2020年11月22日 礼拝説教要旨

義とされた者の祝福   

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第5章1-5節

 主題聖句:このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

ローマの信徒への手紙 第5章1節

 

ローマの信徒への手紙の5章に入りました。何か高台に上った時に見えて来る開けた景色を眺めているような印象がします。ここで今一度、これまで4章までに書かれてあった「信仰によって義とされる」ということが、どんな祝福をもたらすのかがまとめて言い表されているからです。これは私たちに大きな喜びをもたらしているとパウロは賛美しています。

 

それは「わたしたちは・・・神との間に平和を得ており」という祝福です。ひと言で言うと、私たちは神様と和解したということです。神様と和解したということは、神様が私たちの味方となってくださったということです。しかし、キリストを信じるまではそうではなかったのです。私たち人間は神を無視し、自分の欲望によって歩み、神に敵対して過ごしていました。ですから、神との間には、深い永遠の淵があるように離れて、神抜きの生活がありました。その結果神から裁かれてもおかしくなかったのです。しかし、神は私たちをそのまま裁かれるのではなく、何とか救い出すために、御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、私たちの罪とその結果の裁きをこのお方に背負わせて十字架につけて裁かれました。この御業によって私たちが裁かれず、神の前に義とされるようにして下さいました。それは神の表わされた無償の恵みです。信じて頂くのです。キリストのおかげで神との間に平和があり、和解を頂いているのです。この祝福を感謝します。

2020年11月15日 礼拝説教要旨

望みえないのに望みを抱いて 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第4章17-25節

 

主題聖句: 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、

              ローマの信徒への手紙 第4章18節

 

旧約聖書には、信仰の父アブラハムが登場します。この人の生涯と信仰の歩みを見る時、神を信じる信仰とはどのようなものかが見えてきます。

 

このローマの信徒への手紙において、パウロは信仰によって義とされるその信仰の実例としてアブラハムの信仰を取り上げています。それを、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ」たと言い表しています。アブラハムは、主から自分の故郷を離れて主の示す地に行けとの召しを受け、カナンの地に家族と共に来ましたが、年を取っており子どもがありませんでした。子を与えるという神の約束を待っていましたが、子が与えられませんでした。彼らはもう無理かと思ったときもありました。しかし、主は彼に「あなたから生れる子が跡を継ぐ」、「あなたの妻が男の子を産む」と約束されました。神の励ましを受けて、彼は神の約束を信じたのです。彼には、可能性がないと思えましたが、彼は神がその約束を実現する力があると信じたのです。神に励まされて彼は神の約束を疑わず、神の約束を信じたのです。その信仰を神は彼の義と認められました。彼を神と正しい関係にあると認めてくださいました。

 

アブラハムの信仰が、私たちの見習うべき信仰です。主イエス・キリストは私たちの罪のために私たちの代わりに犠牲になって死んでくださいましたが、神の力で復活されて私たちを義としてくださるのです。神は主イエスを通して現された救いは、この信じる信仰によって頂くのです。

2020年11月8日 礼拝説教要旨

子どものように 

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章13-16節

 

主題聖句:しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

マルコによる福音書 第10章14節

 

今日、教会では、子ども祝福式を行います。子どもを持つ親は、わが子が心も身体も健やかに成長してほしいと願って、子どものために色々なことをしてあげています。ある母親は、わが子を自分の力だけでは育てるのは難しいと考え、キリスト教の教えに立った幼稚園に子どもを託して育ててもらおうと、そのような幼稚園を探してのぞみ幼稚園に子どもを預けました。このように親は皆、子どもの祝福を願っています。

 

今日の箇所の親たちも、子どもを祝福してもらおうと、主イエスのもとに子どもを連れて来たのです。しかし、主イエスの弟子たちは近づく親子を叱責しました。それは主イエスがお忙しいから、子どもは大人より低い存在だからと思っていたのでしょう。その弟子たちの態度を主イエスは憤って、子どもたちを自分のところに連れて来なさい。妨げてはならないとはっきりと言われたのです。それは、主イエスは子どもたちを愛しておられたからです。「神の国は、このような者のものである。」と言われました。神の国、すなわち、神のご支配は、子どもたちのような者にこそ与えられるのだと言われたのです。子どもたちは純真であり可愛いですが、弱くて小さな存在です。差し出されたものを疑うことなく、無心で受け取る存在です。このような素直な心を持つものにこそ、神の祝福が与えられるのです。私たちもこのような心を持って主に近づきましょう。

2020年11月1日 礼拝説教要旨

 この幸いはだれに与えられるのか 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第4章9-16節

 

主題聖句:では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。

ロ-マの信徒への手紙第4章9節

 

私たちは幸いな生活を求めています。この箇所は、「この幸いはだれに与えられるのですか」と、私たちに問いかけています。この幸いとは、6節「行いによらずに神から義と認められた人の幸い」です。アブラハムが受けた幸いは、彼が神の約束の言葉を信じたとき、神はその信仰を義と認められたという幸いでした。ダビデが頂いた幸いは、彼の犯した大きな罪を神に赦していただき、罪を覆い隠していただいた幸いでした。

 

この幸いは、どのようにして与えられるのかについて、当時のユダヤ人は、自分たちが、イスラエルの民として生まれ、神に選ばれた民とされたという特権にあずかったという幸いのしるしとして割礼を受けた人に与えられると思っていたのです。それゆえ、彼らユダヤ人は問うのです。神の前に義と認められるという幸いは、割礼を受けた人だけに与えられるのですかと。その問いへのパウロの答えは、アブラハムは神の前に義と認められたのは、割礼を受ける前でした。アブラハムが神の約束を信じて義と認められてから14年は経過して割礼を受けているのです。ですから、割礼は、信仰によって義と認められたという神の恵みを受けた幸いを、目に見えるしるしであるというのです。割礼という外側のしるしよりも、神をはっきりと信じていることが大切だというのです。私たちは、私たちの罪を贖って下さったキリストの救いを信じ、罪を赦されたしるしとして洗礼を受けていますが、信仰を忘れてしまったら形だけになりかねません。