2022年10月23日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.43 聖霊のとりなし

  同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

                  ローマの信徒への手紙 第8章26節   

 御霊が弱い私たちを助けてくださるということは、信仰を持つ私たちにとってとてもありがたいことです。大変ありがたいことなのだと覚えておきたいのです。実は、私たちは弱いからです。この弱いと言う意味は、人間としての弱さ、肉体が弱くなり病気をするという弱さと共に、日々生きていく上で、なすべきことを知りつつも、行うことができない心の弱さ、信仰の弱さを持っている私たちです。本当は弱い者なのです。

パウロは非常に優れた信仰者ですが、よく自分の弱さを知っていた人です。彼は健康上の問題を抱えていましたので、それを除いていただきたいと祈ったのですが、その度に「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と神は答えられました。そこから彼は弱さをありがたく思うようになりました(Ⅱコリント12:5~9)。しかし、病気だけが弱さではありません。様々な弱さに悩むのです。ですから、私たちに信仰を与えてくださった御霊が弱さに苦しむ私たちを助けとなってくださることは大きな力です。

私たちはどう祈るべきかわからないものです。何が正しい祈りかわかりません。その私たちのために御霊がとりなしてくださることは感謝です。

2022年10月16日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.42 神と共に生きる喜び

  わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。                詩編 第16章8節

 

詩編16編は、神への信頼を歌っています。信仰のすばらしさを賛美しています。詩人は、自分を攻撃してくる人たちの脅威を感じ、神に自分の身を守ってくださいと必死に叫んでいます。私たちも、自分の置かれている状況にも日々危険が満ちていますから、この叫びを日々神に向かって信じて求めましょう。

8節で、詩人は「わたしは絶えず主に相対しています」と告白します。多くの人はいつも人を見て、誰かの顔色をうかがい、他の人の期待に添うような生き方をしがちです。しかし、この詩人は、「主」、自分を生かし支えてくださる神を信じ、この方を見て、主を前に置いてすべてのことを行い、主のご期待に添うようにと考えようとしています。

そうできるのは、「主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません」からです。主がわたしの右にいて支えてくださるからです。自分が主を見て、主が自分のそばにおられると意識しているのです。人は、自分の支えとなる人の眼差しを意識し、その期待に添おうとするのが常ですが、目に見える助け手の背後におられる方こそ、主です。その主の支えこそが、力強い支えですから、この支えを覚えて、主の前に自分が立たされていることを意識し、主に対する責任を果たす気持ちですべてのことを行いたいものです。そうするとき、神に支えられている喜びが生まれます。

2022年10月9日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.41 わたしたちの望み

 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。

  ローマの信徒への手紙 第8章24節

 

パウロが、このローマの信徒への手紙で伝えている福音(良き知らせ)は、主イエス・キリストの現わされた救いによって、信じる者が義とされ、神との間に平和が与えられているだけでなく、神の栄光にあずかる希望も与えられると教えています。5章1,2節にある通りです。

「神の栄光にあずかる希望」とは、やがて世の終わりの時、キリストが再臨されるときに、私たちに栄光が与えられるという希望です。その時を私たちは待ち望んでいるのです。

現在、私たちがこの世において様々な苦しみを味わっています。うめき苦しんでいます。そのような苦しみの中にあるからこそ、神の栄光が神から与えられるということは、私たちにとって大きな希望、救いなのです。

現在、この世に生きる私たちは信仰によって神の子として生かされていうのですが、この世に生きる私たちの体に弱さ、汚れ、罪が内在するゆえに、まだ本当の神の子の実質を味わってはいません。やがて世の終わりの時、キリストがお出でくださるとき、贖い出されて、キリストと同じ神の子の栄光の体に変えていただけるのです。このことが確かな希望である根拠は、神が私たちを救うために、私たちの代わりにキリストを十字架につけて裁かれて、死から復活させられた神の御業が現わされたからです。

2022年10月2日(日)) 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.40 神の霊に導かれる者

 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

  ローマの信徒への手紙 第8章14節

 

イエス・キリストの現わされた救いを、この私のためになしていただいたと信じて歩み始めている私たちです。キリストの救いによって罪が赦され、戒めから解き放たれて生かされています。その恵みを恩に感じて感謝して歩み始めています。

「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)。

恵みに感謝し生きるためには、体の仕業を絶たなければなりません。体の仕業、すなわち、人間の持つ肉の欲望が私たちの体において生じて罪深い働きを大きく起こして、神様に従って生きることを弱め、妨げてしまうからです。実際の生活で、欲望のままに行動してしまいがちな私たちではないでしょうか。体の仕業を絶つことは難しいと思いますが、神の霊が助けてくださるのです。この霊によって絶つ時、私たちは生きるのです。

体の仕業を絶つように神の霊が私たちの内に宿って、働いてくださるのです。この霊が私たちを導かれるのです。その霊の導きに気づいているでしょうか。神の霊に一層導かれて神の子として歩むことを求めて生きたいものです。

私たちの内に宿ってくださっている神の霊は、恐れを抱かせる奴隷の霊ではなく、神の子としてくださる霊です。この霊によって「アッバ、父よ」と父なる神様に向かって親しみを込めて呼びかけることができるのです。