2019年10月27日 礼拝説教要旨

 マケドニアへの召し

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第16章6-10節

主題聖句:その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。      

使徒言行録 第16章9節

使徒パウロが、第2回伝道旅行として、小アジア、今のトルコ半島を西に向かって行き、前に伝道した土地のクリスチャンたちを訪ねて、信仰を励ます働きをしてひと段落がつき、これから先に進み、伝道をすべき場所を探し求めていた時でした。これからアジア州に向かうことも、ピシディア州に向かうことも聖霊によってとどめられ、トロアスに向かったパウロがその夜、幻を見たのです。その幻で、マケドニア人が立って、マケドニアに来て、我を助けよと懇願したのでした。この幻を見たパウロは、仲間を相談し、マケドニア人に伝道することが主の御心を確信しマケドニアに向かったのです。

 

当教会の協力宣教師の二宮睦子師が、2011年1月30日の礼拝で、ご自身がマケドニアの叫びを聞いた証しを語られました。二宮師が1960年(昭和35年)11月にブラジリアを初めて訪問した時、ブラジリアという荒野で新都市が建設中の時でした。そこで悪戦苦闘して働いていた日系クリスチャンの石川さんから、ぜひブラジリアに来て伝道してほしいと懇願されたのです。水道も電気も通っていない場所でした。一晩祈るうちに、ここがマケドニアだ、神様が押し出してくださる。そう信じてこの地で伝道しなさいと言われていると受け止め、神様に従った時、神が道を開いてくださり、今も祝福してくださっていると。

2019年10月20日 礼拝説教要旨

背負ってくださる神

三好 晴夫 牧師

イザヤ書 第46章1-4節

 

わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。                 

イザヤ書 第46章3節

 

神様が私たち人間を背負っていてくださり、これからも背負って歩んでくださる。それは何とありがたい約束でしょうか。

 

この言葉は、直接的にはイスラエルの民に呼びかけられた言葉です。バビロン帝国に滅ぼされて、捕囚の民となって生き残っている民に向けて語られた言葉です。

 

イスラエルの民を生れた時から神に負われ、胎を出た時から神に担われてきたと言われています。イスラエル民族の歴史を人間の一生にたとえて、歴史の最初から最後まで神が責任を持って持ち運んでくださるのです。なぜでしょうか。それは、神が人間を造られたからです。神が人間を造り、イスラエルを神の民として選ばれたのです。そしてこの民をずっと持ち運んでくださると約束されるのです。そして、この約束は、今日同じ神を信じる私たちに対しても与えられている約束なのです。

 

神はイエス・キリストにおいて私たちを背負って救い出してくださいました。イエス・キリストが私たちの罪をすべて背負って、私たちを赦し、復活されて私たちに命を与えてくださいます。このように神が私たちを背負ってくださるのですから、私たちの肉体が衰えていく中も、弱さを覚える中であって、これからもずっと神が私たちを背負って救い出してくださると信じて歩むことができるのです。

2019年10月13日 礼拝説教要旨

テモテという弟子

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第16章1-5節

 

 

主題聖句:パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。            

使徒言行録 第16章3節 

パウロがいかにしてテモテを見出し、伝道者として育てていったのかが、ここに記されています。

 

パウロが、前に宣教していた町々にもう一度行って、教会の兄弟たちを励ますために出発し、デルベやリストラにいた時です。その町に、キリストを信じるユダヤ人の一家がありました。信者のユダヤ人婦人とその子テモテです。ただし、父親はギリシア人でクリスチャンではなかったようです。この信者のユダヤ婦人は、息子テモテに信仰教育を施し、彼はクリスチャンとして評判の良い人でした。

 

それで、パウロはテモテを伝道旅行に連れて行って、伝道者に育てようと思ったのです。しかし、一つ問題がありました。彼がユダヤ人の母親の子でありながら、ユダヤ人としての割礼を受けていなかったのです。人が救われるためには、キリストの福音を信じるだけでよいのであって、割礼は必要ありません。しかし、テモテが伝道者として立つためには、同胞ユダヤ人のつまずきとなる状態であってはいけないのです。ユダヤ人である彼が伝道しようとして一般のユダヤ人に近づく時、割礼を受けていないことが分かると、ユダヤ人は彼を避けるかもしれません。それで、パウロはテモテに割礼を受けさせたのです。テモテが同胞のユダヤ人を救いに導くために、ユダヤ人のようになる配慮を考えた。

2019年10月6日 礼拝説教要旨

それぞれの出発

三好 晴夫 牧師

使徒言行録 第15章36-41節

主題聖句:そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、・・・パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。    

使徒言行録 第15章39,40節

教会は、エルサレム会議で、キリストを信じようとする人に割礼などのユダヤ人の慣習を要求してはいけないことと、互いに愛の配慮をすべきことを決定しました。それで、その決定を諸教会に伝えて行く必要もあって、パウロは、親しい友のバルナバに、前に主の言葉を宣べ伝えた町々の人たちの所に行って、彼らを訪ねて、どのようにしているか信仰の励ましを与えたいと提案したのです。

