2020年10月11日 礼拝説教要旨

 信仰によって義とされる 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第3章27-31節

        

主題聖句:では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。            

ロ-マの信徒への手紙 第3章27節

 

私たち人間は、誇りを支えに生きています。何らかの誇りがなくてはならないと思い、その誇りを生きる支えとしています。そんな大事な誇りにもかかわらず、「それは取り除かれました」と言われているのです。

 

今日の箇所に示されている「誇り」は、ユダヤ人の持つ誇りが想定されています。彼らユダヤ人は、律法を持っていること、割礼を受けていること、神の選びの民とされていることを誇りとしていました。「それは取り除かれました」と言われているのです。すなわち、誇りは外に閉め出されましたというのです。もう誇ることができなくなったのです。

 

それは、どういう方法によってそうなったのかというと、人間は律法を行うことによっては、もう神の前に義と認められることができなくなったのです。もし自分が律法を行うことができるならば、それはその人の自慢になりますが、人間にはそれができないのです。そういう方法ではなく、信仰によって、もう誇らなくてもよいようになったのです。

 

私たち人間が神に逆らい罪を犯していて裁かれてもおかしくなかったのですが、神が、私たちを裁かれるのではなく、御子キリストを私たちの身代わりにして裁かれて十字架で犠牲にされたのです。その救いの御業のゆえに、信じる者を神の前に義とされるのです。神の前に無罪とされるのです。ですから、もう自分の良き行いによって自分を誇ることはできませんが、そのように救いを成し遂げられたキリストを誇って生きるのです。

2020年10月4日 礼拝説教要旨

 罪を償う供え物

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第3章25-26節

主題聖句:神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。    

ロ-マの信徒への手紙 第3章25節

 

神が私たちに与えられる救いは、「義とされる」ことです。罪のゆえに滅びそうになっていた私たちを、神がキリストの贖いの御業によって償い、解放してくださったという救いです。

 

この救いの有り難さは、自分は正しい人間であり、悪い人間ではないと思っている人には分かりません。しかし、自分がいかに神から離れ、罪を犯しているか、裁かれてもおかしくない者と思う人には良く分かります。裁かれないように神は私たちを救い出してくださるからです。

 

この救いは、神の恵みにより無償で与えられるのです。ということは誰かが支払ってくださったということです。神が支払って下さったのです。「神がこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(25節)。この「罪を償う供え物」とは、「贖いの座」という意味です。「贖いの座」は、旧約時代、神を礼拝する場所であった幕屋(神殿)の中の至聖所にあって、契約の箱の上蓋に位置するところでした。そこに神が臨在されており、その場所で、大祭司が神の民を代表して、動物の血をその贖いの座にふりかけ、贖いの業を行ったのでした。その贖いの業を本当の意味で行われたのが、キリストです。キリストは真の大祭司としてご自身の血によって贖いを成し遂げられたのです。この贖いによって、私たちは裁かず無罪とされるのです。このように神がキリストを通して救いを成し遂げられたことを受け入れ信じるとき、頂くのです

2020年9月27日 礼拝説教要旨

 神の義が示された  

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第3章21-26節

 

主題聖句:ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

ローマの信徒への手紙  第3章21節

 

「ところが今や…神の義が示されました」と3章21節の言葉が始まります。何か突然、夜が明けたような気がします。そう感じるのは、これまで読んできた1章18節から3章20節までには、夜のような暗いことが書かれていたからです。人間の罪の現実について深く掘り下げて語られていたからです。そこには、私たち人間はすべて、罪人であることが言われていました。まさに夜のような光のない状態です。

 

人間が律法によって、正しいことが何かを分かったとしても、自分の弱さのゆえに、その正しいことを自分で行うことができないのです。そのためにひどい状態になってしまい、神から裁かれても当然な状態でした。それが私たち人間の現実の姿です。

 

ところが今や「律法とは関係なく…神の義が示されました」と言うのです。これまで知られていた神の義とは、律法という、神様が人間に示された正しいことを行うことによって神の前に義とされることでした。でも、その方法では、正しいことを行おうとしても守ることができず、罪の意識が生じるだけです。ところが今や、律法とは関係なく、人間が神の前に義とされる道が示されたのです。それは、憐れみ深い神が、御子イエス・キリストを十字架につけて、私たちの負わなければならなかった罪の裁きをキリストに負わせてくださったという救いです。ゆえに、私たちは神との正しい関係に回復されるのです。この救いはキリストを信じる時に与えられます。

2020年9月20日 礼拝説教要旨

 復活の望み 

三好 晴夫 牧師

テサロニケの信徒への手紙 一  第4章13-18節

 

主題聖句: イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。 

テサロニケの信徒への手紙 一 第4章14節

 

私たちは、先に天に召された愛する家族を覚えて、その方々の歩んだ生涯、主に頼って過ごされた信仰の日々を覚えてここに集まっています。

 

天に召された方々は、ご遺族にとって愛する家族です。教会員にとっては一緒に歩んだ信仰の先輩であり、信仰の友です。これらの方々と過ごした日々を思い返すと、昨日のことのように思い、悲しみに溢れます。

