2022年9月25日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.39 御霊に従って歩む

 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。

ローマの信徒への手紙 第8章5節

 

私たち人間は、自分の内側に働く、悪の力に支配されていて、自分の願う善いことを行わないで、したくない悪を行ってしまう現実の中にありました。そんな状態の私たちを解放してくれたのが、聖霊の働きです。主イエスを信じた時、私たちの内に御霊が入って来てくださいました。聖霊が、私たちの内に宿って、罪と死との法則に対抗して新しい力を与えてくださるのです。

「肉に従って歩む」とは、生来の人間の欲望の思いのままに生きる姿です。肉に従って歩むとき、その人の考えはすべて肉に属することに向かってしまいます。この世の価値観や判断に自分をゆだねて、神に敵対し、神の言葉に従うことができなくなります。では、霊に従って歩むためには、どうしたらよいのでしょうか。自分の内に宿ってくださる聖霊を覚えて、み言葉に聞き従うことです。み言葉と共に御霊が私たちに働いてくださいます。み言葉に聞き従う時、御霊は私たちを明瞭に導かれます。「霊に従って歩む者は霊に属することを考えます」。御霊と同じ思いにしていただけるのです。「霊の思いは命と平和です」。キリストの命に生きるのです。

「神の霊があなたがたのうちに宿っているかぎり、あなたがたは、肉の内ではなく、霊の支配下にいます。」(9節)神の霊が私たちの内に宿って住まわれるだけでなく、霊の支配によって生活を導いてくださいます。

2022年9月18日(日) 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.38 生涯の日を正しく数える

生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。               詩編 90編12節

 

今朝は、召天者記念礼拝を持っています。「召天者」とは、生前イエス様を信じて救いをいただきながら、愛する家族と過ごし、ある時神様のお導きで天の神様のみもとに召された方々です。この方々を、今一度思い起こし感謝し、その生涯を導かれた神様に感謝をしたいと思います。

この方々を覚えることは、つらく悲しいことですが、その方が共に歩みその後、逝去されたという事実は、私たち人間の一生には限りがあり、いつか死を迎えるのだということを示しています。そのように人生に限りがあるのは、人間に問題がある、罪があってそれに対する神の裁きがあるということを、聖書は示しています。ですから、自分が必ず死ぬこと、神を畏れ敬い、救っていただかなければ、神の前に立ちえないものであることを深く覚えるべきなのです。

作者は、主なる神に救いを求めています。神の御子イエス・キリストは私たちを罪から救い出すために、ご自分の命を十字架につけて私たちの罪の罰を背負って死んでくださいました。死後、神の御力によって復活され、今も生きておられ、再び来ると約束されました。召天された方々は、人生のあるとき、この主イエスの救いを信じ、救われ、永遠の命を希望として歩み、平安に過ごされました。今主の御許で安らいでおられます。私たちも、主を信じ同じ救いを頂き、残された日々を大切に過ごしたいものです。

2022年9月11日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.35 命の霊の法則

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。       ローマの信徒への手紙 第8章1節

 

ローマ7章の最後で、パウロは自分の中で、罪の力に脅かされて善を行えない自分に絶望し、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と叫びました。同時にイエス・キリストの救いのゆえに「神に感謝いたします」と叫びました。そして8章で、激しい戦いの後、クリスチャンの慰めに満ちた勝利を語り始めるのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(1節)

「従って」で始まっています。何かすでに理由が語られたうえで、「従って」と言っているのですが、何が理由だったのでしょうか。7章25節の後にこの1節を続けると、続き具合がおかしいのです。無理があります。でも、7章6節と続けて読むとつながりが自然です。「しかし、今は、わたしたちは自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。…従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」

私たちは、主イエス・キリストの十字架の救いを受け入れ、その死に合わせられて私たちも死んだのです。それゆえに律法から解放されています。従って、「罪に定められることはありません」。有罪判決を受けることはなく、一切の刑罰から解放されたのです。「命をもたらす霊」聖霊がキリスト・イエスにある命を私たちに与えて、私たちを生かすからです。

2022年9月4日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.35 二つの自分

   わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

ローマの信徒への手紙 第7章15節

 

