2014年2月16日 礼拝説教要旨

神の選び

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記上 第16章1-13節

使徒言行録 第10章24-43節

 

主題聖句:「いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。…」

サムエル記上 第16章3節     

「神ご自身が“神の民イスラエル”を王として支配なさる」…これがイスラエル民族の原則です。サムソンやギデオンなど“士師”の活躍する時代もありました。しかし、外国の侵攻から身を守り、国内の安定を維持するため、“王制”を導入するように民は、サムエルに迫ります。民の要求に応える形で“王制”が敷かれたように見えます。しかし、民の願いを神が許可されたというより、神が王を立てることを望まれたのです。(サムエル記上8:9)

 

初代のサウル王は神に捨てられます。神を畏れず、職権を乱用し、私腹を肥やしたからです。次の王を準備させるために、神はサムエルをエッサイのもとに遣わされます。いけにえをささげて、礼拝をするためです。

王サウルは、位にしがみつこうとしています。サムエルの動きに目を光らせます。「いけにえをささげる」はサウルを欺く単なる口実、見せかけでしょうか。そうではありません。神によって王は立てられるのです。礼拝の場こそ、王がその職に任命されるのにふさわしいのではないでしょうか。

 

支配者となることは重い責任が生じます。どれほど優れた能力を持つ人であっても、全身全霊を傾けて責務が果たせるかどうかでしょう。王の仕事をやすやすとこなせる人などだれもいません。犠牲を伴うのです。

 

「礼拝」とは「わたしたちのからだを神にささげること」です(ローマ書12:1)王の役得で甘い汁を吸うどころか、神の支配をもたらすために苦労の連続を、少年ダビデは送ることになります。礼拝から送り出されて、神のために用いられることを、この少年は次第に学び取ってゆくのです。

2014年2月9日 礼拝説教要旨

人間ダビデ

 

政所 邦明 牧師

 

ルツ記 第4章13-22節

マタイによる福音書 第1章1-17節

 

主題聖句:「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、…エッサイはダビデ王をもうけた。」

マタイによる福音書 第1章1、2、6節 

                                   

今から3000年前にベツレヘムに生まれたダビデは、羊飼いの少年からイスラエルの王になった人です。その名は旧約聖書では800回ほど、また新約聖書でも60回も出てきます。「聖書(旧約)はご自分について証言をする書物だ」とイエス・キリストは言われました。旧約聖書のみならず新約聖書も、もちろんそうです。[ヨハネ福音書5:39]イエス・キリストを知るために信仰者は聖書を読みます。「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちから甦ったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」[テモテへの第二の手紙2:8 口語訳]ですから、キリストを知り、信じるためにはダビデを知るのがとても大事なのです。

 

ダビデは多様な面を持った人物です。王になるまではもちろんのこと、王になってからも“凄まじい、戦(いくさ)”を内外の敵と繰り広げます。それだけでなく、心の内では自らの罪と“のた打ち回るように”戦いました。そして苦悶の果てに、神に立ち返るのです。その姿から信仰を教えられます。

 

詩編にはダビデの作とされるものが数多く残っています。豊かな文学性を備えた作品です。しかも、すべてに信仰が満ち溢れています。神に訴え、嘆き、祈ることをダビデは知っていました。祈りのうちに罪を悔い改め、神のもとにこそ赦しのあることを、わからせていただいたのです。神に愛された罪人、神を信じて、従ってゆこうとする姿を人間ダビデの中にみます。①ダビデを知ることはイエス・キリストを知ること、さらに ②信仰生活を知ることに通じていると思います。それゆえに、ダビデの生涯を学びたいのです。

2014年1月26日 礼拝説教要旨

「福音の宣教」

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第52章7-10節

マルコによる福音書 第1章14-15節

 

主題聖句:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 マルコによる福音書第1章15節 

悔い改め”とはいったい何でしょう? 心を入れ替えて少しでも“真っ当な人間”になることでしょうか。努力すれば、少しは親切で真面目な人間になれるかも知れません。「悔い改め」とは「心の回れ右をすることだ」と説教する時、わたしはよく申しました。しかし、何から何へ方向転換するのか十分に説いていなかったと反省しています。人間が「大切である」と普通考えるものから、“別のもの”に信頼する対象を替えること、あるいは移すことです。“別のもの”とはいったい何でしょうか?それは福音です。人間にとって一番大切なものだと神が思われて、差し出して下さった救いなのです。この救いを与えるために、ガリラヤで宣教を始められた時からイエス・キリストは十字架を目指し、十字架に向かって進み始められました。

