2022年8月14日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.33 聖なる生活の実を結ぶ

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
                          ローマの信徒への手紙 第6章22節

イエスを信じる以前の私たちは、罪に仕える奴隷でした。しかし、神が私たちを救うために現わしてくださった救いを知り、信じた時から、罪から解放され、神に仕えるしもべとなりました。
22節で「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり」ましたとパウロは教えています。キリストの救いを知って受け入れた私たちは、罪から解放され、神につながる、神に仕える者とされています。
しかし、どうでしょうか。キリストを信じているのですが、日々の生活の中で、罪に引きずられて罪の奴隷になっていること      はないでしょうか。どうして救われてもなお罪を犯してしまうのでしょうか。でも、神様は、信じる私たちを、もうすでに罪の奴隷から解放し、神に仕える奴隷となっていると見て、守っていてくださるのです。この恵みの中にありますから、自分が、キリストによって救われ神の奴隷とされていることを十分に自覚するようにというのです。自分を神の奴隷とされていると認めていくとき、聖なる生活の実を結んでいくのです。「聖なる生活」は、きよめ、聖化のことです。神の奴隷として歩むとき、神は私たちをきよめへと導いてくださるのです。自分を神のために生きるよう献げ、きよめて頂こう。

2022年8月7日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.32 神に仕えるしもべ

知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。               

 ローマの信徒への手紙 第6章16節

 

もし私が誰か強い指導力のある人に、自分の思いも心も献げて合わせていくなら、私はその人の奴隷となり、何もかも服従していくでしょう。パウロは、この「奴隷」の例を上げて、私たちが、罪を主人として罪の奴隷となって死に至るか、神を主人として仕える奴隷になっていのちに至るか、どちらかだと言うのです。

私たちは、自分が奴隷であるとは思っていませんが、でも、気づかない内に、以前は罪の奴隷でした。罪の求めるままに引きずられていたのです。しかし、イエス・キリストの救いにあずかって、罪の奴隷から解放して頂きました。しかし、何でもしても良い自由になったのではありませんが、新しい主人である神さまの奴隷となるために自由を頂いています。神に従順に仕えるしもべとなったのです。

私たちは今、罪に引きずられているのでしょうか。そうであれば、キリストの救いを頂き、罪から解放して頂きましょう。恵みのもとに生かされていたいものです。その中で、神に従うしもべとされて、義、救いを頂きたいものです。恵みのもとにあることを感謝し神に従っていきましょう。

2022年7月31日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.31 自分を神に献げる

従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 

ロ-マの信徒への手紙 第6章12節

 

神を信じ、キリストの恵みによって救いを頂いた私たちですが、その後、どう生きるべきなのでしょうか。パウロはこのことをローマ書6章で問いかけています。これは、私たちがキリストを信じて洗礼を受けた後、どう生きるべきかという問いです。

その答えが、1~11節まで記されてきましたが、それを要約するならば、キリストの成し遂げられた十字架と復活の御業によって、私たち信じる者も、キリストとともに死んだ者とされるのです。それゆえ、罪に対して死んだ者とされ、神に対してキリストと共に生きる者とされているのです。そのような恵みを頂いているのだから、罪の中にとどまっているべきではないというのです。そのような恵みを頂いていると認めなさい、そういう立場を、私たちは頂いているのです。

では、この恵みの事実を、私たちは自分の生活の中でどう生かしていくべきなのでしょうか、それが12~14節にパウロは明らかにします。私たちの体を罪に支配させてはいけない。それは罪が私たちを支配するなら罪の欲望に従うことになるからです。罪の欲望が体の中に残っています。罪の支配を止めなければなりません。ではどうするか。神様に信頼して、自分を神様にささげてしまうようにと、勧められています。