2020年5月24日 礼拝説教要旨

 生きた水の流れ 

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第7章32-39節

主題聖句:イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  

ヨハネ福音書第7章37節

 

今日は、教会の暦では、キリストの昇天を覚える時です。主イエス・キリストが地上を離れて天の父のもとに上っていかれた恵みを覚えたいと思います。

 

主イエスはご自分がこの世を去って天の父のもとに帰る時が近づいた時、地上に残していく弟子たちに、弁護者である聖霊を送ることを約束されました。この聖霊はまことの弁護者として弟子たちと共にいて、彼らを守られます。この弁護者が、イエスを信じる者に与えられるように、主イエスは天の父のもとに上っていかれるのです。

 

主イエスはこの約束の聖霊を受けるように、招きの言葉を語られました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。作物が育つために水分が必要であり、水分がないと作物は枯れてしまいます。私たちの身体にも適度な水分が必要であり、水分がないと弱ってしまいます。私たちの魂にも、「生きた水」、神様の霊的な祝福が必要です。この霊的な祝福である聖霊が私たちの内にあるとき、私たちは祝福されます。この祝福をいただくために、主イエスは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに」と呼びかけておられます。私たちは神様の慈しみがもっとほしいと思っているでしょうか。渇いて主イエスに信頼するとき「生きた水」聖霊をいただくことができるのです。

2020年5月17日 礼拝説教要旨

 キリストの勝利 

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第16章 25-33節

 主題聖句:あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わた

しは既に世に勝っている。」  

ヨハネによる福音書第16章33節

 

今、私たちが生きている現実社会において、様々な悩みや苦しみがあります。ほんの些細な悩みであっても、私たちは悩み苦しみます。また、自分としては、正しい道を歩んでいても、信仰のゆえに苦しむという苦難を経験することもあります。

 

そういう悩みや苦難の中にある私たちに与えられる慰めは、「あなたはひとりではない。父が、共にいてくださる」という支えです。主イエスが苦難の中にあった時ですら、ひとりで悩まれたのではなく、父なる神が共におられたのです。事実、そうであったのです。

 

その主イエスが、弟子たちに与えられた慰めの言葉が、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」という言葉です。罪と暗闇の世が、主イエスを苦しめ、十字架で滅ぼしたかと思われましたが、神がこのイエスを死から復活させて勝利されました。この主イエスの勝利によって、弟子たちは勇気を頂くことができたのです。

 

この世では苦難があります。しかし、そのような中にも、主が私たちと共におられます。主の平安の中に守ってくださいます。このお方は、世に既に打ち勝たれたお方です。このお方の勝利を私たちにも与えてくださいます。このお方が、支えてくださいますから、一人ぼっちではない。このお方の勝利を信じて、守ってくださると信じて歩みましょう。

2020年5月10日 礼拝説教要旨

 世があなたがたを憎むなら 

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第15章18-27節

 

主題聖句:「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。  

 ヨハネによる福音書第15章18節

 

私たちが主イエスを信じ、このお方の救いにおすがりして生きていくことは、まことに幸いなことです。しかし、「世」、すなわちこの世に生きる人々の中においては必ずしも、私たちキリストを信じる者は歓迎されるとは限らないのです。むしろ信仰のゆえに憎まれたり迫害を受けたりすることがあるのです。

 

それはどうしてなのでしょうか。そのことについて、主イエスが十字架におかかりになる前に、残していく弟子たちに教えておられるのが今日の聖書箇所です。世が主の弟子たちを憎むのは、主イエスがまず先に世の人々から憎まれたからなのです。主イエスは暗闇を照らす真の光としてこの世に来られ、神の御心に従ってきよく歩まれ、神の愛を表わされ、人々を愛し、正しいことをなさいました。しかし人々はその主イエスの愛の行いをまぶしいと感じ、その光である方を憎み、主イエスを十字架につけて殺しました。ヨハネ3章19節に「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。」とあるとおりです。

 

それゆえ、主イエスの弟子たちや今日のキリストを信じる者が世から憎まれることがあることを覚えるべきなのです。

 

主イエスは御自分が世から憎まれ殺されそうになった時、憎む者を愛し赦しを祈られました。この主イエスの愛と犠牲の故に私たちは救われたのです。主イエスは聖霊によって私たちと共にいてくださいます。

2020年5月3日 礼拝説教要旨

 わたしを愛するか

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第21章15-25節

 

主題聖句:イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と・・・

               ヨハネによる福音書 第21章15節

 

私たちは躓いたり失敗したりします。そんな自分の弱さに気づき落ち込みます。そんな私たちを神様は見捨てられず、救った者を最後まで支えてくださるのです。その実例が今日の箇所に示されています。

 

ガリラヤの湖畔で主イエスと弟子たちが朝食を済ませた後、主イエスはペトロに3度同じ質問をされました。「わたしを愛しているか」と。

 