 

そんな悲しみの中にある私たちは周囲の方々の温かな言葉や慰めを受けて慰められてきたことでしょう。今日は、私たちの悲しみを和らげる望みが主の言葉にあることを覚えたいのです。それは、主イエス・キリストにつながることによって与えられる望みです。

 

キリストにある復活の望みは、この世で過ごしていた私たちの肉体が滅びても、主が備えられた永遠の家に迎えられることです。その家に迎えられて、世を去った信仰の先輩たちと共に終わりの日の体の復活を思って待っているのです。主を信じて過ごした愛する家族は、苦しみの中も、主が守って天に迎えてくださるとの約束を思い、主の命の中に生かされると信じて過ごされ、そして今、主のもとで主と共にあると信じます。

 

そのように、私たちも、キリストが復活されて天に上げられたように、キリストを信じて、キリストと共に死から復活されて主と共に住むという約束を覚えて、お互いに慰め合い、主に支えられていきたいものです。

2020年9月13日 礼拝説教要旨

正しい人はいない 

 

三好 晴夫 牧師

 

ロ-マの信徒への手紙 第3章9-20節

主題聖句:既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるので

す。                   

ロ-マの信徒への手紙 第3章9節

 

「福音」。神は、私たち人間を愛され、その御子キリストを通して罪から救い出して生かしてくださるという救いの知らせです。その救いの有り難さについて、私たちはよくわかっているでしょうか。

 

この福音のすばらしさ、救いの有り難さはよく分かるために、私たち人間の側に、深刻な問題があり、自分が罪汚れた者であることに気づくことが必要です。それほどに、私たち人間には、罪があり、その結果として神から裁かれるものであったのです。それゆえ、そのような私たちを神は見捨てられず、愛して救いを現してくださったのです。有り難いことです。

 

ローマ書1章18節から3章20節において、私たち人間の罪の現実がどんなものかが記されてきました。異邦人もユダヤ人も皆、自分たちを創造された神を無視して、自分勝手に歩んできました。「皆、罪の下にあるのです」。「罪のもとにある」とは、どの人間も、罪の力に支配され、罪や欲望に振り回されている状態にあるということです。

 

具体的には、13節以下に記された言葉の通り、人の会話は、不潔で腐っていてまるで墓穴からもれる悪臭のようです。人の言葉には、恐ろしい毒蛇のような毒があります。人の足は、人の口や頭や体を持ち運んで、悲惨な恐ろしい結果を起こしてしまう。「彼らの目には神への畏れがない」。パウロは、すべての人が、そして私たちも、この言葉の前に、そのような罪人だと指摘します。私たちを救おうとされる神に、救いを求めよう。

2020年9月6日 礼拝説教要旨

神の真実 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第3章1-8節

 主題聖句:決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。         

ロ-マの信徒への手紙 第3章4節

 

ローマ2章で、ユダヤ人も、その行いに従って神の裁きを受けることになるとパウロは語りました。彼らユダヤ人は、自分は神に選ばれた民であり、自ら正しい者であると自負していたのです。しかし、神の言葉に従っていないならば、神の前に正しいとはされず、裁かれるとパウロは彼らを責めたのです。

 

それを聞いたユダヤ人の反論を、パウロはここに取り上げます。その一つが3節にあります。要約すると、もし自分たちの中に不誠実な者がいたならば、その不誠実な態度のゆえに、神の人間への約束は壊れてしまい、神の誠実は無力になってしまうのですか。それなら人間がその約束を破らず守れるようにすることはできなかったのか。人間の不誠実さで、神の誠実はもうなくなってしまうのですか、という反論です。どうも自分の中にある不平不満を、このような形で吐き出しているのでしょう。神のことがよくわからず、神に頼ろうとする思いの弱い人の主張のように思えます。

 

パウロの答えは4節「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」 たとえ人間が神との契約を破り不誠実な状態になったとしても、神は誠実であり続けられるのだというのです。人間同士の契約ならば、契約の当事者の一方が違反した場合、その信頼関係は壊れます。契約を守らなかった罰を支払わなければならない。しかし神は人に裏切られても約束に誠実にあり続けられるお方です。

2020年8月30日 礼拝説教要旨

 霊による心の割礼

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第2章17-29節

 

主題聖句:内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。

                               ローマの信徒への手紙 第2章29節

 

自らを正しい人間だと自信を持っている人にも、罪がある、神に悔い改める必要があると、教えているところを学びます。ローマ2章17節以下で、ユダヤ人に向けてあなたは自らをユダヤ人と称し、律法(神の契約として与えられた戒め)を持っていることに頼り、神との特別な関係にあり、自分は神の御意志をわきまえていると自負していました。それゆえ、他人に律法を教えていくのですが、自分はその教えを守っていなかったのです。そういう他人に厳しく自らに甘い態度の姿を、パウロは鋭く指摘します。

 

