2023年4月30日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.18  命のパンであるキリスト

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

                           ヨハネによる福音書第6章35節

 

主イエスの語られた「わたしが命のパンである」という言い方は、何とも大胆な言い方ではないでしょうか。わたしが命のパンを与えると言われたのではありません。命のパンを用意しますと言われたのでもありません。わたしそのものが命のパンであると言われたのです。

パンと言うと、私たち人間の健康を保たせるために欠かせない食べ物です。主イエスはどういう意味でこう言われたのでしょうか。それは、ご自分が天の父なる神の独り子であり、その神から遣わされて人間となって共に歩んでいる者である。罪深い人間を救うために、神の御心に従って、神のいのちを与える者だという意味でこう言われたのです。

それに続く主イエスの言葉がとても重要なことになります。「わたしのもとにくる者」と言われました。その意味は「わたしを信じる者」と言うことと同じ意味です。心を込めて主イエスの御前に出ることであり、主イエスを信じることです。主イエスを信じ受け入れるとき、私たちは飢えることがなく、渇くことがないのです。私たちの日頃食べるパンは腹一杯食べてもいつか空腹になります。しかし、命のパンそのものである主イエスを私たちが信じる時、主イエスの命に満たされ、喜びと感謝をもって生きることができるのです。

2023年4月23日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.17  まさしくわたしだ

こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

                            ルカによる福音書第24章40節

 

先週、悲しみながらエマオに向かう二人の弟子に見知らぬ人(復活された主イエス)が一緒に歩かれて、旧約聖書全体からメシアの苦難と栄光を教えられ、復活の主ご自身を現されたので、彼らは、イエスが復活されたと信じたということを学びました。

喜んでエルサレムに引き返した彼らを含めて弟子たちが家の中で話し合っていた時、彼らの真ん中に主イエスが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。シャロームというあいさつの言葉というだけでなく、彼らに主イエスの平安をお与えになりました。

しかし、彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったのです。その彼らに対し、主イエスは「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。」(38,39節)と言って、ご自分の手と足をお見せになられました。主イエスの両手、両足には、十字架刑で傷ついた生々しい釘の傷跡があったことでしょう。それを見た弟子たちは、この方が間違いなくイエスと分かり喜びに溢れました。喜びのあまりまだ信じられずに不思議に思っていると、主イエスは彼らの目の前で、差し出された焼いた魚を食べられました。そのようにして主イエスはご自分が亡霊ではなく、からだをもって復活されたことを示してくださったのです。

2023年4月16日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.16 共に歩まれる復活の主

話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
                                                                                   ルカによる福音書第24章15節

 

二人の弟子がエルサレムから約11キロ離れたエマオという町に向かって歩きながら、最近起こった、イエスが十字架に付けられて、なくなられたことを話し合っていました。
その時、彼らのそばにいつのまにか、見知らぬ旅人が近づき、彼らと一緒に歩き始められたのです。実は、その旅人は主イエスでした。しかし、この時彼らの目が遮られていて主イエスだとは分からなかったのです。なぜ二人の弟子は主イエスが分からなかったのでしょうか。
主イエスが死んでしまわれたという深い悲しみのため、復活された主イエスが現れていたのに分からなかったのです。しかも、復活の主イエスのお姿があまりにも変貌していたからと考えられます。
旅人から、何を話しているのかを尋ねられて、彼らは主イエスが十字架に付けられて死なれたこと、その三日目の朝、墓に主イエスの遺体が見つからなかったこと、天使が現れて「イエスは生きておられる」と告げたが、彼らは主イエスが復活されたとは信じられなかったのです。なおも悲しみの中にありました。
その彼らの気持ちを知った主イエスは、聖書全体にわたってご自分について書いてあることを説明されたのです。そのとき、彼らの心は温められ、少しずつ心が開かれ、信じる者になっていったのです。

2023年4月9日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.15  復活なさったのだ

中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

ルカによる福音書第24章3、4節

 主イエスが十字架にかけられて死んでしまわれたことで絶望的な思いになっていた人たちがいました。それは主イエスについて来ていた女性の弟子たちでした。

彼女は週の初めの日、すなわち、日曜日の明け方早く、準備していた香油をもって主イエスの遺体が納めてある墓に行きました。せめて主イエスのお体に香油を塗ってさしあげたと思ったからです。

墓に近づくと、墓の入口が開いていたのです。思わず中をのぞくと、なんと、主イエスの遺体がどこにも見当たらないので、途方に暮れてしまいました。当然あるはずと思っていた主イエスのお身体がないのです。もうどうしてよいか、わからなくなって困ってしまいました。ますます悲しみがあふれたのです。

しかし、その彼女に大きな慰めと希望の光が輝いたのです。輝く衣を着た二人の人がそばに現れて「どうしてあなたがたは、イエスを捜すのに、まるで死んだ人を探すかのように探すのですか。」と語りかけてきました。イエスはもう死んでしまった、もういないと思っている彼女たちに、鋭く語りかける言葉でした。そして彼らは「ここにはおられない。復活なさったのだ。」と語りかけてきたのです。