2014年6月22日 礼拝説教要旨

神が勝利される

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記下 第23章13-17

フィリピの信徒への手紙 第2章12-19

 

主題聖句:ダビデはこの水を飲むことを望まず、注いで主にささげ、「…これは命をかけて行った者たちの血そのものです。」

サムエル記下第23章17節 

                                   

ダビデは主を畏れていました。その信仰が困難を受けとめさせ、乗り越えさせていった秘訣でしょう。しかし、戦は軍隊と軍隊とのぶつかりあいです。いくら優れた総大将とはいえ、ダビデが孤軍奮闘するのでは勝利はおぼつきません。命がけで共に闘ってくれる仲間が要ります。人がついてきてくれるのも司令官の器量です。その器量は、また部下を優れた勇士に育てあげます。ダビデに人を引きつける魅力が備わっていただけのことでしょうか。そうではありません。ダビデの人格の中心には信仰がありました。

 

ベツレヘムはダビデの出身地で、まだ羊飼いの少年であった時、すでに預言者サムエルから香油を注がれて、王に任命された場所です。そのベツレヘムが敵の手に落ちています。きっと胸が張り裂けそうなになったでしょう。

 

ある時、ふと、「ベツレヘムの城門の傍らにある井戸の水が飲みたい」とダビデは漏らします。すると3人の勇士が危険をも顧みず、無我夢中で汲んできます。わがままで“生まれ故郷の水が飲めたらいいのに”と言ったのでしょうか?おそらくそうではなく、自分の人生の原点を思いつつ、神に渇き、神を慕い求めたのでしょう。願望が思わず口をついて出ただけで、命令してはおりません。部下たちがダビデの心を汲みとって、自主的に挑んだのです。

 

その水をダビデは飲めませんでした。水が部下の命そのものに思えたからです。その代わり、神に対するささげものとしました。自分の命も部下の命も神のものであることを知り、全てを神にお返ししたのです。その時、自分もまた神の支配の中に置かれたことを確信し、神の勝利を信じたのです。

2014年6月15日 礼拝説教要旨

神の訓練

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記下 第19章32-40節

ヘブライ人への手紙 第12章1-11節

 

主題聖句:「力を落としてはいけない。…主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

へブライ人への手紙 第12章6

                                    

イスラエルの王とするために神はダビデをお選びになりました。しかし、選ばれた人物であっても罪を犯す点ではわたしたちと何ら変わるところはありません。豊かな才能は、そのままでは神に用いられなかったのです。神の御業にふさわしく訓練を受け、整えられていきます。刀鍛冶が鋼を鍛えて、見事な刀剣に仕上げてゆく様子を想像しました。何度も打ち据えて、炭火で熱しては急激に水に浸け、「焼入れ」を繰り返します。その工程で、鉄は不純物が取り除かれ、ポキリと折れない、しなやかで粘り強い、性質を獲得して行くのです。そのように神からの訓練を受けないで、神の御業、(神の働き)のために用いられることはありません。

 

ダビデは王の位に就き、全部合わせて、40年間、統治いたします。その間、紆余曲折がありました。神の期待に叶う王になるためにどれほど涙を流し、冷や汗をかき、悲しみと苦しみを乗り越えてきたことでしょう。そして苦しみの果てにやっと神の御心に叶う王となって行くのです。

 

志願して特訓を受ける運動選手もいます。しかし、私たちは、生きていると予期せぬことに出会います。神の方から試練をお与えくださるのです。人生の試練が“学び舎” で、その学校で、自分に絶望し、神に導かれ、委ねるように鍛えられてゆくのです。「鍛錬は当座、喜ばしいものではなく、悲しいものに思える。しかし、後になって鍛え上げられた人に平安な義の実を結ばせてくださる」とヘブライ人への手紙は申します。(12章11節)訓練の結果、ダビデは神の前に“それで善い”といってもらえる器となるのです。

 

2014年6月8日 礼拝説教要旨

神からの慰め

 

政所 邦明牧師

 

サムエル記下 第18章28-32節

ローマの信徒への手紙 第10章13-16節

 

主題聖句:「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、…」 

ムエル記下 第19章1

 