 

ところが、だれと一緒に行くかで、二人の意見が違いました。バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて行きたいと言うのです。マルコにもう一度伝道者として成長するチャンスを与えたいと思ったようです。しかし、パウロは、そのマルコが、前に伝道旅行の途中で離れ、一緒に宣教に行かなくなったことから、連れて行くべきではないと考え、反対したのです。今は宣教することこそ優先すべきと思ったのです。

 

それは、伝道者が人々のところに出て行って、福音を伝えることは様々な困難があり、苦労も多いことを知っていたからです。それでも、この宣教をすべきなのは、主イエス・キリストから委託されて、聖霊に励まされて、主の名を伝えるという務めだからなのです。この務めに誠実さが求められると思ったのです。それでパウロは、バルナバと別れて、協力者にシラスを選び、主の恵みにゆだねられて出発するのです。

2019年9月29日 礼拝説教要旨

励ましに満ちた決定

 

三好 晴夫 牧師

 

使徒言行録 第15章22-35節

 

主題聖句:それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。         

使徒言行録 第15章19節 

教会は神を求めるすべての人に開かれたものです。そこで求められる一致は、イエス・キリストを主と信じ告白することです。それ以外に何かしなければならないことはありません。

 

しかし、イエス・キリストを主と信じ告白すること以外に、ある一定の行いをすることが、救いの条件として課せられるのだと主張する人々が現れたことがありました。それが、使徒言行録15章で、あるユダヤ人クリスチャンがエルサレムから来て、アンティオキアの教会で、異邦人のクリスチャンに、ユダヤ人の慣習を守らないと救われないと主張したことでした。そのためにエルサレムで会議が開かれました。

 

そこで、使徒ペトロが異邦人ローマの百人隊長コルネリウスがキリストの福音を聞いたとき、割礼を受けていなくても聖霊が与えられて信じて救われたことを語りました。だから、ユダヤ人がキリストの恵みによって救われたように、異邦人も恵みによって救われると話したのです。

 

そこで、エルサレムの教会の指導者の一人、主の兄弟ヤコブが、まとめとして、ペトロの語ったことは、神は、ユダヤ人だけでなく異邦人の中からも信じる者を選び出されることを示していると語り、異邦人も信じたら救われることは預言者の預言していたことと一致していると語り、キリストを信じようとする異邦人に割礼などの行いを要求して悩ませてはいけないとしたのです。これが教会の合意した決定でした。

2019年9月22日 礼拝説教要旨

恵みによって救われる

 

三好 晴夫 牧師

 

使徒言行録 第15章1-21節

 

主題聖句:わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

 使徒言行録 第15章11節

  

私たちが救われるのは恵みにより、信仰によるのです。これがキリスト教の福音です。この信仰に私たちは立たなければなりません。この信仰に立つことの大切さがより明らかになった出来事を今日学びます。

 

事の始まりは、パウロとバルナバがいたアンティオキア教会に、あるユダヤ人クリスチャンが来て、その教会のギリシャ人でクリスチャンになった人たちに「異邦人であるあなたがたも、ユダヤ人が受ける割礼の儀式を受けなければ救われない」と教えたのです。それを聞いたパウロとバルナバは大変怒り、「それは違います。主イエスを信じるだけで救われるのです」と言って反対しました。

 

そこでパウロとバルナバは話し合いのためにエルサレムに上り、教会の指導者たちが集まってこの問題を協議しました。様々な意見が出された後、ペトロが、百人隊長ローマ人のコルネリウスにキリストの福音を伝えた時の経験に基づいて語りました。神様に導かれて、ユダヤ人のペトロが、異邦人であるコルネリウスとその家族にキリストの救いを語っていると、彼らがイエスを信じ、聖霊に満たされて、異言を語り神を賛美し出したのです。そのことによって彼らも神に受け入れられたことが証明されたのです。彼らに恵みによって救いが示されて、彼らがキリストを信じた時、信じるように導かれ、救いを頂いたのです。

2019年9月15日 礼拝説教要旨

天の故郷をめざして

三好 晴夫 牧師

ヘブライ人への手紙 第11章8-16節

 

 

主題聖句:この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、

 

                   ヘブライ人への手紙11章13節 

今日記念する召天された教会員の方々は皆、神によって生を受け、ある時、主の憐れみをよって信仰を抱いて生かされて、主のお召しを受け主の御許に眠っておられる方々です。

 

今日の箇所には「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」とあります。ここに記されたアブラハムも、信仰を抱いて死んだ一人です。どんな信仰を抱いていたかというと、主から、主の示す地に行け、そうすれば、あなたも子孫も祝福されるという約束を信じて、行き先を知らずに主の命に従ったのです。生きている間には約束の土地は与えられませんでしたが、「はるかにそれを見て喜びの声をあげ」で信じて歩みました。そして定めのときに本当の故郷である永遠の地に住むという恵みが与えられることを期待して生きたのです。

 

