2023年9月3日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.36  できると信じるのか

  イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。          

                          マタイによる福音書 第9章28節

 

イエスとはどんなお方でしょうか。当時の人々は、イエスをどのように見ていたのでしょうか。

二人の盲人が、イエスが自分たちの近くを通りかかったと聞いて、大声で叫んで「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらイエスについて来たのです。周りに多くの人は取り巻いてにぎやかだったのでしょう。そんな状況で、イエスに目を留めてもらおうと大声を出して呼びかけたのです。「ダビデの子」。当時のユダヤ人はダビデ王の家系から解放者が出るとの約束を信じて現れを待っていました。この盲人たちは、イエスこそ、来るべきメシア・まことの救い主だと信じて叫んだのです。神の憐みを自分たちに注いでくださいと求めたのです。大声を出しながらイエスの後についていきました。

イエスはすぐには応えられません。イエスは何も応えられないまま、家の中に入られました。この二人はあきらめないで、イエスのそばに行きました。イエスは「わたしにできると信じるのか」と問われました。彼らに信仰を問われたのです。その問いに彼らは「はい、主よ」と答え、イエスを神の救い主と信じ、イエスが自分たちを救うことができると信じたのです。その信仰のとおりに目が見えるようになったのです。た

2023年8月27日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.35  絶望からの救い

  イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。          

マタイによる福音書 第9章16節

 

今日の箇所に登場する人物の一人は、十二年間も患って出血が続いている女性でした。マルコによる福音書5章によれば、彼女はその病気のために多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであったのでした。祭儀的に不浄とされた病気であり、ユダヤ社会から疎外されていました。

彼女はイエスのうわさを聞いて群衆の中に紛れ込み、誰にも気づかれないように、後ろからイエスの服に触れたのです。それは「この方の服に触れさせすれば治してもらえる」と思ったからです。すると、彼女は病気がいやされたと感じたのです。

同時に、イエスも、自分の内から力が出て行ったことに気づかれ、群衆を振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われて、触れた者を探し始められました。そのように探されるイエスの姿に、彼女は恐ろしくなり、進み出てすべてをありのまま打ち明けたのです。

イエスはそれを聞かれ、彼女が、自分の苦しみを救ってもらおうとイエスを本当に信じて触ったと認められ、「あなたの信仰があなたを救った」とその信仰を励まされました。私たちも、自分の苦しみから救って頂くために、イエスを信じて求めていきましょう。

2023年8月20日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.34 新しい生活

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。
                            マタイによる福音書 第9章16節

 

「わたしに従ってきなさい」との主イエスの招きに従って弟子となった人たちは、どんな生活をするようになったのでしょうか。
洗礼者ヨハネの弟子たちが、主イエスのもとに来て断食について質問しました。「ヨハネの弟子たちもユダヤ人たちもよく断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか」(14節)と。
当時のユダヤ人たちは年1回7月の贖罪日には苦行として断食をしていました。断食とは罪を自覚し神の憐みを求めてへりくだって祈ることです。しかし、いつの間にか形式化し、律法化し断食を誇り、やつれた顔をして過ごしていたのです。
主イエスはたとえを持ってお答えになりました。第一は婚礼の客のたとえです。婚礼の客は、喜びに招かれた者たちです。花婿と花嫁の婚礼を喜ぶ食事の席です。そこに連なっている間は喜ぶのが当然です。暗い顔はできません。そのように主イエスに従う者の生活は喜びの生活です。主イエスによって罪を赦され、救い出された喜びの中に生かされています。第二は、真新しい布切れと古い着物のたとえです。古い着物の継ぎ当てに、新しい布切れを当てると周囲から傷みがひどくなります。古いユダヤ教の生活を捨て、主イエスの教えによる新しい生活を行う。

2023年8月13日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.33  罪びとを招くイエス

 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」    

              マタイによる福音書 第9章13節

 

医者を必要とするのは丈夫な人ではありません。健康な人は、自分の体を医者に診察と治療をしてもらう必要はないと思っています。医者を必要とするのは、自分には病気であると気づく人です。

主イエスは、自分は大丈夫だ、身を清く保とうとして神の前に正しくあろうとしているファリサイ派の人たちこそ、霊的な医者が必要だと言われたのです。しかし、彼らファリサイ派の人たちは、自分に医者が必要だと気づいていなかったのです。なぜなら彼らは、聖書に従って聖なる者となろうとして、罪人と交わらないように努力していたからです。

主イエスは、彼らに「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」という言葉の意味を学べと言われました。これは旧約聖書ホセア書6:6の70人訳の言葉です。その意味は神に対する真実な心こそ神の御心に適うことだというのです。ファリサイ派の人々の関心は祭儀的に身を清く保つことでしたが、神の望まれるのは憐みです。主イエスはまさにその憐みを注ぐために地上に来られたのです。

自分は大丈夫、医者はいらないと言えるでしょうか。私たちには罪があり罪人です。この罪人を招き救うために主イエスは来られたのです。