人間にとって価値があるものとはいったい何でしょうか?お金や財産、健康、助けてくれる家族や友人など、いろいろと挙げることができます。その他にもいくつもあるでしょう。その中の例えば、健康を考えるとします。健康は大事です。神の与えて下さった体のために最大限の努力をすることをだれも反対しません。しかし、人間にとって、どんなに価値があると思われていても、罪からの救いよりも大切なもの…救いに代わるものが他にあるでしょうか?健康は大切であっても救いにはなりません。人間が“価値あり”とするものが大事でないとは申しておりません。福音よりどちらが大事かと問うているのです。その福音に目を注ぎ、体も心も、自分のすべての向きを福音へとかえる時、私たちの生活が安定します。それが“悔い改め”なのです。

2014年1月12日 礼拝説教要旨

主の僕・イエスの召命

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第42章1-11節

マルコによる福音書 第1章9節

 

主題聖句:「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」          

マルコによる福音書第1章11節

わたしたちに不可解と思えることがしばしば聖書に記述してあります。主イエスが洗礼をお受けになったということもそのひとつです。マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まりました。主イエスが神の子であり、メシア(救い主)であることを喜んで伝えるのが、この福音書の目的です。神の子に罪があるはずはありません。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」をバプテスマのヨハネは宣べ伝えていたのです。それなら、罪のない神の子がどうして洗礼を受ける必要があったのでしょうか。何か心にやましいことでもあったのでしょうか。そのようなことがあるはずはありません。それなのになぜ主イエスは自ら進んで洗礼をお受けになったのか?冒頭で人間の理解の及ばないことが聖書に書いてあると申し上げたのはこのような点です。

 

おそらく人間の計画というより神がお決めになり、神が主イエス・キリストに促されたのだと思います。しかも、父なる神と御子キリストとの思いがピッタリひとつになりました。第11節の『わたしの心に適う者』というのはイザヤ書第42章1節からの引用です。「主の僕の歌」と呼ばれるもののひとつです。神が歓迎される僕(神に仕える人)とは力ずくで相手をねじ伏せ、脅して自分の言うことを聞かせる支配者ではありません。罪人を救うために、ご自分は受ける必要のない洗礼をわざわざ受けてくださる「神の僕」です。そのような救い主のあり方を父なる神は承認してくださいました。「わたしの心に適う者」との天からの声は、父なる神の承認の証なのです。

2014年1月5日 礼拝説教要旨

イエス・キリストの福音の初め

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第40章1-11節

マルコによる福音書 第1章1-8節

 

主題聖句:「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」            

マルコによる福音書第1章8節

                                    

第1章1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」はこの福音書全体の核心を短い言葉できちっと表現していると思います。「ナザレのイエスが神の子であり、救い主でいらっしゃる。この御方の十字架と復活とによって人々に救いがもたらされる。その救いが喜びの知らせである。その喜びのニュースをこの福音書で書いた」とマルコは言っているかのようです。福音書全体の内容が、一行にも満たない第1節の文節に込められているのです。

 

1章2節~8節にはイエス・キリストの道備えをするバプテスマのヨハネのことが書いてあります。この部分には、主イエスは直接、登場しておられません。イエス・キリストがおいでになる前の話ですね。するとここは“神の子イエス・キリストの福音”と関係のない部分なのでしょうか。そんなことはありません。この部分もバプテスマのヨハネが行う洗礼の行為や言葉によって“神の子イエス・キリストの福音”が証しされているのです。

 

「自分は屈んでこの方の靴の紐を解く値打ちもない」とヨハネは申します。…“人々に罪の赦しを与えるための水による洗礼をわたしは授けている。しかし、水による洗礼は罪の赦しを完全に与えるものではない。主のなさる聖霊による洗礼の準備段階に過ぎないのだ。”…自分のなすべき務めと役割とをヨハネは自覚しておりました。水による洗礼は、聖霊による洗礼の予備的なものに過ぎません。キリストの十字架による救いがあって始めて「罪の赦しを得させる悔い改めの水のバプテスマ」に実質が伴います。罪が赦されるためには、キリストのみ業と聖霊のお働きとが、どうしても必要なのです。

