2016年2月21日 礼拝説教要旨

ゲツセマネの祈り

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第14章32-42節

 

主題聖句:「…わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われまように

マルコ福音書 第14章36節

 

 

熱心に祈られる主イエス様のお姿を福音書は伝えています。ガリラヤで伝道をはじめられた頃、弟子たちから離れ、朝早くひとりで祈っておられました。(マルコ1:35,36)祈らなければ窒息してしまいます。主イエス様にとって祈りは身についたものです。まるで呼吸のようです。

 

主イエス様が父なる神様と、差し向かいになるのが祈りだと考えておりました。ところが、十字架を前にしてゲツセンマネという場所に行って主イエス様は祈られます。12弟子のうち3人を伴い、祈りの場に向かわれました。そばにいるようにと弟子たちに言われたのは、祈りで主イエス様を、支えるように期待されたのでしょう。

 

しかし、弟子たちは眠り込んでしまいます。わたしたちも含めた弟子たち、そして全人類の罪を背負うのがどれほど恐ろしいかを主イエス様は示してくださいました。罪のない神の子であっても、全身全霊を傾け、魂を絞りだすようにして、祈らなければ、とうてい全人類の罪を身代りに背負えるものではありません。主イエス様にとっても、とてつもない難事業だったのです。十字架の痛みが恐ろしいから、死を逃れさせてくださいと父なる神様にお願いされたのではなく、人間の底知れない罪の大きさにおののいておられるのです。それが主イエス様の恐れの意味なのです。

 

眠り込んで、祈りの応援には役にたたなかった弟子たちです。しかし、苦悩して祈られるお姿を見るだけでも幸いでした。主イエス様が復活された後、その祈りが罪人の救いのためであったと分かるようになるのです。

2016年2月14日 礼拝説教要旨

 葬りの備え

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第14章1-11節

主題聖句: 「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」 

マルコ福音書 第14章8節 

 

過越祭が近づいておりました。祭司長たちは主イエス様を殺そうと機会を狙っています。この方に危険が迫ります。緊迫さがじょじょに増していくのです。そのような祭りの近い食卓で、香油注ぎが起こりました。

 

一人の女性が、香油の壺を壊し、主イエス様の頭にその一部を注ぎかけます。だれも止める暇もなく、無言で、やり遂げました。壺からこぼれた香油が床のあたり一面に広がります。少しだけならともかく、こんなに多量であれば、芳しいはずの香油も、その匂いがかえって鼻を強く刺激したことでしょう。食卓にはふさわしくない異様な光景でした。

 

しかし、主イエス様はこの女のするとおりにさせられます。さらに、上記の最大級のお言葉をもってこの人をお褒めになりました。しゃべらなかったのに、行為によって、婦人は自分の信仰をよく物語ったのです。

 

フィリポ・カイサリアで「あなたは、メシアです」とペトロが主イエス様に告白して以来、3度も、ご自分の苦難と死、復活を弟子たちに予告してこられました。ところが、誠実に、その意味を弟子たちは受け取ろうとしません。どこか避けています。しかし、この婦人は十字架の死こそ、自分たちの救いに関わっていることを知っておりました。だから早々と自分の精一杯の感謝を十字架に向かおうとされる主イエス様に捧げたのです。

 

金や銀ではなく、ご自分の血をもって救ってくださった主イエス様の死(埋葬)に、ほかのなにものにも代えがたい大きな価値をこの婦人は見出しました。だからこそ、そのご愛にできるかぎり応えようとしたのです。

2016年2月7日 礼拝説教要旨

神様からのすばらしい応え

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章10-12節

主題聖句: 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」 

    

 マタイによる福音書 第5章12

   

9つ目の祝福は次のものです。すなわち、主イエス様と共に生きて行こうとするなら、迫害が起こるというのです。罵られ、悪口を浴びせられます。しかし、その時でさえ、祝福の中におかれていると主は言われます。

 

心において貧しいとか、悲しむとかであれば、無理をしなくても自然の成り行きでそうなることはあるでしょう。しかし、憐れみ深い、心が清い、平和を実現する人々(7~9節)となると自分とは関係が薄い、立派な人と感じてしまいます。まして迫害を受けるほどの人は、もう別世界で、自分は及びもつかないと思わざるをえないのです。

 

