2020年12月20日 礼拝説教要旨

神は我々と共におられる 

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第1章18-25節

 

主題聖句: 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。                          マタイによる福音書 第1章23節

 

クリスマス。それは、神の御子イエス・キリストが人となってお生れくださったことを記念し、お祝いする時です。しかし、そのイエス・キリストがお生れくださったこの世界は、つまり、私たちの住んでいるこの世界は、悩みと苦しみが溢れていました。

 

ヨセフも悩み苦しんでいました。婚約中のマリアが聖霊によって身ごもったと聞いても、それを理解できず、思い悩んでいたのです。ヨセフは正しい人であり、心優しいでしたから、どうしてよいかわからず、ついに密かにマリアとの婚約を解消して別れようとしていました。そんなとき、思い悩むヨセフに主の天使が現れて、マリアを妻として迎え入れなさい、マリアのお腹の子は聖霊によるものだ、その子をイエスと名付けなさい、その子は自分の民を罪から救うものとなると伝えられたのです。マリアを妻として迎え入れて、妻と生まれる子を守るという使命が与えられたのです。この主の天使の言葉を、イザヤ書7章14節の預言の成就である、と福音書記者マタイは語りました。処女マリアから生れる、イエスと名付けられるお方は、その存在と働きにおいて、「インマヌエル」神が我々と共におられることの確かな保証だというのです。主イエス・キリストにおいて、神が人の世界に来て下さり、私たちを罪から救い出して、神と共に生きるようにしてくださったのだというのです。

2020年12月13日 礼拝説教要旨

目の見えない人が見え 

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第11章2-19節

 

主題聖句:イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え…

              マタイによる福音書 第11章4、5節

 

待降節第3主日として、救い主イエスの少し前に現れて救い主の道備えをした洗礼者ヨハネについて学びます。

 

洗礼者ヨハネは荒野に現われ、「神の裁きが近づいたから、自分の罪を悔い改めよ」と教え、後に来られるメシアとしてイエスを紹介しました。そのようなヨハネが牢の中にいたのは、当時の領主ヘロデの罪を彼が責めたからです。それでヘロデに捕えられ、牢の中にいたのでした。牢の中でヨハネが気になっていたことは、自分が真剣に紹介したイエスが、果たしてメシアとしてどんな働きをしているかということでした。しかし、自分の弟子たちから聞いた情報によれば、イエスは自分の期待したようなことを行っていないということを知って、彼はぐらついたのです。それで、自分の弟子を遣わしてイエスに尋ねたのです。「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの者を待たなければなりませんか。」

 

主イエスはヨハネの弟子たちに、「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と答え、旧約聖書イザヤ書35章5,6節、61章1節を引用して、今起こっていることを教えられたのです。「目の見えない人は見え」るようになっています。神のなそうとされる救いの御業がイエスにおいて起こっているのです。ヨハネでさえも、自分の考え、理想の中にイエスをはめ込もうとするとつまずいたのです。イエスに思いを向けよう。

2020年12月6日 礼拝説教要旨

不信仰にならないように  

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第13章53-58節

主題聖句:イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。             

 マタイによる福音書 第13章57、58節

 

「群盲(ぐんもう)象を評す」ということわざがあります。多くの盲人が象を撫でて、自分の手で触れた部分だけで象について意見を言う意味から、凡人は大人物・大事業の一部しか理解できないというたとえです。そのように、私たちが、主イエスを理解するときも、その一部しか理解できないために、主イエスを正しく理解できずに、つまずいてしまうことが起こっているのではないでしょうか。

 

今日の箇所で、主イエスは育った故郷に帰られ、会堂で教えられたとき、故郷の人々がその教えに驚いたとあります。そして、イエスにつまずいたのです。どうしてそんなことが起こったのでしょうか。彼らは主イエスの教えを聞いて、その知恵と奇跡を行う力はどこから得たのかと、驚き叫んだのです。その時彼らが考えたのは、その力は天から来たとは考えず、周囲を見回したのです。この人は大工の息子だ、母親はマリアだ、その兄弟たちは、我々と一緒に住んでいるではないかと考えたのです。イエスを自分たちと同じ世界に生きる人としか考えられなかったのです。その理解によってイエスを預言者と尊敬はしても、救い主とは認められなかったのです。イエスの語る言葉を、神からのものとは受け入れることができなかったです。私たちが主イエスの言葉を聞く時に、主イエスがどんな思いで私たちに語られるのか、信仰を持って受け止めるようになりたいものです。

2020年11月29日 礼拝説教要旨

主の来臨の希望 

三好晴夫 牧師

イザヤ書 第2章1-5節

ロ-マの信徒への手紙 第13章11-14節

 

主題聖句:更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。・・・今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。                

     ローマの信徒への手紙 第13章11節

 

私たちの知っている今はどんな時でしょうか。異常気象、高齢化社会、コロナ禍による健康不安や経済不況、貧困など、厳しい現実の中にあり、それらに対して耐え忍びつつ、誠実に生きようとしている私たちです。そういう見方は、どこか今の瞬間だけを見た近視眼的な見方です。それだけでは不十分ではないでしょうか。もっと広い視野で見ていかなければなりません。そのような見方を助けてくれるのが、聖書の指し示す、神がどのように私たち人間とこの世界をご覧になっておられ、どのように救おうとしておられるかという視点です。