2012年12月30日 礼拝説教要旨

「 シメオンの歌 」

 

政所邦明 牧師

 

ルカによる福音書 第2章22-35節

 

主題聖句:「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。」           

ルカによる福音書 第2章39節

                 

主イエス・キリストがお生まれになって40日目のことです。生まれた長男を神にささげるためにマリアとヨセフとは幼子をエルサレムの神殿に連れてゆきます。「当時の慣習に従っただけだ」と言えばそれまでです。しかし、初子は本来神のもので、「この子をあなたのご自由に使ってください」と神に申し上げたのです。これはイエス・キリストの場合は特別な意味を持ちました。神殿に連れてゆくとは、すべての人の罪を償う“いけにえ”として 神に献げることを意味します。実際には30年後の十字架において実現します。しかし、マリアとヨセフとはその事がどれだけわかって神殿詣をしたのでしょうか。おそらく十分には理解できていなかったはずです。

この赤ちゃんの行く末、担うべき使命を鋭く見抜いている人がいました。シメオンです。神の遣わされるキリスト(救い主)にお目にかかるまではけっして死なない。必ず生きている間に、救い主にお目にかかれるとの示し(お告げ)を受けておりました。シメオンは“霊”に導かれて 神殿に入ってきました。神の“霊”が初めから終わりまでシメオンと救い主イエス・キリストとの出会いを導きます。シメオンは“霊”によってこの赤ちゃんの先の先まで見せていただいたのでしょう。母マリアは将来悲しみのため、胸が張り裂けそうになる経験をすることになります。自分の醜さも含めた全人類の罪をこの赤子は担って救ってくださるとシメオンは見抜くことができたのでしょう。だからこそ、「キリストに出会った今こそ安らかに死ぬことができる」と言いました。その感謝を讃美歌にし、神をほめたたえたのです。

2012年12月23日 クリスマス礼拝黙想(本日の説教とは関係ありません) 

政所邦明牧師

 

主題聖句:「民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを不思議に思っていた。」    

ルカによる福音書  第1章21節

何千人もいる祭司の中から、神殿で香を焚く務めにザカリアはクジで当たりました。一生に一度あるかないかの貴重なチャンスです。緊張して、落ち度なく儀式を執り行おうとして必死だったことでしょう。しかしうっかりすると、一連の儀式を滞りなくこなすことばかりに気を取られて、神ご自身を見失う過ちに陥る事だって起こりえます。

そのような人間の業を中断させ、神殿の中で、ザカリアに神が現れてくださったのです。神殿は一番神に会えそうな場所です。そもそも香を焚いて礼拝を捧げるのは神と出会うためではないのでしょうか。ところが実際に神が現れてくださると、ザカリアは信じられません。おかしなことです。

神の業は人間の儀式の手順の中に押し込められるものではありません。人間の思いとは異なります。神がはじめからご計画になり、ここぞと言う決定的なときにご自分の判断で介入してこられるのです。人間にとっては驚き怪しむ出来事です。しかし、受け入れる以外にはありません。

時が来れば必ず実現するはずの神の言葉を信じなかったために、ザカリアは息子ヨハネの誕生まで言葉を失います。その間不自由を強いられる一方で、神がお語りになった言葉を何度も何度も心の中で繰り返す貴重な時間ともなりました。この時間があったからこそ、定めの時間が過ぎたとき、舌がほどけ、讃美の言葉が口をついて出てきたのです。

2012年12月16日 礼拝説教要旨

 

2012年12月16日 礼拝説教要旨

 

「 イエスの母、兄弟 」

 

政所 邦明牧師

 

マルコによる福音書 第3章31-35節

 

主題聖句「:「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」

              マルコによる福音書 第3章35節 

                

天使ガブリエルが「神の子」と呼ばれるほどの方を聖霊によって身ごもらせるとマリアに告げます。最初は戸惑い、恐れをいだいていたマリアも、天使と対話するうちに次第に心が解けてゆき、最後には「お言葉どおり、この身になりますように。」とすべてを明け渡します。「御心のままにこのわたしを用いてください。」とマリアは献身の姿勢を取ったのです。