主イエスを愛するとはどういうことなのでしょうか。主イエスがペトロを、私たちを救うために十字架にかかり命を捨てる程に愛してくださいました。その愛を忘れないで、感謝することでしょう。それ以上に、主イエスの大きな愛に対して誠実にお応えすることでしょう。

 

なぜ主イエスは3度も繰り返しこの質問をされたのでしょうか。主イエスはこれから天に帰られます。後に残す弟子たちに主イエスの代わりに救いを伝える仕事を続けさせようとしていました。その役目にペトロを選ばれたのです。主イエスは罪深い人間を救うためにご自分の命を捨ててくださいました。でもそのことが分からずペトロは3度もイエスを否定し、イエスを見捨ててしまいました。主イエスはペトロに3度、わたしを愛するかと問われて、彼の本当の姿に気づかせ、その彼をなおも主イエスが受け入れておられることを知らせ、主に従うよう導かれた。

2020年4月26日 礼拝説教要旨

 岸辺に立たれる主  

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第21章1-14節

 

主題聖句:イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。    

ヨハネによる福音書 第21章7節

 

主イエスが復活され、現れてくださったという弟子たちの証言を記した福音書を通して、私たちに復活の事実を伝えています。今日の箇所は、復活の主がガリラヤ湖畔で弟子たちにご自身を現されたところです。

 

彼ら弟子たちはガリラヤで主イエスの現れを待っていました。その待つ間、彼らは皆で舟に乗って漁に出かけたのです。元漁師もいたので、自分たちの感と経験でうまくいくと思っていたのですが、その夜は何も獲れなかったのです。それゆえ、彼らはとても惨めな思いで岸に戻っていました。夜が明けたころ、岸辺にはイエスが立っておられました。でも弟子たちにはそれが分かりませんでした。その人が、舟に食べ物がないことを知ると「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば獲れるはずだ」と進言してくれたのです。その進言は、無謀に思われたのですが、彼らは言われた通りに網を打ったところ、何と魚は多くて網を引き上げることができなかったのです。その時、彼らは3年前にも同じ経験をしたことを思い出しました。あの時も同じように何も魚が獲れなかったのです。その時にイエスの言われた通りに網を打ったところ、沢山の魚が獲れたのです。その時イエスが自分を弟子として下さった。そのことを思い出し、岸辺に立っておられる方が主だと分かったのです。主はなおもこの自分を弟子とするために待っておられたと知りました。恵み深いお方です。

2020年4月19日 礼拝説教要旨

 平安があるように

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第20章19-31節

 

主題聖句:そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。       

ヨハネによる福音書 第20章19節

 

「平和があなたがたにあるように」と主イエスが弟子たちのところに来てと言われたのです。「平和があるように」という言葉は、ユダヤ人の挨拶の言葉であるヘブル語の「シャローム」であったことでしょう。「シャローム」の言葉は、神様が共におられるから安心だという意味です。この言葉を使って主イエスは弟子たちに呼びかけられたのは、単なる挨拶以上の意味があったと思います。

 

この時の弟子たちは、ユダヤ人を恐れていました。主イエスを捕えて十字架に付けたユダヤ人たちが、今度は自分たちを捕えて十字架に付けるのではないかと恐れていました。それだけでなく、主イエスが捕えられたとき、自分たちが主イエスを見捨てて裏切って見殺しにしてしまったという申し訳ない思い、罪責感に悩み苦しんで、恐れを感じていたのです。その彼らのところに主イエスは現れて「平和があるように」と呼びかけられたのです。この「平和」は、世が与える一時的なはかない平和とは違う、主イエスご自身の平和です。いついかなる時にも与えられる永続する平和です。その平和を復活された主イエスが彼らに、そして私たちに与えられるのです。

 

そう語られた後、ご自分の両手の釘跡と、脇腹の傷跡をお見せになったのです。その傷跡は主イエスが十字架で彼らの罪を贖ったとのしるしでした。あなたは裁かれず赦されたと示し、平安を与えられたのです。

2020年4月12日 礼拝説教要旨

 空っぽの墓 

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第28章1-10節    

  あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

                            マタイによる福音書 第28章6節

教会の暦では、今日は、主イエス・キリストが神の全能の御力によって罪と死とを打ち破って復活されたことを覚えるイースターです。

 

人はいつか死にます。死んだらもう終わりというのが科学的常識です。そうなのですが、不思議なことなのですが、神様のなさった御業として、主イエス・キリストが確かに復活されたと、目撃した弟子たちが、私たちに証言して、その御業を伝えているのです。

 

確かに主イエスはゴルゴダの丘で十字架刑に処せられて死なれました。その時、そばで見守っていた婦人の弟子たちも主イエスは死なれたと受け止め、新しい墓に納められるのを見届けました。彼女たちには、それしかできなかったのです。ですから、安息日が終り、週の初めの日の明け方になったとき、急ぐように彼女たちは主イエスの納められた墓にやって来たのです。すると、突然大きな地震が起こり、天使が墓を塞いでいた大きな石を転がし、その石の上に座ったのです。彼女たちは恐れました。「恐れることはない」と語り、彼女たちの思いを見抜いて「あなたがたはイエスを捜しているだろうが、あの方はここにはおられない。復活なさった」と、主イエスが死を打ち破って復活され、今生きておられると示されたのです。墓の中を見なさいと示唆されました。「かねてから言われたとおり」すなわち前もって主イエスが予告されていた通り神の御計画がなったのだと知り、彼女たちは復活を知り恐れつつ喜んだのです。

