2021年12月12日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.50 主の道を整えよ

荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、

            マルコによる福音書 第1章3、4節   

   

 アドヴェント第3主日の主題は、主の道を整えよです。丁寧に言うと、救い主の到来を知らせる先駆者の声を聞いて、救い主をお迎えする備えをするということです。

マルコ福音書は、福音の始まりは洗礼者ヨハネの活動によってであると告げます。預言者イザヤの預言通りに、荒野に洗礼者ヨハネが現れて救い主を迎える備えをしたと告げます。

そのイザヤが語った当時のユダヤの人々の状況は、大国バビロンによって国を滅ぼされ、異国バビロンの地で荒れ野のように荒れ果てて苦しんでいたのです。その彼らにイザヤは、神が帰って来られるから、心を開いて、神の方に向きを変えて近づこうと呼びかけました。そのとおりに、洗礼者ヨハネは荒れ野に現れ、罪のゆるしを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのです。まもなく神のさばきが来る、救い主がお出でになる。罪をゆるしていただくために自分の罪を悔い改めなければならないと伝えたのです。このようにヨハネは救い主の到来を知らせ、このお方を迎えるように呼びかけたのです。ですから、今日の私たちも、この勧めに従い、悔い改めて、救い主を心にお迎えしましょう。

2021年12月5日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.49 神の言葉を聞きなさい

ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。
                                エレミヤ書 第36章3節

 

待降節第2主日の主題は、神の言葉を聞くことです。
主イエスが来られる前、私たち人間は預言者を通して神の言葉を聞いていました。しかし、人々は預言者の伝える神の教えや警告を素直な心で聞くことができませんでした。預言者を通して、人々に対して、あなたは危ない悪い道に向かっている、だから、神に立ち返れと呼びかけても聞こうとしませんでした。そればかりか、預言者をうるさがり、遠ざけて、排除しました。今日の箇所に登場するエレミヤに対しても、人々は、その語る神の言葉を聞かないで、いじめてしまいました。
エレミヤは、神は人間と良い関係となるように私たちを愛し、恵もうとしておられることを伝えます。でも、彼らは神にではなく偶像に頼り欲望のままに生きていたので、それで神はエレミヤを通して、神の裁きを告げ、神に立ち返るよう呼びかけます。でも、人々はエレミヤをうるさがり、閉じ込めて語れないようにしました。そのために、エレミヤはバルクという弟子に神の言葉を巻物に書かせて、それを神殿で読ませました。しかし、人々は従わず国は滅びてしまいました。それでも神は人間を思い、御子イエスを人となった神の言葉として遣わされたのです。

2021年11月28日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.48 目を覚ましていなさい

たしに聞け 正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。
 イザヤ書 第51章7節

クリスマスの出来事は、何の前触れもなく、突然起こったことではないのです。旧約の昔に、預言者たちが、人々に救い主がお出でになるという神の約束の言葉を預言し、人々に来るべき救い主の来臨の希望を伝えていたのです。その預言を聞いた人々は、目の前の苦しみの中で、その約束を希望としてその時を待ち続けたのです。そのように待ち続ける彼らのもとに救い主がお生まれになられたのです。
旧約の人々がどのような思いで救い主を待望したのかを覚えたいのです。今日開かれたイザヤ書51章は、南ユダ王国も大国バビロンによって滅ぼされて、多くの人々が異国の地に連れていかれ不安と絶望の中にあった時に、預言者に示された、大いなる慰めの言葉です。
人にではなく「わたしに聞け」と神は語られ、神の語る教えに心をとめるように勧めます。神はその語られる言葉に基づいて彼らを救おうとされたのです。それゆえ、預言者イザヤは、神に向かって、神が奮い立って力をまとって神の力強い御腕で、昔、自分たちを救ってくださったように、今、自分たちを救ってくださいと叫ぶように求めています。そうしてくださると信じて待つのです。
私たちも神に心を向け、神の救いを待ち望む思いでクリスマスを待とう。

2021年11月21日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.47 裁かないように

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

      マタイによる福音書 第7章1節

 

他の人の失敗や間違いを知って、それはよくないことだと批判すること、つまり、人を裁くことは、私たちが、結構毎日心の中でしているのではないでしょうか。相手にその間違いを言ってあげて、正してあげることは大切だと思っています。ですが、主イエスは、「人を裁くな」と教えられています。それはなぜでしょうか。

「あなたがたも裁かれないようにするためである。」と言われます。その意味は、人は完全ではありません。そんな人間が相手の間違いに気づいて裁くとき、神に裁かれるからです。正しく裁くことのできる神が見ておられ、裁かれるからです。神は、私たちが人を裁くその裁きに応じて、私たちをも裁かれるというのです。

私たちが人を裁くとき、どんな問題があるのでしょうか、主イエスはたとえを持って教えられます。私たちは、人の目の中にある小さな「おが屑」、つまり小さな欠点や間違いにはよく気が付き、そのことを注意してあげようとします。でも、自分の目の中にある「丸太」、つまり自分の大きな欠点や間違いには気づかないのです。自分の大きな欠点や間違い、それは、相手の状況を考えずに自分の偏った価値観や正義を基準で裁いては正しく相手が見えません。まず神から教えられるべきです。