2021年6月13日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.24 まことの祝福 
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
マタイによる福音書第5章5節

  「柔和」という日本語は、やさしくおとなしいさまという、どちらかというと弱弱しい響きを持っています。しかし、ギリシャ語の「プラウス」という柔和は、自分を正しく評価し、他人には心低くして仕え、悪に煩わされないで神に忠実に仕える態度を示す言葉です。しなやかだけど、したたかな強さも兼ね備えた態度です。したがって、謙遜とほとんど同じ意味です。
柔和な人物の旧約聖書における代表例は、モーセです。彼について「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」と言われています。モーセは、最も信頼する人々から非難されたこともあったが、一切弁解しませんでした。神の前に自らを低くして自分の使命を全うしました。
新約聖書では、ステファノやパウロは迫害を受ける中も、自ら謙遜にキリストを伝え続けました。柔和の本質は、主イエスご自身にあらわれています。主イエスご自身、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と、謙遜な態度で人々に教えられました。主イエスは、自ら低くして、しもべのようになり、人々を罪から救い出すために、人々の罪を自分の罪として背負い、十字架にかかって死んで贖いの業を成し遂げられました。
「(柔和な人は)地を受け継ぐ」と主イエスは言われました。詩編37編11節にその言葉があります。民が神を信頼し続けるなら神の契約に基づいて相続できるのです。神に信頼する者は神の契約の祝福を受け継ぐというのです。

2021年6月6日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.23 幸いである
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

  マタイによる福音書第5章3節

今日は、主イエスの教えられた「幸い」について学びます。
この世の多くの人々は、お金持ちになること、仕事が成功することが幸せと
思って目指し生きています。しかし、それらのどれかを得ることができたとしてもそれで本当に幸せになれるとは限りません。この世の幸せを得たとしても、本人がまだまだ不満だと思うならば、本当の幸福ではありません。逆に、本人が貧しくても苦しくても私は幸福だ、感謝だと思い、喜んで生きているなら、それは幸せなのです。
ところが、主イエスは私たちに「幸せである」と言って本人の気づかない事実を思い起こさせようとしておられます。すなわち、主イエスのいう「幸い」は、本人が知らなくても現に「幸いである」という事実なのです。祝福されている、神から恵みを受けている。そういうふうに神から恵まれているというのです。
では、そのように神から祝福を受けている人とは誰かというと、「心の貧しい人々」なのだというのです。「貧しい人」生きていく必要な物が足りない状態にある人です。「心の貧しい人」悲しみや苦しみの中に心身ともに疲れ、自分が何もないゆえにただ神の助けのみを求める人です。放蕩息子が自分に何もないと気づいたとき、父親に求めようとしたように、自分に何もないと気づき神に求めようとする者が幸いである、と主イエスは言われたのです。それは、神に頼って求めようとするその人が「天の国」神のご支配を素直に受けやすいからです。その人には神の支配がすでにあり、祝福されています。

2021年5月30日 礼拝説教要旨

聖餐にあずかる 

三好 晴夫 牧師

コリントの信徒への手紙一 第11章23-26節

             

主題聖句:主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

コリントの信徒への手紙 一  第11章23、24節

教会は、福音が純粋に教えられ、聖礼典が福音に従って正しく執り行われるところです。礼拝の中心に、説教と聖礼典(洗礼と聖餐)があるのです。それでは、聖餐がどうして重んじられなければならないのかというと、それは、主イエスが制定され、パウロも受けたことだからです。主イエスが最初に弟子たちに制定されたのは、主イエスが捕らえられ、不当な裁判にかけられ、十字架につけられる前の夜でした。主イエスはご自分に何が起こるかを知って、教えられたのが、この聖餐式です。その聖餐式の第一の意味は、主イエスを記念するために行うものということです。「わたしの記念として」つまり、主イエスを覚えることです。主イエスの十字架の死を思い起こすことです。その苦しみが私たちのためであったと思い起こすためです。

第2の意味は、私たちの罪の贖いのためであるということです。主イエスは「これは、あなたがたのためのわたしの体です」と言われました。主イエスが手で裂かれたパン切れが、十字架上で裂かれたご自身の体ですと言われたのです。それは、主イエスご自身、私たちの罪を背負ってなそうとされる十字架の贖いの業を示していました。それを私たちのためであると、信仰をもって受取りなさいというのです。