今の日本では信仰のために殉教をする迫害は起こらないかもしれません。でも、キリスト信者というだけで白い目でみられたり、馬鹿にされたりすることはあるでしょう。いずれにしても、自分の落ち度ではなく、主イエス様の弟子であり、従っているという理由で迫害を受けるのです。

 

しかし、天での報い、つまり神様からくる報いを主イエス様は約束されました。生きている間は報いられないけれど、死後にご褒美をいただけるというのではありません。迫害の苦しみに耐えている今この時、祝福の中に生かされるのです。“天国はその人ものだ”つまり、神様がご支配なさる力が苦しみの中にある人をしっかりと捕えてくださいます。慰めや憐れみを受けたり、神を見、神の子と呼ばれたり(4~9節)しています。生きている間にもう神様からの報いを受けているのです。神様の報いの大きさを深く確信するところに、辛くても喜んで生きる力が与えられるのです。

2016年1月31日 礼拝説教要旨

 

「柔和の力」

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章5節

主題聖句: 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」 

              マタイによる福音書 第5章5節  

                      

〝柔和〟な人といえば、おとなしく、やさしい人を思い浮かべます。古代のギリシャ哲学者によれば、 “怒らないといけない時には、正しく怒り、怒る必要のない時には、間違って怒らない”…それが〝柔和〟だそうです。つまり弱々しいのではなく、体に筋が一本通っています。しなやかでありつつ、したたかな強さも兼ねそなえた徳目を〝柔和〟に見ているのです。

 

それに対し、旧約聖書の〝柔和〟は逆境の中で、苦難に耐え、神様の助けを待ち望む信仰の姿勢を意味してきました。この信仰の伝統を受け継いだ形で「柔和な人々は幸いである」と主イエスが祝福を告げられたのです。

 

マタイによる福音書では、あと2回、柔和が用いられます。「すべて重荷を負って苦労している人はわたしのもとに来なさい」と言われた主イエス様がご自分を“柔和で謙遜な者”と言われました。(11:29)また、エルサレムにロバに乗って入られます。それは〝柔和な王〟として来られる預言の成就だというのです。(21:5)ふたつとも、主イエス様を指しています。

重荷を負い、苦労している者にやすらぎを与えられます。また、力ではなく、やさしさをもって支配される王の姿を示してくださいました。徹底してへりくだり、力を捨てられる神の独り子を、人々は力をもって、十字架の上で殺してしまいます。その主イエス様を神様は復活させられます。復活は神の優しさが人の暴力に勝つ証なのです。

 

柔和は、わたしたちの心が広いか、狭いか度量の問題ではありません。神様の優しさにいっさいをかけるかどうかの信仰の問題なのです。

2016年1月24日 礼拝説教要旨

悲しみへの招き

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章4節

 

主題聖句: 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 

マタイによる福音書 第5章4

  

親しい人が悲しみに突然突き落とされる経験をします。たとえば愛する家族や友人を亡くすることなどです。そのような悲しい知らせを聞いた時、 “何か慰めの言葉をかけてあげなければ”と思います。けれども、どう声をかけて良いのかわかりません。あまりの惨状に、人は、言葉を失います。不用意な慰めは相手を傷つけるだけだと知っているからです。

 

その時「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と語りかけられるでしょうか。“他人事と思って、よくいうよ!無責任な発言だね”と、嘆き悲しむ本人は、かけられた言葉に、反発するか、あるいは腹をたてるかも知れません。しかし、主イエス様だけが〝慰め〟を約束できるお方なのです。ご自分は少しも悲しんでいらっしゃらないのに、〝気休め〟で「慰められる」と安請け合いをしておられるのではありません。

 

主イエス様を預言しているイザヤ書にこうあります。「彼は…悲しみの人で病を知っていた」(53章3節口語訳) 十字架にかかられる前、ひとりで祈られた時、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ14章34節)と言われました。悲しみの極限を経験してくださいます。わたしたちの代わりに罪を償うために試練にあわれ、悲しみを味わい尽くされました。そして復活され、悲しみをも滅ぼされたのです。だからこそ、同情してくださり、ほんとうの慰めをわたしたちにお与えになることができるのです。

 

祈って、嘆き訴えます。天におられる神様に悲しみがのぼっていきます。それと同時に、尽きることのない慰めがわたしたちにくだってくるのです。

 

2016年1月17日 礼拝説教要旨

神の国に生きる

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章3節

 

