11月22日 礼拝説教要旨

主イエスに従う

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第10章17-22節

 

 主題聖句:「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い…それから、わたしに従いなさい。」

マルコによる福音書第10章21節 

 

                                  

たくさんの財産を持っている人と主イエス様との対話が始まります。この人が主イエス様に走りより、ひざまずいて尋ねました。その態度からもこの質問が切迫した、真面目な内容であることがわかります。

 

十戒のうちの第5~10番目の戒めをイエス様は答えられました。隣人や父母との関係、日常生活の中で、具体的に第1~第4番目の戒めを守ることこそ、永遠の命を受け継ぐ道だと諭されたのです。1~4では「ひたすらに神様だけを神とし、他のものを神としてはならない」と命令されています。

 

幼い時から戒めを守ってきた自負心がこの人にはありました。その人に向って「あなたに欠けているものが一つある」と主イエス様は言われるのです。石のアーチは最後の要石をはめ込まない限り、ほかの99%をいくら積み上げてもアーチにはなりません。少しの衝撃で崩れてしまいます。この人には財産が神様に代わるものでした。最後は富により頼み、支えにしていたのです。その偶像が心の王座を占めている限り、まことの神様を神様とすることはできません。足りないものがわずか一つでも、それが欠けているために神に従うことのできない決定的な一つだったのです。

 

「神おひとりのほか、善い方は他にだれもおられない」と主イエス様は言われました。主イエス様こそが神を神とされ、ご自分を捨てて、十字架に向って進んで行こうとされています。この方こそ「善い先生」以上の「善い方」つまり、神の独り子イエス様なのです。すべてを捨てて、イエス様に従う時、十字架の救いによって、永遠の命を私たちはいただけるのです。

 

2015年11月15日 礼拝説教要旨

子供を祝福する

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第10章17-31節

 

 主題聖句:「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

マルコによる福音書第10章15節 

                                  

〝子供!〟と聞くと何を連想されるでしょうか。無邪気、純真、素直などでしょうか。確かに一面、当たっています。しかし、未熟で、わがまま、感情の赴くままに行動する面も子供は持っています。聖書では、無条件に子供をほめたたえてはおりません。旧約聖書でも、また新約聖書でも子供は教えられ、しつけを必要とする未熟な存在なのです。

 

だとすれば、「子供のように神の国を受け入れる」とは「疑いもなく、素直に神の国を受け入れる」意味にかならずしもならないのです。子供は自活できず、ほかの人から助けを受けなければ生きていけません。“神の国を受け入れる”とは信仰に関することです。「素直に、信じる」以外を考えてみる必要があります。〝子供〟から喩えの意味を引き出すとするなら、おそらく、無力で、〝小さい〟側面でしょう。造られたけれども罪を犯し、神様から離れたために、私たち人間は無力なのです。救われるために無力なのは大人であろうと子供であろうと人間は同じです。ただ、大人よりも子供の方が〝力の無さ〟をよりはっきり示すにすぎません。救いのために無力であれば、どうしても謙遜にならざるを得なくなるでしょう。救いを求めようとすれば、与える人に向って、空っぽの手を差し出す以外にありません。まるで物貰いだと言った人があります。

 

神の国は、神様がすでにお造りになったのです。人間が造れるものではありません。また招待されなければ、入れません。神様が許可されてはじめて入れてもらえます。私たちはまったく受け身なのです。

2015年11月8日 礼拝説教要旨

伝道に遣わされる

 

 

政所 邦明 牧師

 

 

マタイによる福音書 第10章1-15節

 

 

 主題聖句:「イエスは12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し」   

マタイによる福音書 第10章1節

 

                                   

ご自分の所に集まってくる群衆は、どの人も弱り果て、打ちひしがれているように主イエス様の目には映りました。この人たちがほんとうの飼い主を見出していないからです。(9章36節)群衆をまことの飼い主へ導くのは弟子たちの役目です。

 