何事も無くいろいろなことが円滑に進んでいるように見えても、ちょうど小川につきだした小石が流れをせき止め、淀んだ場所を作り、そこに小枝や木の葉が溜まっていくように、事件が起こります。ひっかかり、つっかえ、難しい問題にぶつかるのです。何もこちらが望んだわけではありません。向こうの方から飛び込んできます。「うまく事が運んでいるようでもね。神様が何か起こすよ!」と親友が話してくれました。「自分に都合の良いことばかりは続かないからね。その時信仰が試されるのだ。」これでもか、これでもか、といった具合に試練が襲ってくる中をかいくぐるように耐えている友人の言葉には真実が籠もっていました。

作戦参謀として招いたアヒトフェルの提案に王子アブサロムの心は動きませんでした。冷静に考え、その提案を受け入れ、実行さえすれば、父ダビデとの戦いに有利な展開がみられたかもしれません。ところが、アヒトフェル案の不採用」が結果的に、アブサロムを敗戦に至らせ、死を招くことになります。「戦略の良し悪しを見極める力がアブサロムにはなかった」といえばそれまでです。しかし、聖書はそうは言いません。「アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである」(17章14節)“運がいいとか悪いとか”すぐに私たちは言います。ところが成り行き任せの“運命”などはなく、ただ神の配剤(ほどよく整えること)のみがあるのです。私たちの身の回りに突然起こる試練も、神のご配慮の中で、ご自分の御心を行わせるために与えてくださるのです。

2014年5月25日 礼拝説教要旨

神の前に頭を垂れよ

政所 邦明牧師

サムエル記下 第13章20-39節 コロサイ人への手紙 第3章18-25節

主題聖句:「アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた」

サムエル記下第13章39節

イエス・キリストの祖先になぜダビデが選ばれたのでしょうか。サムエル記の下巻に入って、罪を犯すひとりの弱い人間の姿をダビデの中に見てきました。確かに優れた信仰者にダビデは違いありません。しかし、揺るがない信仰にしっかり立つというより、弱さために失敗し、醜さの中を“のたうちまわる”のです。そして罪に悩みながらも、神に憐れみを乞い、赦しを願います。そのようなところはどの信仰者にも共通なのではないでしょうか。

イエス・キリストとダビデが違う点があります。主イエスは罪を侵されませんでした。しかし、その他はわたしたち人間と全く同じで、わたしたちの弱さに、この方は同情できない方ではありません。   サウルから妬まれて苦しみ、姦淫を犯し、人を殺して自分の罪を隠そうとしました。その結果、生まれた赤ちゃんを亡くす悲しみもダビデは経験するのです。そのような人間の子孫にキリストがなってくださる事自体慰めではないでしょうか。キリストは罪が代々受け継がれるような系譜(系図)の中に入ってくださったのです。それは次の御言葉の実現です。「罪と何のかかわりあいもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。」(Ⅱコリント5:20)わたしたちの弱さを知ってくださる方が、同情して下さるだけでなく十字架にかかって身代わりに死んでくださったのです。   敵対する者から妬まれる。自分の罪の弱さ、親としての悲しみを持つ。それは、だれでも経験しそうです。これらの中で苦闘したからこそ、わたしたち人間は救いを求めてイエス・キリストに近づくのではないでしょうか。

2014年5月18日 礼拝説教要旨

苦闘としての祈り

 

政所 邦明牧師

 

サムエル記下 第13章20-39節

コロサイの信徒への手紙 第3章18-25節

 

主題聖句:「ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した」          

サムエル記下第12章20節 

                                   

ナタンを遣わし、ダビデの罪を神は暴かれ、責められます。するとダビデは神の前に崩折れ、悔い改めました。「主があなたの罪を取り除かれる」とナタンは宣言します。しかし、神の裁定はまことに厳しいものでした。ダビデ自身は死を免れるものの、「バト・シェバと関係してできた子供は死ぬ」とナタンから告げられます。そして、子供は次第に弱ってゆくのです。

 

「罪は取り除かれる」と神は言われました。であれば、「子供が元気になっても良さそうだ」と考えるでしょう。それが赦しの一番わかりやすい形のように思えるのです。「子供の癒しは罪の赦しの確証であり、印である」と考えるのは無理もありません。

 

