2021年2月28日 礼拝説教要旨

神の霊の力

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第12章22-32節  

 

主題聖句:しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国は

      あなたたちのところに来ているのだ。  

マタイによる福音書 第12章28節 

  神様からすばらしい祝福をいただいているのに、当たり前のように思い、気づかずにいることがありませんか。それだけでなく、神様の明らかな祝福に気づかずに不平不満を言ってしまうことはないでしょうか。

 

ある時、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が主イエスのところに連れて来られてきて、主イエスがその人をいやされ、ものが言え、目が見えるようになったのです。それを見た群衆は大変驚いて、この方をメシア救い主ではないだろうかと言いました。しかし、冷静に見ていた人がいました。ファイリサイ派の人たちでした。彼らは自分たちなりに解釈し、この者は悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出したのだと非難したのです。

 

彼らの思いを見抜かれた主イエスは、たとえをもってご自分が悪霊の頭の力で追い出しているのではないと反論されました。国でも町でも家でも内輪で争えば成り立ちません。悪霊の頭が悪霊を追い出すとは、内輪もめであり、その国は成り立たないでしょう。しかし、主イエスは神の霊によって悪霊を追い出したのです。そうであれば、神の国はあなたたちのところに来ていることを示しているのです。神様がここにおられるという事実が現されているのです。主イエスは病の人をいやされ、罪に苦しむ者を救い出し、思いわずらう者をいやしてくださいます。主イエスのなさる御業に期待し、勝利される主イエスと共に歩みましょう。

 

2021年2月21日 礼拝説教要旨

荒れ野の試み  

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第4章1-11節

 

      

主題聖句:イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 

       マタイによる福音書 第4章4節

 教会の暦で「受難節」(レント)の季節に入りました。これから40日間、主イエス・キリストが救い主としてどのような苦しみを味わわれ、人々を救う道にお進みになられたのかを覚えます。今日は第一主日として、主イエスが荒れ野で悪魔の試みに遭われた箇所を読みます。悪魔は神に逆らうように仕向けてくる霊的存在です。主イエスを、そして私たちをも神に信頼しないように仕向けて来るのです。まさに霊的な戦いです。

 

 

悪魔のした第一の試みは、主イエスが荒れ野で40日間断食した後、空腹を覚えられた時にありました。空腹の最中、誘惑する者が主イエスに「あなたは神の子なのでしょ。ならば、辛い空腹を我慢しないで目の前の石をパンになるように命じたらどうですか」と誘惑して来たのです。この誘惑は、あなたは神の子なのだから、神に頼らず、自分の力でこの石をパンにしなさいという誘惑です。鋭い誘惑です。

 

 

すぐに主イエスは「人はパンだけで生きるのではなく」と申命記8章の言葉を持って答えられたのです。人は、食べ物を必要としていますが、それだけで生きるのではない。昔イスラエルの民が荒野で食べ物がなくて困った時、マナという不思議な食べ物をよって神は彼らを毎日養われた。そのように神の与えられる命の糧(言葉)によって生かされるのだと。

 

2021年2月14日 礼拝説教要旨

安心しなさい。わたしだ。 

三好 晴夫 牧師 

マタイによる福音書 第14章22-36節

 

主題聖句:イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れる  ことはない。」        

マタイによる福音書 第14章27節

 

私たちの人生で、進もうと思い努力するのに、どうにも行き詰まって身動きが取れない事態に遭うことが少なからずあるのではないでしょうか。今日の聖書箇所の弟子たちも、そういう状況に出くわしてしまいました。

 

弟子たちは、直前に主イエスの行われた5千人以上の人々にパンと魚で満腹にされた奇跡を見て、群衆と共に興奮していたことです。主イエスは、弟子たちをその場から離すために、強いて彼らを舟に乗せて、向こう岸に向かわせたのです。主イエスは、揺るがない態度で群衆を解散させて、ご自身は山に行って一人祈りの時を持たれたのでした。

 

一方、舟に乗った弟子たちが進んでいたとき、突然、逆風が襲ってきて舟と弟子たちは波に悩まされたのです。夜、明かりもない中の逆風です。不安と恐怖に中で悪戦苦闘して舟が沈まないように努力したのです。そんな夜が明けるころ、白い物体が近づいてきました。どんどん近づいてきます。弟子たちはおびえて恐怖のあまり叫び声をあげました。すると、白い物体から声がしました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」それは主イエスでした。主イエスが来て下さったのです。主イエスが共にいてくださるのです。彼らはどんなにか安心したのです。私たちも不安の中にあります。その私たちにも主イエスは御声をかけてくださいます。

2021年2月7日 礼拝説教要旨

いやすキリスト 

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第15章21-31節

              

主題聖句:  そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。                   マタイによる福音書 第15章28節

