2016年1月24日 礼拝説教要旨

悲しみへの招き

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章4節

 

主題聖句: 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 

マタイによる福音書 第5章4

  

親しい人が悲しみに突然突き落とされる経験をします。たとえば愛する家族や友人を亡くすることなどです。そのような悲しい知らせを聞いた時、 “何か慰めの言葉をかけてあげなければ”と思います。けれども、どう声をかけて良いのかわかりません。あまりの惨状に、人は、言葉を失います。不用意な慰めは相手を傷つけるだけだと知っているからです。

 

その時「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と語りかけられるでしょうか。“他人事と思って、よくいうよ!無責任な発言だね”と、嘆き悲しむ本人は、かけられた言葉に、反発するか、あるいは腹をたてるかも知れません。しかし、主イエス様だけが〝慰め〟を約束できるお方なのです。ご自分は少しも悲しんでいらっしゃらないのに、〝気休め〟で「慰められる」と安請け合いをしておられるのではありません。

 

主イエス様を預言しているイザヤ書にこうあります。「彼は…悲しみの人で病を知っていた」(53章3節口語訳) 十字架にかかられる前、ひとりで祈られた時、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ14章34節)と言われました。悲しみの極限を経験してくださいます。わたしたちの代わりに罪を償うために試練にあわれ、悲しみを味わい尽くされました。そして復活され、悲しみをも滅ぼされたのです。だからこそ、同情してくださり、ほんとうの慰めをわたしたちにお与えになることができるのです。

 

祈って、嘆き訴えます。天におられる神様に悲しみがのぼっていきます。それと同時に、尽きることのない慰めがわたしたちにくだってくるのです。

 

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