主題聖句: 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちものである。」 

マタイによる福音書 第5章3節 

 

山上の説教で語られた主イエス様のお言葉の魅力は〝逆説〟にあります。日本語の一般的な意味での〝心の貧しい人々〟はふつう、「不幸」と考えるでしょう。中味がみすぼらしく、ひどくやせ細っている人より〝心の豊かな人〟が幸いだと言うのなら、筋が通ります。

 

ところがその常識に反して“心の貧しい人々は幸いである”と主イエス様は言われるのです。一見辻褄があわず、矛盾しているように思われます。けれど、何か深い信仰の内容が含まれているのではないかと予感させるのです。「貧しさは」経済的な困窮だけを意味してはいないようです。

 

ルカの方は「貧しい」と書いてあります。マタイは「心において貧しい」と言葉を加えました。そのために意味が広がります。「心の貧しさ」を謙遜と取る人もあります。しかし徳目の一つの〝謙遜〟だけでしょうか。この世界において圧迫され、失望し、部屋の片隅に縮こまっている人を思い浮かべました。すべての可能性が閉ざされ、神様だけに頼る道が残されている人です。境遇の面から言えば最悪です。しかし、信仰の面から言えば、「神様にだけ期待する絶好のチャンスではないか」と主イエス様は言われました。まだ余裕があって、神様にたよらなくても、何とかやっていける間は、本気になって神様を求めません。切羽詰まることも恵みなのです。

 

「天の国はその人たちのものである」…「天の国」とは“神様がその人を捉えている”の意味です。絶望している人を神様はお見捨てになりません。両手で挟み付けるように祝福(幸い)の中においてくださるのです。

 

2016年1月10日 礼拝説教要旨

 祝福を告げる言葉

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章1-12節

 

主題聖句: 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」 

 

     マタイによる福音書 第5章12節  

      

この章の3-12節には8つ、あるいは9つの〝幸い〟が語られています。しかも文語訳で3節は「幸いなるかな、心の貧しきもの」と訳されていました。祝福を告げる言葉で始まるのです。「おめでとう、心が貧しくて!良かったね。喜んで良いのだよ!」と褒められています。クリスマスに天使ガブリエルが「おめでとう、恵まれた方」とマリアを祝福した言葉を連想しました。(ルカ:2章28節)でもマリアはこの言葉に戸惑うのです。

 

祝福を告げられても、“心の貧しい者が幸いなのか?”その理由が分かりません。常識的には〝貧しい〟を〝不幸〟と結びつけます。「無責任な気休めを言うな!馬鹿にするのか!」と腹を立てる場合もあるでしょう。

 

しかし、主イエス様は、お語りになることにキチンと責任をお取りになります。「まぶねの中に」という讃美歌があります。クリスマスに歌いました。「たくみの家に人となりて、貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめし、この人を見よ」とあります。主イエス様は人の世の暗さと生きる辛さをご存知です。苦しみを自ら経験され、よく理解してくださいます。

 

主イエス様は人間の闇の中にご自分が入り込むようにされながら、そのところで〝幸い〟すなわち、神様に祝福された有様(状態)を語られました。十字架というどん底にまで墜ち、そして甦られました。人間の罪の暗闇を一方でご自身に引き受け、また一方で、雲のように、霧のように吹き払われました。それが十字架です。祝福される言葉に対しては、ご自分が救いの業を成し遂げることで、キチンと責任をお取りになったのです。

 

2016年1月3日 礼拝説教要旨

従順への招き

政所 邦明 牧師

フィリピの信徒への手紙 第2章12-18節

 

 主題聖句:「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」    

フィリピの信徒への手紙 第2章13節 

                                  

クリスマス礼拝から2週間が経ちました。今日は新年最初の主日礼拝になります。新たな思いでスタートを切りたいものです。

 

第2章12節において“恐れ、おののきつつ、自分の救いの達成に努めなさい”とパウロは勧めます。何を恐れ、何におののくのでしょうか?「失敗すると神様から叱られる」と思い、その恐怖から、恐れるのでしょうか。そうではありません。「神様に崇敬の念を持ちなさい」と言うのです。

 

2章6-11節はイエス・キリスト様を称える讃美歌です。神様であられるお方が神様であることをおやめになることなく、完全な人としてお生まれになりました。それがクリスマスの恵みです。この救い主は、成人し、十字架の死に至るまで父なる神様に従い通されます。その従順を神様はすべて認められ、いっさいの栄誉を御子キリスト様にお与えになりました。

