投稿者: matsuyama-allian
2022年9月11日 礼拝説教要旨
きょうどう-2022年 No.35 命の霊の法則
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 ローマの信徒への手紙 第8章1節
ローマ7章の最後で、パウロは自分の中で、罪の力に脅かされて善を行えない自分に絶望し、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と叫びました。同時にイエス・キリストの救いのゆえに「神に感謝いたします」と叫びました。そして8章で、激しい戦いの後、クリスチャンの慰めに満ちた勝利を語り始めるのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(1節)
「従って」で始まっています。何かすでに理由が語られたうえで、「従って」と言っているのですが、何が理由だったのでしょうか。7章25節の後にこの1節を続けると、続き具合がおかしいのです。無理があります。でも、7章6節と続けて読むとつながりが自然です。「しかし、今は、わたしたちは自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。…従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」
私たちは、主イエス・キリストの十字架の救いを受け入れ、その死に合わせられて私たちも死んだのです。それゆえに律法から解放されています。従って、「罪に定められることはありません」。有罪判決を受けることはなく、一切の刑罰から解放されたのです。「命をもたらす霊」聖霊がキリスト・イエスにある命を私たちに与えて、私たちを生かすからです。
2022年9月4日 礼拝説教要旨
きょうどう-2022年 No.35 二つの自分
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
ローマの信徒への手紙 第7章15節
今日の御言葉は、使徒パウロが自分の告白と言う形で真実に生きようとして生き切れない人間の姿を恐ろしいまでにリアルに描き出したものです。この御言葉を通して私たちは自分自身の裸の姿が白日の下にさらされていると感じます。14節で「律法は霊的なものである」、神の霊にあらわされた神のきよい意思を表したものです。その律法が私たちに示されてもそれに従うことができません。私たちがいかに肉の人であることが浮き彫りにされます。律法が正しいものとわかっていても、人間は罪の力に支配され、律法の命じることをすることができないのです。
「わたしは、自分のしていることが分かりません」。自分が律法の示す正しいことに従いたいと思っているに、実際の生活はそれとは正反対の望まない悪、憎んでいることを行っているのです。それがなぜかわからないというのです。このような行動に人間をさせてしまうのは、人間の内に住みついている罪だとパウロは指摘します。人間が罪に乗っ取られて、生活の軌道を踏み外してしまいます。欲望などに突き動かされて自分を制御できないでいます。こうして神の掟に従って生きようとする思いと、それに対抗して生きようとする思いが激しくぶつかり、戦っています。この闘いの中で苦しむ私たち。キリストが私たちと共に闘ってくださるのです。
2022年8月28日(日) 礼拝説教要旨
きょうどう-2022年 No.34 罪を明らかにする律法
ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。
ローマの信徒への手紙 第7章4節
「律法」。それはモーセを通して与えられた神からの具体的な指示と教えです。イスラエルの社会の中で、人間のなすべき行動の原理として重んじられてきました。この律法があることによって、人間がどう生きたらよいか、何が間違ったことかを知ることができました。もしこの律法がなければ、何が正しいことかが分かりません。律法と言う基準がないならば、自分が間違っていてもそれに気づきません。律法を通して私たちは自分の罪を知るのです。
パウロは、7節で掟が「むさぼるな」と言わなければ、わたしはむさぼりを知らなかったと言います。私たちがこの「むさぼるな」という掟を知らなかったら、むさぼることが罪であると知らず、このむさぼる心が良くないとは思いません。「むさぼるな」と明確に戒めたのだから、むさぼりは罪です。このように、律法によらなければ、罪を本当に知ることはないのです。律法によって罪を知るのです。「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。」(4節)。人がむさぼるなという掟を聞いたとき、罪はこの掟によって機会を捕らえ、この掟によって罪は刺激され、むさぼる心が自分の中に湧きあがり、むさぼる行動に向かってしまいます。このように律法によって罪を知っても律法には救う力はありません。罪からの救いはキリストによるのです。