投稿者: matsuyama-allian
2022年9月18日(日) 礼拝説教要旨
きょうどう-2022年 No.38 生涯の日を正しく数える
生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。 詩編 90編12節
今朝は、召天者記念礼拝を持っています。「召天者」とは、生前イエス様を信じて救いをいただきながら、愛する家族と過ごし、ある時神様のお導きで天の神様のみもとに召された方々です。この方々を、今一度思い起こし感謝し、その生涯を導かれた神様に感謝をしたいと思います。
この方々を覚えることは、つらく悲しいことですが、その方が共に歩みその後、逝去されたという事実は、私たち人間の一生には限りがあり、いつか死を迎えるのだということを示しています。そのように人生に限りがあるのは、人間に問題がある、罪があってそれに対する神の裁きがあるということを、聖書は示しています。ですから、自分が必ず死ぬこと、神を畏れ敬い、救っていただかなければ、神の前に立ちえないものであることを深く覚えるべきなのです。
作者は、主なる神に救いを求めています。神の御子イエス・キリストは私たちを罪から救い出すために、ご自分の命を十字架につけて私たちの罪の罰を背負って死んでくださいました。死後、神の御力によって復活され、今も生きておられ、再び来ると約束されました。召天された方々は、人生のあるとき、この主イエスの救いを信じ、救われ、永遠の命を希望として歩み、平安に過ごされました。今主の御許で安らいでおられます。私たちも、主を信じ同じ救いを頂き、残された日々を大切に過ごしたいものです。
2022年9月11日 礼拝説教要旨
きょうどう-2022年 No.35 命の霊の法則
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 ローマの信徒への手紙 第8章1節
ローマ7章の最後で、パウロは自分の中で、罪の力に脅かされて善を行えない自分に絶望し、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と叫びました。同時にイエス・キリストの救いのゆえに「神に感謝いたします」と叫びました。そして8章で、激しい戦いの後、クリスチャンの慰めに満ちた勝利を語り始めるのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(1節)
「従って」で始まっています。何かすでに理由が語られたうえで、「従って」と言っているのですが、何が理由だったのでしょうか。7章25節の後にこの1節を続けると、続き具合がおかしいのです。無理があります。でも、7章6節と続けて読むとつながりが自然です。「しかし、今は、わたしたちは自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。…従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」
私たちは、主イエス・キリストの十字架の救いを受け入れ、その死に合わせられて私たちも死んだのです。それゆえに律法から解放されています。従って、「罪に定められることはありません」。有罪判決を受けることはなく、一切の刑罰から解放されたのです。「命をもたらす霊」聖霊がキリスト・イエスにある命を私たちに与えて、私たちを生かすからです。
2022年9月4日 礼拝説教要旨
きょうどう-2022年 No.35 二つの自分
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
ローマの信徒への手紙 第7章15節
今日の御言葉は、使徒パウロが自分の告白と言う形で真実に生きようとして生き切れない人間の姿を恐ろしいまでにリアルに描き出したものです。この御言葉を通して私たちは自分自身の裸の姿が白日の下にさらされていると感じます。14節で「律法は霊的なものである」、神の霊にあらわされた神のきよい意思を表したものです。その律法が私たちに示されてもそれに従うことができません。私たちがいかに肉の人であることが浮き彫りにされます。律法が正しいものとわかっていても、人間は罪の力に支配され、律法の命じることをすることができないのです。
「わたしは、自分のしていることが分かりません」。自分が律法の示す正しいことに従いたいと思っているに、実際の生活はそれとは正反対の望まない悪、憎んでいることを行っているのです。それがなぜかわからないというのです。このような行動に人間をさせてしまうのは、人間の内に住みついている罪だとパウロは指摘します。人間が罪に乗っ取られて、生活の軌道を踏み外してしまいます。欲望などに突き動かされて自分を制御できないでいます。こうして神の掟に従って生きようとする思いと、それに対抗して生きようとする思いが激しくぶつかり、戦っています。この闘いの中で苦しむ私たち。キリストが私たちと共に闘ってくださるのです。

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