2021年7月18日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.29 律法を完成されるキリスト             

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならな

い。廃止するためではなく、完成するためである。   

                 マタイによる福音書第5章17節

 

当時のユダヤ人たちは、律法が神の御心をあらわすものであって、神に喜ばれるために、神の望んでおられるこの律法を全力で守らなければならないと思い、生きようとしていました。

 

しかし、主イエスの語られた言葉、なさった行動は、律法から自由なふるまいで、律法を廃止しようとしているかのように思われました。主イエスは、ユダヤ人たちが付き合いを避けている律法を守らない罪人や遊女と平気で交わり食事をなさっていたからです。ユダヤ人たちが重んじていた安息日規定を、主イエスは無視して、安息日に病気にかかっている人をいやすわざをなさいました。主イエスは律法を守らなくても良いと教えていると、人々から思われたようです。

 

そこで、主イエスは、御自分が来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためであると、はっきりと語られたのです。主イエスご自身、神の御心である律法を完全に守り、律法が人のうちで生きることができるようになさいました。実は、人間はその罪のゆえに律法を守ることができません。そこで、主イエスは、律法を完全に守りつつ、人間を罪から救い出すために、人間の負うべき裁きを背負ってくださったのです。律法の要求するところを完全に満たしてくださったのです。主イエスの救いによって信仰により律法に従うことができる。

2021年7月11日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.28 世の光              

 「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」                  マタイによる福音書第5章14節

 

この言葉は、主イエスが弟子たちに言われた言葉です。主イエスを信じる

私たちへの言葉でもあります。主イエスは、弟子たちを、主イエスを信じる私たちを、この世においてそのような存在であると見ていてくださるのです。そう言われても、自分では、とても自分が世の光とは思えないのですが、主イエスは、主イエスを信じる私たちをそのままで、世の光であると見ておられるのです。「あなたがたは、この世界の中で、光の存在である」というのです。

主イエスがこう言われるのには、前提があります。主イエスご自身が、世の光である、まことの光として世界の人々を照らし、人々に命の光を与えてくださるお方であるということです。(ヨハネによる福音書8章12節)主イエスの光を頂くとき、私たちに光が与えられ、光輝いて歩めるのです。

主イエスが「あなたがたは世の光である」という光とは、どのような役目を持つ光なのでしょうか。一つは、光が隠れないで輝くことで、周りから見ることができ、その光の存在によって周りを生かすのです。ですから、私たちの持つ光は小さな存在でありますが、主イエスから頂く光を受けて、喜びを持って生きる時、周りの人も生かされるのです。また一つは、光り輝くことで、暗闇が照らされ、家の中のすべても照らされるのです。光照らされるとき、その光に照らされて、安心して過ごすことができます。

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」 月が、太陽の光を受けて光輝いています。私たちも受けた主イエスの恵みを感謝して輝いて歩もう。

2021年7月4日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.27 地の塩              

 「あなたがたは地の塩である。」   マタイによる福音書第5章13節

 

 

この言葉は、主イエスが弟子たちに言われた言葉です。主イエスを信じる私たちへの言葉でもあります。主イエスを信じる者が、この世においてどんな存在であるのかが、教えられています。

ここで、地の塩になれと命じられているのではありません。もうすでに、あなたがたは、主イエスを信じているそのままで地の塩であると言われているのです。私たちの存在そのものが、地の塩の役目を持っているというのです。

「塩」は腐敗を防ぎます。冷蔵庫のなかった時代の有力な防腐剤は塩でした。これがないと食べ物はたちまち腐ったのです。

世の中には、悪や罪に対してルーズで腐敗してしまう現実が起こりやすいです。その現実の中で、神を知って神の義を求めている私たちには、この世は住みにくいだけでなく、その危機を感じ見守って祈っています。それだけでなく、日常の生活の中にも、自分の中に罪や悪が入り込みやすいので、罪に気づいたときには、悔い改めて神に立ち返るべきです。

「塩」の役目は味付けです。食材に塩味が加わると、味が引き立ち、おいしくなります。私たちの生活の中で、私たちは濃く目立つ味ではないのですが、自分のことだけでなく、人を愛し、親切にして、その人を信じてあげることで、人生を楽しむことができます。そういう目立たない愛をもって過ごしています。このような塩としての役目を私たちは、もうすでに頂いているのです。そうできるように、塩気のもとである神の愛、神様から愛されて赦されている恵みを、心の中に与えられているのではないでしょうか。