2022年8月7日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.32 神に仕えるしもべ

知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。               

 ローマの信徒への手紙 第6章16節

 

もし私が誰か強い指導力のある人に、自分の思いも心も献げて合わせていくなら、私はその人の奴隷となり、何もかも服従していくでしょう。パウロは、この「奴隷」の例を上げて、私たちが、罪を主人として罪の奴隷となって死に至るか、神を主人として仕える奴隷になっていのちに至るか、どちらかだと言うのです。

私たちは、自分が奴隷であるとは思っていませんが、でも、気づかない内に、以前は罪の奴隷でした。罪の求めるままに引きずられていたのです。しかし、イエス・キリストの救いにあずかって、罪の奴隷から解放して頂きました。しかし、何でもしても良い自由になったのではありませんが、新しい主人である神さまの奴隷となるために自由を頂いています。神に従順に仕えるしもべとなったのです。

私たちは今、罪に引きずられているのでしょうか。そうであれば、キリストの救いを頂き、罪から解放して頂きましょう。恵みのもとに生かされていたいものです。その中で、神に従うしもべとされて、義、救いを頂きたいものです。恵みのもとにあることを感謝し神に従っていきましょう。

2022年7月31日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.31 自分を神に献げる

従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 

ロ-マの信徒への手紙 第6章12節

 

神を信じ、キリストの恵みによって救いを頂いた私たちですが、その後、どう生きるべきなのでしょうか。パウロはこのことをローマ書6章で問いかけています。これは、私たちがキリストを信じて洗礼を受けた後、どう生きるべきかという問いです。

その答えが、1~11節まで記されてきましたが、それを要約するならば、キリストの成し遂げられた十字架と復活の御業によって、私たち信じる者も、キリストとともに死んだ者とされるのです。それゆえ、罪に対して死んだ者とされ、神に対してキリストと共に生きる者とされているのです。そのような恵みを頂いているのだから、罪の中にとどまっているべきではないというのです。そのような恵みを頂いていると認めなさい、そういう立場を、私たちは頂いているのです。

では、この恵みの事実を、私たちは自分の生活の中でどう生かしていくべきなのでしょうか、それが12~14節にパウロは明らかにします。私たちの体を罪に支配させてはいけない。それは罪が私たちを支配するなら罪の欲望に従うことになるからです。罪の欲望が体の中に残っています。罪の支配を止めなければなりません。ではどうするか。神様に信頼して、自分を神様にささげてしまうようにと、勧められています。

 

2022年7月24日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.30 神に対して生きる

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。         

ローマの信徒への手紙 第6章6節

 

罪を赦された後、私たちは、どのように罪から聖められるのでしょうか。

キリストが私たち人間の罪を背負って十字架に死なれたとき、私たちのために死んでくださったのです。それを信じるとき、私も十字架で死んだ者とみなされ、私たちの罪が赦されました。そして、神の御力によってキリストが死から復活されました。その復活を私たちのためと信じる時、私たちも復活の命に生かされるのです。この恵みによって私たちも救われ、生かされるのです。

その救いの御業について、パウロは、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」と説明します。この「古い自分」とは、罪と死の支配下にある人間性のことです。私たちは生まれながら一人残らずそのような人間でした。そのような古い自分が、キリストが私たちを罪から救い出すために十字架にかかって救いの御業をなさったと信じる時、キリストに結び合わされて十字架につけられ死んだ者とみなされるのです。私たち自身は十字架で死んだわけではありませんが、キリストの成し遂げられた御業のゆえに罪の力から解放されるのです。そして、キリストが神の力によって復活され生きておられるので、私たちも生きるのです。

2022年7月17日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.29  新しい命に生きる

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。          

ローマの信徒への手紙 第6章4節

 

主イエス・キリストが、私たちの代わりに十字架で命を犠牲にして私たちの罪の罰を受けてくださいました。この救いを私のためだと信じ受け入れる時、私の罪が赦されるのです。私の罪が赦されるということは、罪に対して死んだということです。罪の支配から解放されたのです。

罪に対して死んだ私たちであるということは、どういうことか、洗礼という礼典の意味を知ることによって理解してほしいというのです。

洗礼は、元々は全身を水の中に沈める礼典です。キリストが十字架にかかって私たちの罪を背負って死んでくださったことを信じて、水の中に身を沈めるとき、信仰によってキリストの死の中に引き入れられ、私も死んだものとみなしていただけるのです。今までの自分が葬られ、古い自分はキリストに結び合わされて死ぬのです。キリストは神の御力によって死より復活されました。それゆえこのキリストを信じて、水から上げられるとき、信仰によってキリストと共に新しく生まれ変わった自分になるのです。罪の身が死んで、新しい人間として生きるのです。キリストを信じて洗礼を受ける時、私たちはキリストと共に生きるようにされるのです。