2020年11月1日 礼拝説教要旨

 この幸いはだれに与えられるのか 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第4章9-16節

 

主題聖句:では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。

ロ-マの信徒への手紙第4章9節

 

私たちは幸いな生活を求めています。この箇所は、「この幸いはだれに与えられるのですか」と、私たちに問いかけています。この幸いとは、6節「行いによらずに神から義と認められた人の幸い」です。アブラハムが受けた幸いは、彼が神の約束の言葉を信じたとき、神はその信仰を義と認められたという幸いでした。ダビデが頂いた幸いは、彼の犯した大きな罪を神に赦していただき、罪を覆い隠していただいた幸いでした。

 

この幸いは、どのようにして与えられるのかについて、当時のユダヤ人は、自分たちが、イスラエルの民として生まれ、神に選ばれた民とされたという特権にあずかったという幸いのしるしとして割礼を受けた人に与えられると思っていたのです。それゆえ、彼らユダヤ人は問うのです。神の前に義と認められるという幸いは、割礼を受けた人だけに与えられるのですかと。その問いへのパウロの答えは、アブラハムは神の前に義と認められたのは、割礼を受ける前でした。アブラハムが神の約束を信じて義と認められてから14年は経過して割礼を受けているのです。ですから、割礼は、信仰によって義と認められたという神の恵みを受けた幸いを、目に見えるしるしであるというのです。割礼という外側のしるしよりも、神をはっきりと信じていることが大切だというのです。私たちは、私たちの罪を贖って下さったキリストの救いを信じ、罪を赦されたしるしとして洗礼を受けていますが、信仰を忘れてしまったら形だけになりかねません。

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