2023年2月19日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.8  奇跡を行うキリスト

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。             

ルカによる福音書第9章16節

 

主イエスのなさった、五千人以上の人々に食べ物を与えられた奇跡は、4つの福音書すべてに記されているほど、記憶に残る奇跡です。

きっかけは、伝道旅行から帰って来た弟子たちを休ませるために、主イエスが彼らを連れて人里離れた場所に行かれ、それを知った群衆が後を追って来たことでした。その群衆の姿をご覧になられた主イエスは、喜んで迎え、彼らに神の国のことを教え、治療の必要な人々を癒されたのでした。そうこうするうちに日が傾きかけたので、弟子たちは、そばに来て主イエスに「解散させてください。彼らは自分で宿をとり食べ物を見つけるでしょう。」と進言したのです。

ところが、主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と思いがけないことを言われたのです。この言葉に弟子たちは、きっと自分でどうしたらよいか、切実に考えたことでしょう。そうして、自分たちには、こんな大勢の人々に食べさせる食べ物がないことに気づいたのです。五つのパンと二匹の魚しかないと告げたのでした。

すると、主イエスは弟子たちに群衆に組になって座るように指示され、主はこのパンと魚を取り、天を仰いで祈り、裂いて弟子たちに渡して配らせたら皆が満腹したのです。主は人々を養ってくださる方です。

2023年2月12日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.7  イエスのいやしのみわざ

イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。

ルカによる福音書第5章13節

 

いざ病気になってしまうと、何も考えられなくなり、しんどくなります。そうなった時、適切な医師の診断と治療を受けて、回復したということがあったでしょう。そうではなく、治りにくい病気にかかる場合もあります。不安を抱え、悩み続けていた時、家族や友人が心配して自分のことのように悩みを聞いてくれて、大きな慰めを受けたこともあったでしょう。そういう時こそ、私たちを造り、生かしてくださる神さまを覚えて、信じて助けを求めて祈ることができることは感謝なことです。

今日の箇所の重い皮膚病を患っていた人も、病気の故の苦しみや悩みを持っていたことでしょう。その病気は宗教的に汚れているとされ、人々から離れて宿営の外で生活をしなければなりませんでした。自分は汚れていると言って、人々を近づけないようにする規定に従わなければなりませんでした。その苦しみの中にあったこの人は、規定を破って自分からイエスに近づき、ひれ伏しきよめを求めました。「主よ、あなたのお心が私をきよくすると思ってくださるならば、あなたは私をきよくできます」と切にお願いしたのです。すると、その切実な願いにイエスは「わたしの心だ、きよくなれ」と彼をいやしてくださったのです。信じて願う時、イエスはその願いを聞いて助けてくださるお方なのです。

2023年2月5日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.6  御言葉を聞き、よく守る

 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

  ルカによる福音書第8章15節

 

主イエスは町や村を巡りながら、神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせました。その主イエスの語られる言葉を聞く人々の中には、色んな反応がありました。そのさまざまな反応を重ね合わせながら、主イエスは、種まきのたとえを語られたのです。このたとえを語られた締めくくりに主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。聞いてほしいという主イエスの強い願いがあったのです。

このたとえを語られた後、弟子たちが主イエスに近づき、このたとえの意味を尋ねました。その求めに応じて主イエスはこのたとえの意味を教えられたのです。「種は神の言葉である」。たとえで示された「種」とは、聞く人の心の中に信仰の実を結ぶことを願って神がイエスを通して語られる神の言葉なのです。いのちの言葉なのです。

主イエスが神の言葉を語ってくださっていても、それを聞く者に試練があったり、生活の思い煩いなどが起こって挫折してしまい信じ続けることができなくなる場合もあるのです。ですから、み言葉を聞く時には、よく聞き、しっかりと自分のものとして握りしめ、それを保ち続けることです。作物が実を結ぶよう、農夫はその成長を辛抱強く待ち続けます。そのようにみ言葉が実を結ぶように忍耐して聞き続けよう。今も神はイエスを通して神の言葉を伝えておられるからです。

2023年1月29日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.5  まことの礼拝

そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。             

ルカによる福音書第21章2、3節

主イエスの時代の礼拝というと、エルサレム神殿に行き、そこで供え物を持って礼拝をささげることでした。主イエスの目から見れば、問題の多い礼拝の姿があったのですが、その中に、信仰に立った礼拝者もいたのです。その一人に、主イエスは目を留められました。

神殿のさい銭箱の前で、金持ちたちが、献金を入れる様子を、主イエスはご覧になっていましたが、ある貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れるのを見て、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と言われたのです。その金額は、当時の労働賃金の64分の1ですから、わずかな金額です。

主イエスはどうしてそんなことを言われたのかというと、「この人は乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。生活費の全部とは、自分が生活するために必要なお金の全部ということです。それを全部、神にささげたのです。それは、彼女自身、これまで受けた神様の恵みに心からの感謝をしたいと思い、持ち合わせる全部をささげたのです。全部ささげても神様が満たしてくださると信じての行為です。このように自分自身を神にささげ、神にゆだねることは、私たちのなすべき礼拝です。そのような心を持ってささげたい。