群衆は疲れ果てています。その状態は神様にとっては別の面を持ち、収穫されるのを待つ実った穀物に喩えられるのです。(9章37節)その人達が主イエス様のものとされ、迎え入れられるために弟子たちが遣わされてゆきます。弟子たちが自分で思いつき、勝手に行動するのであれば、「神さま!働き手を送ってください」とわざわざお願いする必要はないでしょう。穂に鎌を入れ、束に結わえ、倉庫に運ぶ農作業は大変です。しかし、この取り入れは、打ちひしがれている人が真実の救い主を見出すように導くものです。人の心に関わっています。人間の力だけでできるものではありません。それだからこそ神様の力が与えられるように心を込めて祈るのです。

 

弟子たちにご命令になるだけではありません。ご自身も12人を選ぶ際には祈られたのでしょう。悪霊を追い出し、病気を癒す全権を弟子たちに与えられます。飼い主を見失った神の民イスラエルの人々を〝羊〟と呼ばれました。(10章7節)弟子たちは遣わされていくにすぎません。また弟子たちそのものに力が備わっているのではなく、送り出してくださるお方にあるのです。遣わされてゆく者は、授けられた全権に信頼を置きます。その際も、“思い煩うな”の主のお言葉が弟子たちを後押しするのです。

2015年11月1日 礼拝説教要旨

 

収穫の主に願って

 

 

政所 邦明 牧師

 

 

マタイによる福音書 第9章35-38節

 

 主題聖句:「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」   

マタイによる福音書 第9章36節 

                                  

 

主イエス様は何もしないで、じっと群衆を眺めておられたわけではありません。ガリラヤ中の町々村々を巡り歩かれたのです。諸会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝えられました。言葉による宣教がまず行われ、宣教に癒しの業が伴います。宣教と癒しをなさりながら、次から次へとご自分の前に現れる人々をご覧になって、きっと主イエス様は思われたでしょう。…どの人も、心の中にポッカリと開いた穴(空洞)がある。神様の恵みによって埋められなければ、けっして満たされることはない。…その様を「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」とマタイによる福音書は表現しました。主イエス様はその実情を鋭く見ぬかれたのです。群衆は精神的な飢えと渇きを感じています。〝飢え〟は単に空腹感だけを意味しません。〝飼い主のいない羊〟は惨めです。草や水のある場所に連れていってもらえないばかりか、猛獣からも守ってもらえず、命の道から絶たれます。心の支えも失ってしまうのです。「これが道だ。これに歩め!」とだれかが導いてくれなければ、さまよう以外にないでしょう。

 

 

自分たちのほんとうの姿に群衆のひとりひとりは気がついておりません。しかし、主イエス様のほうが鋭く見抜いておられました。〝深く憐れむ〟つまり、はらわたが痛まれるのです。飢餓状態は福音によって、満たされる必要があります。求められる量に比べ、用いられる人の数は圧倒的に足りません。そこで、主イエス様はご自分で全部供給しようとはなさらず、弟子たち…すなわち教会に、その業に加わるように促されるのです。

2015年10月25日 礼拝説教要旨

 

すべての人に仕える

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第9章30-41節

 主題聖句:「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」   

マルコによる福音書 第9章37節 

                                  

12弟子を代表してペトロが「あなたこそメシアです」と信仰を言い表します。すると「排斥されて殺され、3日の後に甦る」と主イエス様はうちあけられました。自分の先生の身に災難が降りかかるなど、弟子たちは思いもよらなかったことでしょう。十字架と復活を通して人を救うメシアであるとおっしゃったばかりに、弟子たちに動揺が走ります。〝苦難メシア〟を受け入れるために激しい内面の戦いが始まるのです。

 

主イエス様は十字架にむかって進んでゆかれます。しかし、受難を予告されると、弟子たちの本性がクッキリと浮かび上がってきました。彼らは「自分たちの中でだれが一番偉いか」を議論し、のし上がることだけに心を奪われていたのです。「自分の十字架を背負って従ってきなさい」と主イエス様は命令されました。神の子であられるお方が、一番身を低くし、人の救いのために自分の命を献げ、仕えようとしておられます。なのに、それと真反対の方向を弟子たちは目指しています。そこで、主イエスの御心を教えるために子供を弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げられました。

 