このような主イエス様の従順に対し、〝怖れおののきなさい〟とパウロは勧めます。讃美歌「アメイジング・グレース」に唱われている「言葉に尽くせない驚くばかりの恵みに感動する」のと同じ意味になるのです。

 

〝自分の救いの達成〟は自分でできるものではありません。イエス様を通じて神様がしてくださった救いの業に依り頼むのです。13節でパウロは理由を述べます。「なぜなら、あなたの内面に①まず神様が働きかけてくださる。②次に良い願いを起こさせてくださる。③最後に、神のお心に叶う願いを実現させてくださる。すべてに神様が働いてくださいます。それで、「あなたがたのすることはより頼むだけだ」とパウロは勧めるのです。

2015年12月27日 礼拝説教要旨

今こそ安らかに

政所 邦明 牧師 

ルカによる福音書 第2章12-18節

 

主題聖句: 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」            

ルカによる福音書第2章29節 

  

幼子イエス様が両親に抱かれて神殿に入ってきた瞬間、「主よ、今こそ…去らせてくださいます」とシメオンは語りはじめます。シメオンの言葉は「ヌンク(今)・ディミティス(去らせてくださる)」という題の讃美歌として教会の礼拝で唱われるようになりました。

 

「去る」とは(地上を)去る、すなわち「死ぬ」ことを意味します。まるで「死ぬ」ことを心待ちにしていたかのような言い方です。生きているのが苦痛だったのでしょうか。口では「死にたい」と言いながらだれでも心のどこかでは「何としてでも生き延びたい」と願うはずです。

 

しかし、〝今こそ〟とシメオンがいう時、気持ちが高ぶっているのでしょう。強がりでもなんでもなく「今こそ、安心して死ねる」と本気でいっています。「去る」には「願いが叶ったので、重荷と感じていたことから解放される」の意味が含まれます。ホッとした気持ちが強いのです。

 

「救い主を私の(両)目が(しっかりと)見たから…」― シメオンにとって神様の約束は現実となりました。「この地上にいる間に絶対に救い主に会わせる」と聖霊によって示しを受けていました。救い主に会えて自分は幸せ者だと思ったに違いありません。祝福の中におかれているのです。

2015年、教会員を多く天に送りました。信仰生活50年以上の方もおられれば、召される間際に信仰を言い表した方もおられます。信仰生活の長さは関係ありません。救い主にお会いすることが決定的で、お会いできれば、「思い残すことは何もない」とシメオンは教えてくれているのです。

 

2015年12月20日 礼拝説教要旨

主イエス・キリストの誕生

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第2章1-20節

 主題聖句:「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」    

ルカによる福音書第2章11

 

                                   

救い主がベツレヘムでお生まれになった時、ユダヤの国の人々は夜の静寂の中で眠りについていました。キリスト様の誕生を知らされ、出会ったのは夜通し羊の番をしていた羊飼いたちです。それに飼い葉桶の周りに集まったごく限られた人も加わります。ローマ皇帝に皇子が生まれたなら、国中にお触れを出して、お祝いの行事を行ったことでしょう。

 

それに比べ、真の救い主の誕生をほとんどの人が知らないのは、寂しい気がします。しかし、これこそが実はふさわしい知らされ方だったのです。

 

羊飼いたちは、人口調査の対象から外されていたのでしょうか。人々が先祖の出身地に帰って登録をしている間も、徹夜をして働いています。納税の義務も政府から期待されてはおりません。しかし、過酷な労働には従事しています。羊飼いたちにとって〝救い〟とは、きつい仕事から解放され、収入が増え、社会の一員と認められるようになることでしょうか?

 

もちろん、外側の暮らし向きが良くなるに越したことはありません。でも、1つ良くなれば、別の不満が生まれてくることもあります。生活を改善してくれるだけの政治的指導者が〝救い主〟ではないのです。人の問題は精神や心の問題も含みます。しかし、内面の問題はその人だけが悩み、努力すれば乗り越えられる訳ではありません。いや人間だけでは解決せず、神様に持ってゆく以外にないはずです。神様と関わる人間の一番深い問題を救うために、人間の眠っている間に、神様は働いておられました。それが、救い主の誕生が世間の目から隠されているようにみえる理由なのです。