  今日の御言葉は、使徒パウロが自分の告白と言う形で真実に生きようとして生き切れない人間の姿を恐ろしいまでにリアルに描き出したものです。この御言葉を通して私たちは自分自身の裸の姿が白日の下にさらされていると感じます。14節で「律法は霊的なものである」、神の霊にあらわされた神のきよい意思を表したものです。その律法が私たちに示されてもそれに従うことができません。私たちがいかに肉の人であることが浮き彫りにされます。律法が正しいものとわかっていても、人間は罪の力に支配され、律法の命じることをすることができないのです。

「わたしは、自分のしていることが分かりません」。自分が律法の示す正しいことに従いたいと思っているに、実際の生活はそれとは正反対の望まない悪、憎んでいることを行っているのです。それがなぜかわからないというのです。このような行動に人間をさせてしまうのは、人間の内に住みついている罪だとパウロは指摘します。人間が罪に乗っ取られて、生活の軌道を踏み外してしまいます。欲望などに突き動かされて自分を制御できないでいます。こうして神の掟に従って生きようとする思いと、それに対抗して生きようとする思いが激しくぶつかり、戦っています。この闘いの中で苦しむ私たち。キリストが私たちと共に闘ってくださるのです。

2022年8月28日(日) 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.34 罪を明らかにする律法

   ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。    

ローマの信徒への手紙 第7章4節

 

  「律法」。それはモーセを通して与えられた神からの具体的な指示と教えです。イスラエルの社会の中で、人間のなすべき行動の原理として重んじられてきました。この律法があることによって、人間がどう生きたらよいか、何が間違ったことかを知ることができました。もしこの律法がなければ、何が正しいことかが分かりません。律法と言う基準がないならば、自分が間違っていてもそれに気づきません。律法を通して私たちは自分の罪を知るのです。

パウロは、7節で掟が「むさぼるな」と言わなければ、わたしはむさぼりを知らなかったと言います。私たちがこの「むさぼるな」という掟を知らなかったら、むさぼることが罪であると知らず、このむさぼる心が良くないとは思いません。「むさぼるな」と明確に戒めたのだから、むさぼりは罪です。このように、律法によらなければ、罪を本当に知ることはないのです。律法によって罪を知るのです。「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。」(4節)。人がむさぼるなという掟を聞いたとき、罪はこの掟によって機会を捕らえ、この掟によって罪は刺激され、むさぼる心が自分の中に湧きあがり、むさぼる行動に向かってしまいます。このように律法によって罪を知っても律法には救う力はありません。罪からの救いはキリストによるのです。

2022年8月21日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.34 律法からの解放

 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。

        ローマの信徒への手紙 第7章4節

 

  今日から、ローマの信徒への手紙7章に入ります。6章から始まった「きよめられる」という祝福の続きです。イエス様による救いを信じた者が罪から解放されたという恵みに応えて、神に対して生きる、自分を神にささげ、聖なる生活を目指して生きるように勧められてきました。

その続きとして、7章では、律法からの解放が教えられています。初代教会の時代、ユダヤ社会では、律法が神の意志として守らなければならない規範でした。律法を守ることが救いの条件であり、生きる道でした。しかし、パウロは復活のキリストに出会い救われ、律法によってではなく、キリストによる救いを宣べ伝えるようになったのです。

1~6節では、キリストが十字架で私たち人間のために死んで救ってくださったことのゆえに、私たちもキリストにあって死んだのです。それで律法に対して死んだものとされたのです。律法は、こうあるべきだと道を示しますが、守る力を与えないし、罪に誘います。キリストによって律法から解放されたのですから、律法に生きるのではなく、キリストの救いを信じ、キリストにつながって、解放して頂きましょう。

2022年8月14日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.33 聖なる生活の実を結ぶ

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
                          ローマの信徒への手紙 第6章22節

