2022年8月21日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.34 律法からの解放

 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。

        ローマの信徒への手紙 第7章4節

 

  今日から、ローマの信徒への手紙7章に入ります。6章から始まった「きよめられる」という祝福の続きです。イエス様による救いを信じた者が罪から解放されたという恵みに応えて、神に対して生きる、自分を神にささげ、聖なる生活を目指して生きるように勧められてきました。

その続きとして、7章では、律法からの解放が教えられています。初代教会の時代、ユダヤ社会では、律法が神の意志として守らなければならない規範でした。律法を守ることが救いの条件であり、生きる道でした。しかし、パウロは復活のキリストに出会い救われ、律法によってではなく、キリストによる救いを宣べ伝えるようになったのです。

1~6節では、キリストが十字架で私たち人間のために死んで救ってくださったことのゆえに、私たちもキリストにあって死んだのです。それで律法に対して死んだものとされたのです。律法は、こうあるべきだと道を示しますが、守る力を与えないし、罪に誘います。キリストによって律法から解放されたのですから、律法に生きるのではなく、キリストの救いを信じ、キリストにつながって、解放して頂きましょう。

2022年8月14日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.33 聖なる生活の実を結ぶ

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
                          ローマの信徒への手紙 第6章22節

イエスを信じる以前の私たちは、罪に仕える奴隷でした。しかし、神が私たちを救うために現わしてくださった救いを知り、信じた時から、罪から解放され、神に仕えるしもべとなりました。
22節で「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり」ましたとパウロは教えています。キリストの救いを知って受け入れた私たちは、罪から解放され、神につながる、神に仕える者とされています。
しかし、どうでしょうか。キリストを信じているのですが、日々の生活の中で、罪に引きずられて罪の奴隷になっていること      はないでしょうか。どうして救われてもなお罪を犯してしまうのでしょうか。でも、神様は、信じる私たちを、もうすでに罪の奴隷から解放し、神に仕える奴隷となっていると見て、守っていてくださるのです。この恵みの中にありますから、自分が、キリストによって救われ神の奴隷とされていることを十分に自覚するようにというのです。自分を神の奴隷とされていると認めていくとき、聖なる生活の実を結んでいくのです。「聖なる生活」は、きよめ、聖化のことです。神の奴隷として歩むとき、神は私たちをきよめへと導いてくださるのです。自分を神のために生きるよう献げ、きよめて頂こう。

2022年8月7日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.32 神に仕えるしもべ

知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。               

 ローマの信徒への手紙 第6章16節

 

もし私が誰か強い指導力のある人に、自分の思いも心も献げて合わせていくなら、私はその人の奴隷となり、何もかも服従していくでしょう。パウロは、この「奴隷」の例を上げて、私たちが、罪を主人として罪の奴隷となって死に至るか、神を主人として仕える奴隷になっていのちに至るか、どちらかだと言うのです。

私たちは、自分が奴隷であるとは思っていませんが、でも、気づかない内に、以前は罪の奴隷でした。罪の求めるままに引きずられていたのです。しかし、イエス・キリストの救いにあずかって、罪の奴隷から解放して頂きました。しかし、何でもしても良い自由になったのではありませんが、新しい主人である神さまの奴隷となるために自由を頂いています。神に従順に仕えるしもべとなったのです。

私たちは今、罪に引きずられているのでしょうか。そうであれば、キリストの救いを頂き、罪から解放して頂きましょう。恵みのもとに生かされていたいものです。その中で、神に従うしもべとされて、義、救いを頂きたいものです。恵みのもとにあることを感謝し神に従っていきましょう。