2020年4月5日 礼拝説教要旨

 真理に生きる

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第18章28-40節

          

主題聖句:イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

                    ヨハネによる福音書 第18章37節

 

ユダヤ人指導者たちは、主イエスを大祭司カイアファのところからユダ総督官邸に連れて行き、主イエスを裁判するように訴えたのです。その時、彼らが訴えたことは、この男がわが民を惑わし、自分は王たるメシアだと言っているということでした。

 

それを聞いた総督ピラトは主イエスにこう尋ねたのです。「お前はユダヤ人の王なのか。いったい何をしたのか。」それに対して主イエスは「わたしの国はこの世に属していない」と二度も繰り返し語りました。主イエスが王となっているその国は、この世で生み出されたものではない。この世の政治力や経済力によって進んでいく国ではない。神の支配される、神を中心とした共同体だというのです。

 

「わたしは真理についてあかしするために生まれ、そのために世に来た。」と言われました。この「真理」とは、科学技術とか数学の定理のような真理の意味ではなく、永遠の神、生きた真実のことです。ヨハネ14章5節でトマスの「主よ、どこへ行かれるのは、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか。」の問いに、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」と答えられました。主イエスが真理そのものなのです。真実の方です。真実な主が、真実に私たちを罪から救うために身代わりに十字架に向かわれたのです。

2020年3月29日 礼拝説教要旨

 一粒の麦  

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第12章20-36節 

 

主題聖句:はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

                    ヨハネによる福音書 第12章24節

 

ユダヤの過越祭の時、エルサレムに多くの人々が集まる中に、何人かのギリシア人が来ており、彼らが主イエスの弟子の一人フィリポに声をかけ「イエスにお目にかかりたいのです」と申し入れたのです。彼はアンデレと共に主イエスのもとに行き、ギリシア人の申し出を伝えたところ、主イエスはこう答えられたのです。「人の子が栄光を受ける時が来た」。今までは主イエスはことある毎に、「わたしの時は来ていない」と言われていたのに、ここに至って「時が来た」と言われたのです。「人の子」すなわち、主イエスは救い主として栄光を表わす時が来たというのです。外国人が主イエスのもとに訪ねて来てイエスにお目にかかりたいと求めたことは、とても重要な意味を持っています。外国人にも主イエスによって救いの恵みが現される、そのような栄光が表わされる時がきたと言われたのです。

 

では、どのような栄光を主イエスは受けられようというのでしょうか。それに続く主イエスの言葉が、上記の言葉「一粒の麦」のたとえです。このたとえを通して大切なことを伝えてこられます。主イエスご自身、多くの実を結ぶようになるために、一粒の麦としてご自分の命を捨てられるのです。すなわち、ご自身が多くの人の救いのために一粒の麦として身代わりの死を成し遂げられ、栄光を現されるのです。そして、私たちにご自身の愛を示すとともに、命がけで主に従うよう招かれるのです。

2020年3月22日 礼拝説教要旨

 香油を注がれた主

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第12章1-8節

 

 

主題聖句:そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持

 って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香

油の香りでいっぱいになった。 

ヨハネによる福音書 第12章3節

 

主イエスが、ユダヤの指導者たちからねたまれ、今にも捕えられ亡き者にされようとしていた不穏な空気に満ちていたとき、闇の中に輝くまぶしい光のような出来事がありました。一人の女性が主イエスの体に高価なナルドの香油を注いだのです。

 

主イエスがベタニヤに来られたとき、人々は主イエスのために夕食会を用意し、そこに主イエスも弟子たちも、マルタとマリアの兄弟ラザロも客となって同席していました。そのとき、マリアが主イエスのそばに近づき、主イエスの足に非常に高価なナルドの香油を注ぎ、自分の髪の毛で拭ったのです。足を洗う行為は、当時召使が客の足を洗う行為でしたから、マリアがこのようにしたことには、主イエスへの愛、へりくだった謙遜な思いが込められていたのでしょう。ナルドの香油はすごい香りのする香油であり、その良い香りが家全体に満ちたのでした。

 

マリアが主イエスの足に高価な香油を注ぐ姿を見た人たちは、もったいない、もっと有効な使い道があるのにと思ったのでした。しかし、主イエスは、マリアの行った行為をほめられたのです。彼女は、その時、主イエスがこれから人類の救いのために十字架にかけられようとしていたことに気づいていなかったでしょうが、何か主イエスのお心を察していたのかもしれません。主イエスは喜ばれたのです。主イエスは私たちのささやかな信仰を、感謝する思いを主は喜んでくださるでしょう。