信仰の先輩方も地上が全てではなく、その先に備えられた本当の故郷をめざして歩んだのです。それは、主イエス・キリストの成し遂げられた救いによって罪の赦しが与えられ、永遠の命の希望を与えて頂いたからです。このキリストの真実に触れて、このキリストを信じて、天の故郷をめざして歩まれたのです。キリストのおられるところの天の故郷に行きたいと願ったからです。このような先輩たちの信仰の姿を覚えて、私たちもキリストを信じて天の故郷をめざして歩みましょう。

2019年9月8日 礼拝説教要旨

信仰に踏みとどまるように

三好晴夫 牧師

使徒言行録 第14章19-28節

 

 

主題聖句:弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。                   使徒言行録14章22節

キリストを信じて歩む道には、色んな苦難も経験することがあります。それゆえに信仰を持ち続けるために、み言葉からの励まし、信仰の交わりの励ましがぜひとも必要です。

 

パウロたちが力強くキリストの福音を伝えたところ、多くの信じる者が起こされましたが、同時に信じようとしない人たちから迫害を受けることもありました。遂にリストラで、遠くからやって来たユダヤ人が群衆を巻き込んでパウロに襲い掛かり石を投げつけたのです。パウロは死んでしまったと思われました。でも、パウロは突然起き上がり、町に入って行き、伝道を継続したのです。そして、再び今まで伝道してきた町々に引き返したのです。それは、信仰を持った人たちの心を励まし、信仰に踏みとどまるように励ますためでした。

 

そうしたのは、迫害を受けたのは伝道者だけではなかったからです。信じて間もないクリスチャンたちも大きな試練に遭っていたからだと思われます。彼らは信じてまだ日が浅かったので、迫害の苦しみに耐えられず、信仰を捨ててしまう危険もあったからです。だから、彼らのところに戻って行き、彼らを励まそうとしたのです。「信仰に踏みとどまる」とは、神の恵みに留まることであり、主から離れないで留まることです。私たちも主の励ましを受け、信仰に踏みとどまりたいものです。

      

 

2019年9月1日 礼拝説教要旨

すべてのものを造られた神

三好晴夫 牧師

使徒言行録 第14章8-18節

 

主題聖句:この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。               

 使徒言行録14章15節 

 

パウロとバルナバが小アジアのリストラという町で伝道をしている時のことです。集まって来た人々の中に、生まれつき足の不自由な人がいました。この人がパウロの語る福音をじっと聞いていました。パウロはこの人を見て、いやされるにふさわしい信仰があるのを認めたので、彼に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言いました。すると、その人が踊り上がって歩き出したのです。

 

この様子を見たリストラの人々は大変驚き、リカオニアの方言で「神々が人間の姿をもって、わたしたちのところにお降りになった」と叫んだのです。そして人々はバルナバとパウロを、ギリシャ神話のゼウスとヘルメスと呼んで二人に雄牛のいけにえを献げようとしました。こを聞いた二人はこれを放置しておいては間違った教えを伝えたことになると恐れ、人々の誤解を解くために自分の服を引き裂いて彼らの中に飛び込んで言いました。「なぜこんなことをするのですか。わたしたちも皆さんと同じ人間にすぎません。あなたがたが、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは伝道しているのです。神は、天と地と海とその中のすべてのものを造られたお方です。この神はあなたがたに豊かに恵みを与えて下さっています。」と伝えました。このようにして、パウロは天地万物を創造された神こそ生ける神であり、この神がイエス・キリストを救い主として送り、私たちを救ってくださるのだと伝えたのです。

2019年8月25日 「主の豊かな導き」(今日の説教とは関係ありません)

主の豊かな導き

(今日の説教とは関係ありません)

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 

             詩編23編1節(新改訳聖書) 

                         

詩編23編では、詩人が、主なる神を、私の羊飼いと呼び、自分を弱い一匹の羊として、神の豊かな導きを感謝し、賛美しています。つまり、人生の晩年に差し掛かった人が、これまでの人生を振り返って、主なる神こそが自分の歩みを豊かに導いてくださったと気づき、その思いを歌にしているのです。

 

詩人は、神様が自分の羊飼いと言いますが、羊飼いの仕事は、羊の群れを朝から晩まで丁寧に世話をしなければならない結構大変な仕事です。そのように、神は、私たち人間の生活すべての面倒を見て、一人前に育っていくように導かれるのだというのです。でも、私たちは、自分を育ててくれた親が、自分に対してどんなに大変な思いをして育ててくれたとしても、そのことの大変さをあまり知っていません。

 

この詩人は、主が私の羊飼い、私は乏しいことがありませんとどうして思えるのでしょうか。それは、自分がいかに弱くて愚かな一匹の羊であるという自覚があるからではないでしょうか。自分は弱くて愚かであったのに、神はこんな私の羊飼いとして私を守り生かして助けてくださったという思いがあるからです。事実、羊は弱く、臆病で目先しか見えず迷いやすい存在です。私たち人間に似ています。そんな私たちを主なる神が、キリストを通して私たちを導いてくださるので安心なのです。