イエスを信じる以前の私たちは、罪に仕える奴隷でした。しかし、神が私たちを救うために現わしてくださった救いを知り、信じた時から、罪から解放され、神に仕えるしもべとなりました。
22節で「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり」ましたとパウロは教えています。キリストの救いを知って受け入れた私たちは、罪から解放され、神につながる、神に仕える者とされています。
しかし、どうでしょうか。キリストを信じているのですが、日々の生活の中で、罪に引きずられて罪の奴隷になっていること      はないでしょうか。どうして救われてもなお罪を犯してしまうのでしょうか。でも、神様は、信じる私たちを、もうすでに罪の奴隷から解放し、神に仕える奴隷となっていると見て、守っていてくださるのです。この恵みの中にありますから、自分が、キリストによって救われ神の奴隷とされていることを十分に自覚するようにというのです。自分を神の奴隷とされていると認めていくとき、聖なる生活の実を結んでいくのです。「聖なる生活」は、きよめ、聖化のことです。神の奴隷として歩むとき、神は私たちをきよめへと導いてくださるのです。自分を神のために生きるよう献げ、きよめて頂こう。

2022年7月31日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.31 自分を神に献げる

従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 

ロ-マの信徒への手紙 第6章12節

 

神を信じ、キリストの恵みによって救いを頂いた私たちですが、その後、どう生きるべきなのでしょうか。パウロはこのことをローマ書6章で問いかけています。これは、私たちがキリストを信じて洗礼を受けた後、どう生きるべきかという問いです。

その答えが、1~11節まで記されてきましたが、それを要約するならば、キリストの成し遂げられた十字架と復活の御業によって、私たち信じる者も、キリストとともに死んだ者とされるのです。それゆえ、罪に対して死んだ者とされ、神に対してキリストと共に生きる者とされているのです。そのような恵みを頂いているのだから、罪の中にとどまっているべきではないというのです。そのような恵みを頂いていると認めなさい、そういう立場を、私たちは頂いているのです。

では、この恵みの事実を、私たちは自分の生活の中でどう生かしていくべきなのでしょうか、それが12~14節にパウロは明らかにします。私たちの体を罪に支配させてはいけない。それは罪が私たちを支配するなら罪の欲望に従うことになるからです。罪の欲望が体の中に残っています。罪の支配を止めなければなりません。ではどうするか。神様に信頼して、自分を神様にささげてしまうようにと、勧められています。

 

2022年7月24日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.30 神に対して生きる

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。         

ローマの信徒への手紙 第6章6節

 

罪を赦された後、私たちは、どのように罪から聖められるのでしょうか。

キリストが私たち人間の罪を背負って十字架に死なれたとき、私たちのために死んでくださったのです。それを信じるとき、私も十字架で死んだ者とみなされ、私たちの罪が赦されました。そして、神の御力によってキリストが死から復活されました。その復活を私たちのためと信じる時、私たちも復活の命に生かされるのです。この恵みによって私たちも救われ、生かされるのです。

その救いの御業について、パウロは、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」と説明します。この「古い自分」とは、罪と死の支配下にある人間性のことです。私たちは生まれながら一人残らずそのような人間でした。そのような古い自分が、キリストが私たちを罪から救い出すために十字架にかかって救いの御業をなさったと信じる時、キリストに結び合わされて十字架につけられ死んだ者とみなされるのです。私たち自身は十字架で死んだわけではありませんが、キリストの成し遂げられた御業のゆえに罪の力から解放されるのです。そして、キリストが神の力によって復活され生きておられるので、私たちも生きるのです。

2022年7月17日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.29  新しい命に生きる

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。          

ローマの信徒への手紙 第6章4節

 

主イエス・キリストが、私たちの代わりに十字架で命を犠牲にして私たちの罪の罰を受けてくださいました。この救いを私のためだと信じ受け入れる時、私の罪が赦されるのです。私の罪が赦されるということは、罪に対して死んだということです。罪の支配から解放されたのです。

罪に対して死んだ私たちであるということは、どういうことか、洗礼という礼典の意味を知ることによって理解してほしいというのです。

洗礼は、元々は全身を水の中に沈める礼典です。キリストが十字架にかかって私たちの罪を背負って死んでくださったことを信じて、水の中に身を沈めるとき、信仰によってキリストの死の中に引き入れられ、私も死んだものとみなしていただけるのです。今までの自分が葬られ、古い自分はキリストに結び合わされて死ぬのです。キリストは神の御力によって死より復活されました。それゆえこのキリストを信じて、水から上げられるとき、信仰によってキリストと共に新しく生まれ変わった自分になるのです。罪の身が死んで、新しい人間として生きるのです。キリストを信じて洗礼を受ける時、私たちはキリストと共に生きるようにされるのです。