「赦す」と神から宣言されても、“赦されている”とダビデに確信がなければ、“ほんとうに赦された”ことにはならないでしょう。ダビデは断食して必死で祈りました。祈っている間に「姦淫や殺人の過ちを犯すのではなかった」と悔やんだかも知れません。しかし、6日間の祈りにもかかわらず、7日目に子供は死んでしまいます。“赦し”と“癒し”とは別でした。

 

神のなさり方に反発し、くってかかることも、悲嘆にくれ、泣き明かすこともダビデはしませんでした。平然と、もとの生活に戻ったのです。

 

ダビデが求めたのは、神を信頼すること、赦しを確信することでした。その祈りの中で、神のなさる結果を受け入れました。子供の死は悲しみと辛さとをもたらしたに違いありません。しかし、恨みも不平もなかったはずです。祈りの中で、神の裁きを受けとめ、一切を神に任せたのです。

 

2014年3月9日 きょうどう

山上の説教(本日の説教とは別の内容)

政所 邦明 牧師 

「さいわいなるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり。」

文語訳聖書(マタイによる福音書 第5章3節)

 

幸いを告げる言葉から、山上の説教は始まりました。疲れた者、重荷を負う者に主イエスは祝福を語られるのです。第4章23節で宣教を始められた主の様子が短く報告されています。「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べつたえ…」、つまり第5章から第7章に記してある説教を一言で言い表すならば、「御国の福音」ということになるでしょう。

信仰者でなくても、この説教に心を惹かれる人は多いはずです。人の生きるべき道が記してあると考えるからです。「現実には実行できなくても、理想は理想だ。到達すべき目標になる」と憧れを抱くことはあるでしょう。しかし、美しいが、実行不可能な目標が記されているだけなのでしょうか。

「弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスが口を開き、教え始められた」とマタイは申します。(5章2節)これを信仰者に当てはめるならば、主イエス・キリストによって罪赦された者に語られたということになるでしょう。自分の力で、ここに言われているようには生きることができません。赦しの力にひたすら頼る以外にないのです。しかし、赦された者は安穏としてはおれません。恵みによって赦しをいただいたからには、その恵みに応えて、生きる道を求めるはずです。その具体的な生き方を主イエスはこの説教の中で語ってくださいました。

大切なことがあります。それは、イエス様を信じて罪赦されたことを知った時、信仰者は、すでに「幸い」の中に入れていただいている点です。だから、その幸いを感謝し、喜んで、ますます神の祝福される道を生きるのです。

 

2012年9月30日 盗んではならない(本日の説教とは別の内容です)

「盗んではならない」

政所 邦明牧師

(今回読み切り:本日の説教と別の内容です。)

「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」  

                                エフェソの信徒への手紙4章28節

 わたしたちの教会学校(嬰児科・幼児小学中学科・成人科)では「成長」という教案誌のカリキュラムに添って毎週の学びを続けています。ここ4週間は十戒でした。「盗んではならない」は第8番目の戒めです。「殺すな」「盗むな」などの掟はことさら聖書から教えられなくても、わかりきったことのように思います。古代のイスラエルの国のみならず、どこの国にもありそうです。おおよそ人と人とが共に生きてゆく時、怒りにまかせて人を殺したり、欲しくなって盗んだりしたのでは共同社会が成り立ちません。そこでお互い同士の暗黙の了解・約束事として、自然発生的に、このような規制ができたと考えることもできます。

しかし、聖書ではこれらの戒めは神の断言的な命令として与えられます。所有はひとりひとりに神がお与えになったもので、その領分や境を神がお決めになっているという信仰があるからです。与えると言ってもそれは「貸し与えられたり、任されたりするものにすぎず、根底には「すべては神のもの」と言う信仰があるのです。「盗み」は神のものを奪うことを意味します。

暴力による強奪、法スレスレのところ相手を巧みに騙し、かすめ取ることだけを禁止しているのではありません。勤勉に働き、自活を勧めるだけではなく、上記のパウロの勧めのように「困っている人々に分け与える」ために働くことを求める愛の戒めなのです。随分と広がりを持つ神の命令です。