 病気のいやしについて、聖書はどう教えているのでしょうか。私たち人間は創造主なる神によって創造された存在で、私たちの命と体も神によって生かされている限りある存在です。そんな私たちは自分の罪の故に弱く、病気にもなりますが、神はいやしてくださるのです。病気になっても、いやされるように、神は自然治癒力で私たちの体を回復するようにしてくださいます。医学や薬などの進歩や研究によって開発される治療を用いて神はいやしてくださいます。それだけでなく、神にいやしを信じて求めていく者に、特別にいやしを与えてくださることもあるのです。ですから、私たちは自分が病気になったとき、神がいやしてくださると信じて祈り求めていくのです。

 

では、どのように神を信じて祈り求めるべきか、今日の箇所から教えられたいと思います。主イエスがある異邦人の住む場所に行かれたとき、カナン人の女性が主イエスに近づき、自分の娘のいやしを願い求めたのです。それに対して主イエスは何の反応もされませんでした。主イエスはイスラエルの民を救うことが自分の使命だと断られたのです。その時、主イエスはイスラエルの祝福を小犬に与えるのはよくないという優しい言い方をされたのです。それを聞いた彼女は神の祝福は大きく、小犬のような者ですがおこぼれにあずかりたいと切に求めたのです。その切実に求める彼女の信仰を聞かれた主イエスは、願い通りいやしてくださったのです。

2021年1月31日 礼拝説教要旨

すぐれた義

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第5章17-20節

               

   主題聖句:わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

 マタイによる福音書 第5章17節

 

私たちは、神に喜ばれて安らかに生きるために、神が何を望んでおられるかを知らなければ、分かりません。その神のみこころを表わすものとして、当時のユダヤ人たちは、「律法と預言者」を守らなければいけない、これを無視したら何を拠り所にしていけばいいのか、分からなかったのです。「律法」は彼らにとって大切な戒めでした。

 

主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を…完成するためである」と言われました。「律法と預言者」とは、聖書の中の旧約聖書のことです。主イエスは、旧約聖書を廃止するためではなく、完成するために来られたお方なのです。「律法」とは、神が人間にお与えになった救いの契約です。神が人々を祝福される神となってくださいます。だから、神に対して人間が従うべき務めとして戒めを与えられたのです。その律法を、主イエスは完成されるのです。

 

主イエスが律法を完成されるということは、主がこの戒めを守って生きられたということだけの意味ではありません。私たち人間がこの戒めを守ることができるように、その戒めの本来の意味がどんなものなのかを、ご自分の言葉で教えてくださったということです。それが、主イエスのなさった教えです。そこまでされたのは、人間が罪のゆえに律法を守ることができないからです。主イエスは、人間を罪から救うことによって、人間が神の前にすぐれた義を持つことができるように教え導かれました。

2021年1月24日 礼拝説教要旨

宣教の始まり

三好 晴夫 牧師

        マタイによる福音書 第4章12-17節         

      

主題聖句:そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。  

マタイによる福音書 第4章17節

 

主イエスは、ガリラヤのカファルナウムの町に住んで、その町を拠点にして宣教を始められました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というメッセージを宣べ伝えられたのです。

 

「天の国」は、福音書記者マタイの独特な表現です。マルコ福音書では、「神の国」と表現されています。同じ意味です。当時のユダヤ人が「神」という言い方を避けているところから、マタイも神という言い方を避けて「天の国」と言ったのです。「天の国」とは、一定の領域、場所と言うよりも、神が王として支配しているという、神の働きそのものに着目した言葉です。神の支配、神の統治と言う意味です。「天の国が近づいた」とは、神のご支配が神の御子イエスにおいて今や到来したということです。主イエスは、ご自分において神のご支配がここに到着したと語ったのです。

 

それゆえ、主イエスを通して現された神のご支配を認めて、神との正しい関係に入れと勧めるのです。悔い改めよ。方向転換して神に立ち返れと勧められるのです。

 

主イエスは、神の国について教え続け、神に立ち返るように語り続け、そうなるように十字架の道に進まれました。ですから神のご支配は主イエス・キリストにおいて私たちのすぐそばにあります。しかし、私たちはこの神を離れてしまい、神から背いて自分勝手な道に進みやすいものです。そんな私たちに主イエスは、なおも悔い改めを呼びかけておられます。

2021年1月17日(日) 礼拝説教要旨

主イエスに従う 

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第4章18-25節    

      

主題聖句:イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。        

マタイによる福音書 第4章19節

 

私たちの信仰はどのようにして始まるのでしょうか。その中心的な始まりについて確認したいと思います。使徒パウロはローマの信徒への手紙10章17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と語っています。すなわち、信仰は、主イエスが自分たちに呼びかけられるその言葉を聞くことによって始まるのだということです。私たちが聖書を読んだり、説教を聞いたりすることを通して、主イエスが語られる言葉を聞きます。そして、その中に込められた主イエスのお心や思いを知るのです。そうしてこのお方がこの私にとってどんなお方かを知って信頼するように導かれます。そしてますますこのお方を救い主と信じ、これからも信じ続けるようにと導かれていくのです。