また、彼らユダヤ人は律法(神の御意志を示す戒め)を持っていることと共に、割礼を受けていることを、神の民であるしるしと誇っていました。割礼は、男性の生殖器の包皮を切って取り除く儀式です。この割礼を受けていることを彼らは神の民のしるしだと自負していたのです。

 

しかし、パウロは言います。割礼が有効になるのは、割礼を受けていること自体ではなく、律法を行うことにある。律法を守っていないならば、割礼には意味がない。だから、外見上の割礼は割礼ではない。むしろ、霊によって心に施された割礼こそ割礼であると言うのです。肉体に割礼のしるしを持たなくても、主イエスの十字架の恵みに触れて生まれ変わって新しい心が与えられたものが、心に割礼を受けた者なのです。それは御霊によって主イエスの恵みをいただくとき新しくされるのです。

2020年8月23日 礼拝説教要旨

  心に記された律法  

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第2章12-16節

 

主題聖句: たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

                             ローマの信徒への手紙 第2章14節

 

神は、終わりの日に、おのおのの行いに従ってお報いになられると、ローマ書は教えています。その人の心と行いに従ってお裁きになられるのです。具体的にどのような裁きなのかについて、12節で、神の律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれるが、律法を知らないで罪を犯した者は、どのように裁かれるのか、14節15節に記されています。

 

「律法」とは、神が特別に選んだ神の民にお与えになった法です。その選ばれた民には大切な神の御意志を示すもので大切にされていました。しかし、異邦人(ユダヤ人から見て外国人)である私たちは律法を知りませんし、持ってもいませんから、律法を行うはずがありません。しかし、律法を知らなくても、律法の中に命じられている大切な戒めの一部を知っていますし、行っています。例えば、安息日規定をしらなくても、毎日勤勉に働いています。姦淫してはならないという戒めを知らなくても、夫婦の信頼関係を大事にしなければならないと思っています。律法を厳密に知らなくても、人間として守るべき原則として受け止め行っています。それが、15節の「律法の要求する事柄がその心に記されている」ということです。私たちの心に神の律法の要求することが記されて、それが、私たちの法となっているのです。神は分け隔てなく正しく裁かれるのです。キリストを思い、律法を、神の言葉、神の御心として行っていきたいものです。

2020年8月16日 礼拝説教要旨

 分け隔てのない神の裁き 

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第2章6-11節

 

主題聖句:神はおのおのの行いに従ってお報いになります。

                               ローマの信徒への手紙  第2章6節

 

現在、コロナ感染拡大、厳しい暑さなどの過酷な環境の中、私たちは随分我慢を強いられて過ごしています。その中、自己中心的な行動をして周囲を困らせる行動を間近で見聞きすると、私たちは腹が立ちます。そのような行動に対して、神が正しく裁いてほしいと思います。

 

パウロは、「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」(5節)と語り、世の終りの時、神の裁きは正しく下ると教えています。

 

その最期の審判は、「おのおのの行いに従って」神がお報いになられるというのです。私たちはこう聞くと、周囲の人たちの悪い行動に対しては、そのような正しい裁きを期待します。しかし、自分については、自分は主イエスを信じて罪を赦して頂き、永遠の命を頂いているのだから、これ以上に善い行いをさらに加えないといけないのはおかしいと思いやすいのです。でも、パウロは、主イエスの救いを信じている人であっても、世の終わりの時、自分の行いに応じて報いを受けることになるというのです。コリント第二5章10節には「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに応じて、報いを受けねばならない」と語ります。私たちは希望を持って耐え忍び神に喜ばれることを求めて行くとき、神は永遠の命を与えられ、自己中心で不義に歩む者に怒りがある。心の奥底まで知り報われる神を信じよう。

 

2020年8月9日 礼拝説教要旨

 神の正しい裁き  

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第2章1-5節

 

主題聖句:あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

                              ローマの信徒への手紙 第2章4節

 

他の人が良くないことをしているのを見たなら、私たちはすぐにその人の間違いが気になり、つい厳しく非難することがあるでしょう。身内ならなおさら言ってあげないと思い、指摘します。口に出さなくても心の中で、もうすでにその人を裁いています。人を裁く時の私たちは、自分は正しいと思い、相手の非を決めつけてひどく裁きます。しかし、しばらくして自分がそんなことを忘れてしまったように、平気で同じことをしてしまうことがあります。矛盾していますが、それが、私たち人間の正体です。

 

人を裁きながら、自分も同じことをしている者に対して、神はどうなさるでしょうか。「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになる」とパウロは言います。この「正しく」とは、真理に基づいてということです。神の裁きは、真理、神の御心に基づいて行われるということです。

 

自分は間違っていない、正しいと思っている人には、他の人とは違うと思い、余計に神は自分を裁かれることはないと思ってしまうところがあります。でも、神は裁かれないのではないのです。神は私たちを憐れみ、長く忍耐して裁くのをとどめておられるのです。悔い改めるのを待っておられるのです。そのことに気づかずにいて、人を裁いて自分は同じことをしても安心しているのではないでしょうか。神が寛容な愛を持って裁きを控えておられることを知って、心から悔い改めることができますように。