 

イザヤ書2章1節以下には、敵の攻撃に囲まれて苦しむ民に対して、終わりの日に主の神殿の山に多くの人々が主の教えを聞くためにやって来る。その教えによって平和の日が来るとイザヤが語って、民に、主の救いが来るとの希望を指し示しました。その預言は、主イエス・キリストの来臨とその御業によって実現し、この方による救いが示されました。さらにローマ13章11節には、今、私たちが信仰に入った頃よりも時が経ち、信仰がますます深まり強められてより救いが近づいているとあります。この救いは、やがてキリストが来られ死人を復活させて生きている者を立ち上がらせてくださる終わりの日の救いが近づいているのです。私たちはその時に備えて、闇の行いを止めて、光である神の前にキリストを信じて歩みましょう。

2020年11月22日 礼拝説教要旨

義とされた者の祝福   

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第5章1-5節

 主題聖句:このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

ローマの信徒への手紙 第5章1節

 

ローマの信徒への手紙の5章に入りました。何か高台に上った時に見えて来る開けた景色を眺めているような印象がします。ここで今一度、これまで4章までに書かれてあった「信仰によって義とされる」ということが、どんな祝福をもたらすのかがまとめて言い表されているからです。これは私たちに大きな喜びをもたらしているとパウロは賛美しています。

 

それは「わたしたちは・・・神との間に平和を得ており」という祝福です。ひと言で言うと、私たちは神様と和解したということです。神様と和解したということは、神様が私たちの味方となってくださったということです。しかし、キリストを信じるまではそうではなかったのです。私たち人間は神を無視し、自分の欲望によって歩み、神に敵対して過ごしていました。ですから、神との間には、深い永遠の淵があるように離れて、神抜きの生活がありました。その結果神から裁かれてもおかしくなかったのです。しかし、神は私たちをそのまま裁かれるのではなく、何とか救い出すために、御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、私たちの罪とその結果の裁きをこのお方に背負わせて十字架につけて裁かれました。この御業によって私たちが裁かれず、神の前に義とされるようにして下さいました。それは神の表わされた無償の恵みです。信じて頂くのです。キリストのおかげで神との間に平和があり、和解を頂いているのです。この祝福を感謝します。

2020年11月15日 礼拝説教要旨

望みえないのに望みを抱いて 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第4章17-25節

 

主題聖句: 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、

              ローマの信徒への手紙 第4章18節

 

旧約聖書には、信仰の父アブラハムが登場します。この人の生涯と信仰の歩みを見る時、神を信じる信仰とはどのようなものかが見えてきます。

 

このローマの信徒への手紙において、パウロは信仰によって義とされるその信仰の実例としてアブラハムの信仰を取り上げています。それを、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ」たと言い表しています。アブラハムは、主から自分の故郷を離れて主の示す地に行けとの召しを受け、カナンの地に家族と共に来ましたが、年を取っており子どもがありませんでした。子を与えるという神の約束を待っていましたが、子が与えられませんでした。彼らはもう無理かと思ったときもありました。しかし、主は彼に「あなたから生れる子が跡を継ぐ」、「あなたの妻が男の子を産む」と約束されました。神の励ましを受けて、彼は神の約束を信じたのです。彼には、可能性がないと思えましたが、彼は神がその約束を実現する力があると信じたのです。神に励まされて彼は神の約束を疑わず、神の約束を信じたのです。その信仰を神は彼の義と認められました。彼を神と正しい関係にあると認めてくださいました。

 

アブラハムの信仰が、私たちの見習うべき信仰です。主イエス・キリストは私たちの罪のために私たちの代わりに犠牲になって死んでくださいましたが、神の力で復活されて私たちを義としてくださるのです。神は主イエスを通して現された救いは、この信じる信仰によって頂くのです。

2020年11月8日 礼拝説教要旨

子どものように 

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章13-16節

 

主題聖句:しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

マルコによる福音書 第10章14節

 

今日、教会では、子ども祝福式を行います。子どもを持つ親は、わが子が心も身体も健やかに成長してほしいと願って、子どものために色々なことをしてあげています。ある母親は、わが子を自分の力だけでは育てるのは難しいと考え、キリスト教の教えに立った幼稚園に子どもを託して育ててもらおうと、そのような幼稚園を探してのぞみ幼稚園に子どもを預けました。このように親は皆、子どもの祝福を願っています。

 

今日の箇所の親たちも、子どもを祝福してもらおうと、主イエスのもとに子どもを連れて来たのです。しかし、主イエスの弟子たちは近づく親子を叱責しました。それは主イエスがお忙しいから、子どもは大人より低い存在だからと思っていたのでしょう。その弟子たちの態度を主イエスは憤って、子どもたちを自分のところに連れて来なさい。妨げてはならないとはっきりと言われたのです。それは、主イエスは子どもたちを愛しておられたからです。「神の国は、このような者のものである。」と言われました。神の国、すなわち、神のご支配は、子どもたちのような者にこそ与えられるのだと言われたのです。子どもたちは純真であり可愛いですが、弱くて小さな存在です。差し出されたものを疑うことなく、無心で受け取る存在です。このような素直な心を持つものにこそ、神の祝福が与えられるのです。私たちもこのような心を持って主に近づきましょう。

