2022年1月23日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.4 狭い門から入りなさい

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 

                   マタイによる福音書 第7章13節

 

 この言葉は、多くの人に知られています。この世という競争社会で、よりよい成果を得たいならば、困難な道を歩むべきだと、競争に勝つように励ます意味で使われています。この言葉を語られた主イエスは、そのような意味で使われたのではありません。主イエスは、命に通じる狭き道を選んで命を得よ、呼びかけておられるのです。

 

人生には重大な分かれ道があります。命に至る道か、滅びに至る道かを選ばなければなりません。「滅びに通じる門は広く、その道も広々としてそこから入る者は多い」のです。多くの人、ほとんどの人が自分が堕落しているとは思わないで、周囲の人々を意識しながら何の咎めも感じないで自分の好きなように滅びに向かっています。 しかし、もう一つの道の、命に通じる門は狭く、道も細いのです。狭くないはずなのですが、狭く感じてしまうのです。苦しみも伴うからでしょう。主イエスの教えられたことが、愛の神を信じて従うという厳しい教えであり、それに苦しみもあるからでしょう。神の前に自分の罪に気づかされて、神に頼るしか自分の救われる道がないと認めて心低くされる道です。この道はキリストの歩まれた道です。キリストが招いておられる道です。キリストが私たちの心の目を開いて命に通じる道を示しておられます。

2022年1月16日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.3 大切な戒め

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

                     マタイによる福音書 第7章12節

 

 この言葉は、昔から「黄金律」(ゴールデンルール)と呼ばれています。人間が生きる上で黄金のように大切な教えということです。

この教えは、主イエスがこれまで山上の説教において、神の国の民として神を信頼して歩むために、こうあるべきだと教えてこられましたが、それをまとめるとこうなるというのです。

この教えはまず、「人にしてもらいたいと思うことは」とあります。どんな時、私たちは生活の中で、人にしてもらいたいと思うかというと、つらい時、苦しみで耐えている時です。そんな時に人から助けてもらえたらという思いが強くなります。そういう苦しい時、何とか助けてほしいと思います。でも、実は他の人も同じことをしてほしいと思っているのです。その人を思いやって同じことをしてあげなさいと言われるのです。主イエスは、自分のつらさが分かり、その自分が助けられて良かったとわかるならば、そのことを人にしてあげなさいと教えられるのです。

でも、どうでしょうか。自分には、人にしてもらいたい思いは強いのですが、人に同じようにしてあげることはできないものです。でも父なる神から恵みを受けていることを覚えて、そうする力を頂きましょう。

2022年1月9日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.2 求めなさい

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

                      マタイによる福音書 第7章7節

  

 この言葉は、文語訳「求めよ、さらば与えられん」という言葉で、教会以外の人々にも一般に知られています。どんなことでも熱心に求めたら与えられるという意味にとって、人々に勇気を与えてくれています。

でも、どんなことでも求めたら必ず与えられるのかというと、実際のところ、自分の利己的な要求だけを求めたとき、必ずしも与えられなかったという経験をした人は多いのではないでしょうか。どうも、この教えは、どんなことでも求めたら与えられるのではないようです。

この言葉には、何を求めるべきかを記していませんが、何を求めるべきなのかを、この箇所の前後関係から、推察しますと、この山上の説教において主イエスがこれまで教えて来られたことが、神を信じ、神の前に正しく生きる信仰ですから、それを私たちに最も必要なこととして求めるべきであるようです。それを頂くためには神の助けと恵みが必要です。私たちは、神様の恵みがありがたいとは思っても、自分には、それがない、それが必要だと、私たちは自覚しているでしょうか。そう気づいてあきらめないで求め続けるべきなのです。

この求めを聞いて下さるのは、神様です。私たちを愛し、救ってくださる父なる神です。私たちに良いものを与えて下さいます。求めよう。

2022年1月2日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.1 自分の父の家にいる

すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」   

ルカによる福音書 第2章49節 

 

 昨年のクリスマスに、人となってお生まれになった神の御子イエス様のお誕生をお祝いしました。そのイエス様がどのように成長されたのか聖書から教えられたいと思います。そのイエス様がどのように成長し大人になられたのか聖書にはほとんど記されていません。ルカによる福音書にわずかだけ記されています。

今日の箇所に両親が少年イエス様を連れてユダヤの慣習に従って都エルサレムに上り、神殿で礼拝をささげたときのことが記されています。祭りの期間が終わって帰路に着いたとき、少年イエス様はエルサレムに残っておられましたが、両親はそれに気づかず帰ってしまっていました。その日の夜、そのことに気づきあわてて探し、3日もかかってエルサレムに戻って、まさかの場所でイエス様を見つけました。

それは神殿で、イエス様が学者たちから聞いたりしていたので、両親は驚き思わず小言を言いました。それに対するイエス様の答えが上記の言葉です。この言葉は両親の子どもとしての立場を超えたものです。神の御子として、神をご自分の父と呼ぶことがおできになっています。わたしの父のおられる所にいて、父のわざをすることを当然だと言われました。私たちにとっても、教会は私たちの神がおられ、祈るところ。