 

その意味で、主イエスの最初の弟子たちが、どのようにして弟子となったのかそのいきさつを知って、私たちが弟子として召されるその道筋を見たいのです。

 

主イエスがガリラヤ湖で漁をしていた漁師にかけられた言葉が、「わたしについてきなさい」でした。主イエスの方から、わたしを指導者として、わたしを深く関わって、わたしに従うようにとの大胆な招きです。主イエスは今も私たちをも招いておられます。主イエスを信頼し、神のための働きを一緒にしよう、そのように導くとの約束をもって招いておられます。

 

2021年1月10日 礼拝説教要旨

主イエスの洗礼

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第3章13-17節

           

主題聖句:しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」  

      マタイによる福音書 第3章15節

 

主イエスは洗礼を受けられたことによって、神の御子としての姿を公に表わされました。その栄光はどんな輝きであったのでしょうか。

 

それまでガリラヤに住んでおられた主イエスが30歳になられたとき、洗礼者ヨハネの働きを耳にしました。ヨハネは、ユダヤの荒野で、悔い改めよ、天の国は近づいたと語り、人々に悔い改めを迫ったのです。そのうわさが全イスラエルに拡がり、多くの人々がヨハネのもとに来て、自分の罪を告白し、洗礼を受けたのです。

 

その洗礼の列の中にイエスも加わり、自分に洗礼を授けてほしいとヨハネに願ったのです。しかし、ヨハネはイエスが罪のない方であり、メシアであると分かりその申し出を思いとどまらせようとしました。ところが、イエスはヨハネの躊躇を跳ね返し強く洗礼を求められました。その理由として「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」ということでした。「正しいこと」とは「義」と訳される言葉です。聖書では義とは神の契約に忠実であるということです。神は私たち人間を愛し救おうとされる救いの契約に従って人間を救う御業を進めてくださるお方です。その救いの契約に忠実に従おうとして主イエスは洗礼を受けると言われるのです。つまり、イエス自身、罪人の立場に自分の身を置き、人間の罪を自分の罪として負って告白されたのです。罪人の友として歩み出された。

2021年1月3日 礼拝説教要旨

主に守られて

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第2章13-23節

 

主題聖句: 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」    マタイによる福音書 第2章13節

 

 

クリスマスの恵みの中で、新しい年の最初の礼拝を持っています。

 

最初のクリスマスの出来事を見ますと、救い主の誕生を喜び祝う明るい面ばかりではなく、今日の箇所のようなエジプトへの避難など大変困難や危険が、その誕生の時からあったことを知らされます。どうしてこんな苦難が誕生の時からあったのでしょうか。それは、主イエスが誕生の時から人々に歓迎されなかったというのが、人間の現実の姿であったからです。ヘロデ王が、占星術の学者からユダヤ人の王が誕生したことを聞いたとき、ヘロデ王は自分以外に王が生れることは困ると思い、その子を殺そうとしたのです。私たちも、イエスを歓迎したくない思いがあることを知らなければなりません。でも、その中に神は御子を生れさせられたのです。罪人である私たちを救おうとされた神の御計画があったからです。

 

学者たちが帰った後、主の天使が夢でヨセフに現れて、急いで子と母親を連れてエジプトに逃げよ、ヘロデがこの子を探して殺そうとしていると具体的な指示をしました。ヨセフはその指示を神のご命令と受け留め、すぐに行動しました。こうして彼らは助かりました。神は彼らを守られたように、私たちとも共におられて、私たちを守り、導いてくださいます。

2020年12月27日 礼拝説教要旨

救い主を求めて

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第2章1-12節

 

主題聖句:「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

     マタイによる福音書 第2章2節

 

遥か東の方に住む占星術の学者たちがその地で不思議な星を見て、ユダヤにお生れになられた新しい王にお会いしたいと願い、ユダヤへと旅をし、まことの王としてお生まれになった幼子イエスを礼拝し贈り物をささげたことを覚えたいと思います。

 

彼らが星を調べているとき、特別に輝く星を見つけ、この星はユダヤで新しい王が誕生したことを示すものと確信したというのです。それは、ペルシャ地方に住むユダヤ人たちから、自分たちを救うために新しい王がお生れになるという預言があり、その成就を待っているということを聞いていたからだと思います。この特別の星の動きとその預言から、ユダヤ人の新しい王の誕生を知らせる星だと確信した彼らは、この王は世界を治める王になられるお方だと信じ期待してこのお方を拝みたいと強く願って、ユダヤのエルサレムへと向かったのです。

 

しかし、彼ら学者たちが、エルサレムで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねたところ、王もエルサレムの人々も不安を抱くばかりでした。メシアはどこに生まれることになっているかを示す預言の言葉(ミカ5:1)が手がかりとなり、彼らが出かけていったところ、幼子イエスにお会いできました。彼らの願いを主は預言によって導いて下さいました。求める者を、主は導かれるのです。