子供は無邪気だから中心に立たせたのではありません。子供ではなく、忌み嫌われる病にかかった奴隷を真ん中に立たせられたとしたらどうでしょう。事柄がもっとハッキリしたはずです。値のない、最低の者を主イエス様は受け入れられます。いや罪深い私たちのために十字架にかかってくださいました。主イエス様に私たちは受け入れられているのです。それを恵みと受けとめる時、私たちもまた、人を受け入れることができるのです。

2015年10月18日 礼拝説教要旨

不信仰を助けたまえ

 

 

政所 邦明 牧師

 

 

マルコによる福音書 第9章14-29節

 

 主題聖句:「『できれば』と言うか。…その父親は…信じます。信仰のないわたしをお助けください。…」   

マルコによる福音書 第9章23、24

                                   

悪霊に苦しめられる子供を持つ父親がいます。その息子を主イエスのもとに連れてきました。霊は子供を引きつけさせ、地面に倒します。このような凄まじい力に苦しめられている現実を主イエス様もまた目の当たりにされました。厳しい現実を直視されても、それでもなお「おできになるなら、私たち親子を憐れんでください」と父親は主イエス様に願いました。「もしできるなら…」失礼な言い方です。 “ダメで元々、仮に結果がうまくゆきさえすれば、それでいい”的な、どこか逃げ道を作っています。

 

「『もしできるなら…』と言うのか」と主イエス様は問い返されました。「疑いを差し挟むような、無礼で、不適切な言い方をするなら、癒してあげないよ」と癒しを拒絶されたように感じたのでしょうか?父親は慌てます。「信じます。信仰のないわたしをお赦しください」「信じます」とは「信じたいと思います」くらいかもしれません。しかし、自分のことを「信仰のない私」と言いました。父親はとても正直です。

 

自分の無力や不信仰を告白し、一念発起して、努力すれば、すこしはましな信仰を私たちは持てる気がします。そうではありません。私たちは生まれつき罪に染まり、自力で信仰を持つことはできません。信仰は神様から与えられるのです。「信じるものには何でもできる」と主イエス様は言われました。信頼に足るお方は唯一神様だけです。神様だったら、いや神様でなければ、悪霊の支配からお救いになれないのです。何でもおできになる唯一のお方への信頼だけが私たちには求められているのです。

2015年10月11日 礼拝説教要旨

喜びの旅路

政所 邦明 牧師

使徒言行録 第8章26-40節

 主題聖句:「フィリポは宦官に洗礼を授けた。…宦官はもはやフィリポをみなかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」

 使徒言行録 第8章38,39節 

                                  

財務大臣にあたる立場のエチオピアの高官が、伝道者フィリポの導きで信仰を持ちました。フィリポがイザヤ書の言葉から主イエス様の福音を伝え、高官は洗礼を受けたいと言い出します。道の途中に川か、泉があったのでしょう。洗礼を受けて、水から上がるとこの人は喜びに溢れます。誰でもキリストによって救われるなら、新しく造られた人になります。古いものは過ぎ去りました。すべてが新しくなったのです。(コリントの信徒への手紙二 第5章17節) 先週、こちらの教会でも洗礼が行われました。すべての罪が赦されて、キリストと共に歩む人生が始まります。そのことを考えるだけで、心が高鳴ります。教会での洗礼の場面と高官の体験とを重ねてしまいました。高官の喜びはどれほど大きかったでしょうか。

 

当時は、地中海沿岸のいたるところにユダヤ人が住んでいました。その影響を受けて旧約聖書の教えに従い、生きていこうとする外国人も現れます。ただ高官は宦官であったと言います。女帝に仕えることもあり、去勢をしていました。エチオピアのために優れた能力を使おうと禁欲し、自己犠牲も厭わなかったのでしょう。旧約聖書には生殖機能をなくす手術を受けた男性は礼拝をする民に加われないと書いてあります。(申命記23:2)エルサレムに巡礼に行っても神殿の奥までは入れなかったのかもしれません。しかし、そのような旧約聖書のしきたりや国籍を越え、主イエス様は罪から救ってくださいます。「旅を続けた」とあります。その後の高官の人生がどんなに喜びにあふれたものであったのかを示しているのです。