2020年11月1日 礼拝説教要旨

 この幸いはだれに与えられるのか 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第4章9-16節

 

主題聖句:では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。

ロ-マの信徒への手紙第4章9節

 

私たちは幸いな生活を求めています。この箇所は、「この幸いはだれに与えられるのですか」と、私たちに問いかけています。この幸いとは、6節「行いによらずに神から義と認められた人の幸い」です。アブラハムが受けた幸いは、彼が神の約束の言葉を信じたとき、神はその信仰を義と認められたという幸いでした。ダビデが頂いた幸いは、彼の犯した大きな罪を神に赦していただき、罪を覆い隠していただいた幸いでした。

 

この幸いは、どのようにして与えられるのかについて、当時のユダヤ人は、自分たちが、イスラエルの民として生まれ、神に選ばれた民とされたという特権にあずかったという幸いのしるしとして割礼を受けた人に与えられると思っていたのです。それゆえ、彼らユダヤ人は問うのです。神の前に義と認められるという幸いは、割礼を受けた人だけに与えられるのですかと。その問いへのパウロの答えは、アブラハムは神の前に義と認められたのは、割礼を受ける前でした。アブラハムが神の約束を信じて義と認められてから14年は経過して割礼を受けているのです。ですから、割礼は、信仰によって義と認められたという神の恵みを受けた幸いを、目に見えるしるしであるというのです。割礼という外側のしるしよりも、神をはっきりと信じていることが大切だというのです。私たちは、私たちの罪を贖って下さったキリストの救いを信じ、罪を赦されたしるしとして洗礼を受けていますが、信仰を忘れてしまったら形だけになりかねません。

2020年10月25日 礼拝説教要旨

 アブラハムの信仰  

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第4章1-8節

主題聖句:聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。

ローマの信徒への手紙第4章3節

 

今日からローマの信徒への手紙4章に入ります。3章では、人が義とされる(神との正しい関係とされる)のは、神の恵みにより信仰によることが教えられていました。それは喜びと恵みに満ちた救いでした。

 

4章では、その3章で教えられたことが、間違いのないものであることを確かめるためのことが書かれています。旧約の時代の神の民イスラエルの歴史に基づいて、信仰によるとはどういうことかが確かめられています。そこで、アブラハムが登場します。彼はイスラエル民族の先祖です。彼は神の召しを受け、自分の故郷を出て自分の家族などを連れて神の示す地に旅に出て行き、いつも神に信頼して歩みました。

 

アブラハムにはまだ子どもがありませんでした。子どものないまま年を取っていました。自分たちには子が与えられないと諦めて養子を決めていたのです。そんなアブラハムに神は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と約束され、家の外へ呼び出し、無数に輝く空の星を指さしてこの星を数えるように言われたのです。彼には星の数を数えることはできませんでした。そのとき「あなたの子孫はこのようになる」と神は約束されたのです。その神の言葉をアブラハムは信じました。それで神は彼を義と認められたのです。神の前に正しい者、無実なものと認めてくださったのです。その時、アブラハムは何か善い事をしたのではありません。ただ信じただけです。これがアブラハムの信仰です。アブラハムのように神を信じましょう。

2020年10月18日 礼拝説教要旨

 弱いときにこそ 

三好 晴夫 牧師

コリントの信徒への手紙 二  第12章7-10節

主題聖句:なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。         

コリントの信徒への手紙 二 第12章10節

 

私たちは、自分の弱さを何とかして取り除き、強くなりたいと願っています。でも、その弱さが弱いまま、ますます衰えていくのを経験しています。今日、その弱さを受け入れて強く生きたパウロの経験から学びたい。

 

パウロの感じていた弱さとは、7節「わたしの身に一つのとげ」が与えられたことでした。それは、目の病気、緑内障ではないか、激しい頭痛ではないか。マラリヤではないかという説もあります。その「とげ」は精神的なものではなく、パウロの肉体上の故障であろうと思われます。このために彼は長い間悩まされ続けたようです。「サタンから送られた使い」とパウロが呼ぶほど、ひどく苦しいものでした。パウロはそれを離れ去らせてくださいと三度主に祈り願いました。しかし、その願い通りにはなりませんでした。

 

その時の主の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)というものでした。その意味は、あなたの病気がそのままあっても、わたしの恵みは十分ある、あなたの弱さの中でこそ、わたしの力は十分に発揮されるというのです。パウロが病気で苦しむ中において、その弱さを抱えたままの状態で、なお生きる力が与えられるというのです。この答えを聞いて彼は、自分の弱さを受け入れ、弱さの中に主が力を与えて下さると期待して、弱さを受け入れたのです。

 

実際私たちも弱さを抱えています。自分の弱さの中に、宿っておられるキリストの力にお頼りし、弱さの中にこそ強めて頂きたいものです。