2012年7月22日 礼拝説教要旨 

「満足することを学ぶ」

フィリピの信徒への手紙 第4章11-13節

政所邦明牧師

主題聖句:「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

フィリピの信徒への手紙4章13節

 「すべてが可能です」のところは口語訳聖書では「何事でもすることができる」でした。随分豪胆というか「偉そう」にも聞こえます。パウロは自分が万能だと言っているのでしょうか。そうではありません。「わたしを強めてくださる方のお陰で」と言っているのです。強めてくださるお方は主イエス・キリストしかおられません。「…のお陰で」は意訳しています。しかしそのまま訳せば「…くださる方において」です。パウロがこれまで何度も繰り返してきた「主において」と同じ内容です。―自分の力でできるはずがないじゃないか、主イエスの力こそが全能であり、この私を捉え、強くしてくださる。― キリストのお力に全幅の信頼を寄せているからこそ、このように言えるのです。

 主イエスの力はどこに現れるのでしょうか。パウロが置かれている境遇(11節)、いついかなる場合(12節)においてです。私たちを取り巻く状況は、絶えず変化します。貧しい時、豊かな時、満腹、空腹、物が有り余っているとき、欠乏しているとき、それらが寄せては返す波のように、襲ってきます。貧しければ僻み、物があり余れば傲慢になり、富に溺れることもないとは言えません。神の豊かさに与り、満たされるのでなければ、本当の満足を持つことはできないのです。パウロは「その秘訣を授かった」といいます。主イエス・キリストに出会ったのです。秘訣は特別の人だけが教えて貰えるのではなく「あなたにも与えられる。キリストを信じさえすれば誰でも!」と私たちに保証してくれるのです。

2012年5月13日 礼拝説教要旨

主題聖句 「…わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」         

フィリピの信徒への手紙3章21節

説教主題「栄光ある体に」

  先週は「わたしたちの本国は天にあります。」という御言葉をご一緒に聞きました。「本国はいま生きている地上とは別のところにある」と申しますと、ともすれば、今の生活をないがしろにして、地上から離れ、空想の理想的な世界に逃げ込むということになりかねません。現実逃避ではなく、神の勝利を信じて、非常に具体的に自分の救いの完成を待つのです。救い主イエス・キリストが今神の右に坐しておられるところから、救いを完成してくださるために来てくださるのは確実な揺るぎのない事実であることを確信するのです。この地上のことだけにしか望みを持てないとしたら、こんなに虚しいことはありません。被造物は移ろいゆき、色あせ、やがて朽ちて無くなってしまうからです。

 しかし、天を本国とするものは救い主イエス・キリストが来られた時、復活なさった栄光の体に変えられます。これは私たちが勝手に思い込んで、でっち上げたのではありません。神の約束に基づくのです。ローマの信徒への手紙第8章29節に「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」とあります。―神が決めておられる―なんと安心なことでしょうか。不安定なわたしたちの気分には左右されません。確かな基盤を持ちます。だとすれば、地上の生活をなおざりにもせず、かといってしがみつきもしません。

2012年1月29日 連載(きょうどう No.5)

ルカによる福音書第15章「失われた息子(二人の息子)の譬え」についての黙想    (連載 第9回) 前回は昨年10月30日

 

前回の主旨:弟は「父から離れれば、自由になる」と思った。それは幻想であった。飢餓と渇望とが広がる。

今回 :弟はわれに返る。「悔い改め」

   「わたしの父には多くの雇い人がいる」 困窮の果てに弟息子は、身勝手の故に自分が捨てた父を思い出す。この父の姿が自分の帰ってゆく方向を指し示す。目を覚まし「我に返った」弟は〝息子である権利と資格〟を当然のこととして主張しなくなった。その権利を回復してくださいとは言わず「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました(19節)と言おう!」弟は心の中で決意する。「父よ、赦してください。私は失われた息子です。」―いや、もはや息子とも呼んでもらう資格もない。雇い人の一人にしていただけるのなら、望外の喜びだ。しかし、その許可も主人の恩恵一つに掛かっている。― 父の家の息子として生きることは不自由だと思い込んでいた。その人間が、今まことに謙虚になり、雇い人として父の家で自由を得ようと願うようになった。父の家が窮屈なところではなく、自由な居場所と思えた。住まわせてもらえるのであれば、雇い人の一人でも、もちろん構わない。だが、自分勝手な振る舞いを考えるとその願いすらも厚かましいようにも思える。このような慎ましい望みも、赦しを与える父の胸一つに掛かっているのである。(続く)