投稿者: matsuyama-allian
2022年10月30日 礼拝説教要旨
きょうどう-2022年 No.44 神のご計画
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
ローマの信徒への手紙 第8章28節
このみ言葉によって、希望を持てるようになったと言う人は多いのではないでしょうか。信仰を持っている者には、すべてが共に働いて益となるというのです。何事も思うようにならない世の中です。一時は、とても辛くてどうしてこんなことが起こるのかと理解できず苦しんでいたが、今になって見ると、あのことも意味があって恵みであることが分かったということがあります。そう解釈することは、自分の身勝手な説明だと思う人もあるかもしれません。
この言葉は、自分にとって都合の良いように解釈できる言葉に思えるかもしれませんが、実は、そう思う人間にとって便利な話ではなく、全く反対のことが言われているのです。人間が考えて都合のよいことを神が成就されることを言っているのではなく、神の御心の変わらないこと、神には揺るぐことのないご計画があって、それを変えることなく貫かれるということが、このみ言葉に示されている信仰です。それだからこそ、一切のことが私たちにとって益となることを確信できるのです。
「神を愛する 」とは、愛してくださる神を信頼することです。それは、神に望みをおき、神の御計画に信頼することです。苦難の中にも神に望みを置く者に、神は万事が益となるように働いてくださるのです。
2022年10月23日 礼拝説教要旨
きょうどう-2022年 No.43 聖霊のとりなし
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
ローマの信徒への手紙 第8章26節
御霊が弱い私たちを助けてくださるということは、信仰を持つ私たちにとってとてもありがたいことです。大変ありがたいことなのだと覚えておきたいのです。実は、私たちは弱いからです。この弱いと言う意味は、人間としての弱さ、肉体が弱くなり病気をするという弱さと共に、日々生きていく上で、なすべきことを知りつつも、行うことができない心の弱さ、信仰の弱さを持っている私たちです。本当は弱い者なのです。
パウロは非常に優れた信仰者ですが、よく自分の弱さを知っていた人です。彼は健康上の問題を抱えていましたので、それを除いていただきたいと祈ったのですが、その度に「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と神は答えられました。そこから彼は弱さをありがたく思うようになりました(Ⅱコリント12:5~9)。しかし、病気だけが弱さではありません。様々な弱さに悩むのです。ですから、私たちに信仰を与えてくださった御霊が弱さに苦しむ私たちを助けとなってくださることは大きな力です。
私たちはどう祈るべきかわからないものです。何が正しい祈りかわかりません。その私たちのために御霊がとりなしてくださることは感謝です。
2022年10月16日 礼拝説教要旨
きょうどう-2022年 No.42 神と共に生きる喜び
わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。 詩編 第16章8節
詩編16編は、神への信頼を歌っています。信仰のすばらしさを賛美しています。詩人は、自分を攻撃してくる人たちの脅威を感じ、神に自分の身を守ってくださいと必死に叫んでいます。私たちも、自分の置かれている状況にも日々危険が満ちていますから、この叫びを日々神に向かって信じて求めましょう。
8節で、詩人は「わたしは絶えず主に相対しています」と告白します。多くの人はいつも人を見て、誰かの顔色をうかがい、他の人の期待に添うような生き方をしがちです。しかし、この詩人は、「主」、自分を生かし支えてくださる神を信じ、この方を見て、主を前に置いてすべてのことを行い、主のご期待に添うようにと考えようとしています。
そうできるのは、「主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません」からです。主がわたしの右にいて支えてくださるからです。自分が主を見て、主が自分のそばにおられると意識しているのです。人は、自分の支えとなる人の眼差しを意識し、その期待に添おうとするのが常ですが、目に見える助け手の背後におられる方こそ、主です。その主の支えこそが、力強い支えですから、この支えを覚えて、主の前に自分が立たされていることを意識し、主に対する責任を果たす気持ちですべてのことを行いたいものです。そうするとき、神に支えられている喜びが生まれます。