2021年6月6日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.23 幸いである
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

  マタイによる福音書第5章3節

今日は、主イエスの教えられた「幸い」について学びます。
この世の多くの人々は、お金持ちになること、仕事が成功することが幸せと
思って目指し生きています。しかし、それらのどれかを得ることができたとしてもそれで本当に幸せになれるとは限りません。この世の幸せを得たとしても、本人がまだまだ不満だと思うならば、本当の幸福ではありません。逆に、本人が貧しくても苦しくても私は幸福だ、感謝だと思い、喜んで生きているなら、それは幸せなのです。
ところが、主イエスは私たちに「幸せである」と言って本人の気づかない事実を思い起こさせようとしておられます。すなわち、主イエスのいう「幸い」は、本人が知らなくても現に「幸いである」という事実なのです。祝福されている、神から恵みを受けている。そういうふうに神から恵まれているというのです。
では、そのように神から祝福を受けている人とは誰かというと、「心の貧しい人々」なのだというのです。「貧しい人」生きていく必要な物が足りない状態にある人です。「心の貧しい人」悲しみや苦しみの中に心身ともに疲れ、自分が何もないゆえにただ神の助けのみを求める人です。放蕩息子が自分に何もないと気づいたとき、父親に求めようとしたように、自分に何もないと気づき神に求めようとする者が幸いである、と主イエスは言われたのです。それは、神に頼って求めようとするその人が「天の国」神のご支配を素直に受けやすいからです。その人には神の支配がすでにあり、祝福されています。

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