「お言葉どおり」とはあなたの御心、お考えのとおりにということでしょう。受胎告知を受けたマリアは「神の御心」を行おうといたしました。

30年の歳月が流れます。父親のヨセフはすでに亡くなっており、主イエスは一家の長男として家計を支え、その責任を果たしていたのでしょう。その大黒柱が突然、家を飛び出し、旅回りの説教者となってしまったのです。気が変になってしまったのではないかと家族が心配するのは理解できます。滞在先まで、母マリアと肉親の弟たちとが訪ねて来ました。受胎の時に聞いたお告げをマリアは忘れたのでしょうか。神が最適と思われる時、満を持して、主イエスは宣教活動に入られました。神の御心からすれば当然起こるべくして起こったと言っても良いでしょう。

「神の御心を行う人こそ、…わたしの母」と主イエスから言われたマリアはどのような思いだったのでしょうか。身勝手な親不孝を正当化する言葉としてではなく、30年前の初々しい献身を思い起こさせる言葉として聞いたのではないかと思います。このようにマリアは神から挑戦を受けます。そして、主イエスを十字架へと献げる再献身へと導かれていったのです。

2012年12月9日 礼拝説教要旨

「 12弟子の選び 」

 

政所邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章31-35節

 

主題聖句:「イエスが…これと思う人を呼び寄せ…12人を任命し、使徒と名付けられた。…また、派遣して宣教させ…」

     マルコによる福音書 第3章13,14節                 

クリスマスの季節になり、この時期によく読まれる箇所を読み返しております。東の国の占星術の学者たちは幼子イエス・キリストのおられる場所の上に止まった星を見て喜びに満ち溢れます。元のことばを日本語にそのまま置き換えますと「甚だしい大きな喜びを喜んだ」となります。筆舌に尽くしがたい喜びを経験しました。

一方天使のお告げにより救い主の誕生を知らされた羊飼いたちは飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てます。そしてその光景を見て幼子について天使が話してくれたことを人々に語り始めます。羊飼いたちが“喜んで”と聖書には書いてはありません。しかし、この人たちを突き動かしたのは占星術の学者たちと同じように“喜び”であったのでしょう。ただ羊飼たちが「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とだけルカ福音書は表現します。おそらく人に語り伝える原動力は“喜び”に違いないのです。

主イエス・キリストが12人の弟子を選び、宣教に遣わされました。12人が一念発起して自主的にというのではありません。送り出されたのです。最近「背中を押す」という表現を耳にするようになりました。突き出すのではなく、そっと押すのです。占星術の学者たちも、羊飼いたちも、喜びに満たされ、他の人に語らずにはおれなかったのだろうと思います。救い主キリストに出逢ったからです。12弟子に先立つこと30年、喜びに押し出されて羊飼いたちは、キリストの救いを語る最初の宣教者となったのです。

2012年12月2日 礼拝説教要旨

「 弟子を招く主イエス 」

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第1章16-20節

 

主題聖句:「イエスは、『わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう』と言われた。」  

 マルコによる福音書 第1章17節   

 

主イエスが宣教を開始されて最初になさったことは 「ついて来なさい」と弟子に呼びかけることでした。「召集」ということを考えますときに、それは選ぶ側に主体性があります。誰を選ぶかは選ぶ側の人次第でしょう。選ぶ方は強い意志で働きかけます。“グイッ”と引っぱり出す印象を持ちます。信仰を持つとは主イエスに弟子入りをすることです。「従うか、従わないか」は本人の決心次第という面も確かにあるでしょう。しかし、神の見ておられる視点からすれば「主イエス・キリストに捕らえられた。このキリストに呼びかけられた。」という面が強いのではないでしょうか。自分の力で信仰を持ったなどと言える人は誰もいません。導かれたのです。

旧約聖書の預言者は神からの “召命体験”を持っています。預言者エレミヤに対して神は次のように言われました。「母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ書第1章5節)。聖書ではこれに似たことは至る所で言われています。同じ箇所でエレミヤに「あなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。」と神は言われました。わたしたち信仰に入った者から言えば、「初めから終わりまで全部、実は神の御手のうちにおかれていたのだ」と言えるならどんなにすばらしいでしょうか。

“召命”とは 歩いていると突然人に後ろから呼び止められて、「ついて来なさい」と言われるのとあまり違わないように思えます。しかし、神が計画を立て、実行し、捉えてくださるのです。その選びは確かなのです。