2021年8月22日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.34 敵を愛しなさい

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。     マタイによる福音書 第5章44節

 

「汝の敵を愛せよ」。この言葉は、多くの人々に知られています。「隣人を愛しなさい」。この言葉もよく知られていますし、こちらは、誰もが自分にもできることと思っています。でも、どうでしょうか。自分の隣人について、どこか、自分の家族、自分の仲間、自分の身近な気心の知れた人たちだけに限定してしまっているのではないでしょうか。そういう仲間以外は、隣人ではないから、よその人として、あまり重んじないで、気にしないでいるのではないでしょうか。

 

そのように考えやすい私たちに向けて、主イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と教えておられるのではないかと思います。「敵」すなわち、自分に害を及ぼす、苦しめてくる人を愛しなさいと、主イエスは言われるのです。しかも、アガペーの愛で愛しなさいと。その人を重んじ、受け入れていくように思って行動しなさいと。具体的には、自分を迫害する者のために祈りなさいと、教えています。このようにすることは、自分の頑張りや意志だけでは大変難しいことです。

 

どうしてこうしなさいと教えられているのでしょうか。私たちに天の父がおられ、このお方が、私たちを子として愛してくださっておられるからです。このお方が善人だけでなく悪人にも太陽の光を与え、恵みの雨を与えておられるからです。天の父から愛されているのです

2021年8月15日 礼拝説教要旨

      

 きょうどう-2021年 No.33 善をもって悪に勝て

      

 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。      

マタイによる福音書第5章39節

 

「目には目を、歯には歯を」という言葉はよく知られています。この言葉の本来の意味は、レビ記24章20節を見るなら、人々がケンカをして、人に被害があれば、その傷害を加えた者はそれと同一の傷害を受けなければならないという刑罰の定めでした。被害に応じた罰が定められていて、それ以上の仕打ちを止めていたのでした。しかし、ユダヤ人指導者たちは、目がやられたら、必ず目を打つ、歯をやられたら、歯を打たなければならないと教えたのです。そのように、今日でも解釈されているのではないでしょうか。

 

これに対して、主イエスは「悪人に手向かってはならない。」と教えられました。悪人が自分に被害を加えてきたら、こちらは大変苦しんでしまいます。それなのに、悪人に手向かわないでいることが果たしてできるでしょうか。怒りや恨みを抱かず、相手に仕返しをしないでいるのは難しいことです。誰にもできないことのように思います。

 

ですが、この言葉を聞いている私たち、すなわち、神を信じ主イエスを信じている私たちには、主の憐みによってさせていただけるかもしれません。自分が神から赦していただいたと言う思いを頂いて、このことを自分で解決するのではなく、神が放っておかれない、後始末をしてくださると信じるとき、神がさせてくださるのではないか。

 

2021年8月8日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.32 真実に生きる             

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

              マタイによる福音書第5章37節

 

ここで主イエスは「一切誓いを立ててはならない」と言っておられます。

 

「誓う」ということは、ごく日常的に行っていることです。「洗礼式」「結婚式」「任命式」など、いろんな機会に誓約・約束をしています。誓いをすることで、自分が神の前に真実であることを表そうとしています。しかし、誓う時、どこか自分をより信用をされたいと思って、偽って誓ってしまったり、誓ったけれども、最後まで守れないこともあります。私たちのする制約や約束が、その誓約をする時だけはよく頑張ってしまって、その後は、続かなくなるのはどうか、と主イエスは問いかけておられます。

 

むしろ、主イエスは、誓うことをやめて、「ハイ」は「ハイ」と言い、「いいえ」は「いいえ」と言いなさいというのです。それは、日常生活の中で真実な言葉で言い表すようにしなさいとことです。私たちの語る言葉が、真実であるようにと勧められます。私たちは、つい自分の努力や精進をもって神の前に認められなければいけないと思い頑張ってよく見せようとしやすいものです。そのような不真実な私たちを主イエスはご自身の真実をもって覆ってくださっています。主の真実を受け止めて、主の真実に支えられて生きていきたい。