カテゴリー: あゆみ
2012年4月1日 礼拝説教要旨
主題聖句 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、…」
マタイによる福音書21章5節
説教主題「あの方は復活された!」
シオンとはエルサレムにある丘の名前で、やがてエルサレムの別名のように使われるようになりました。「シオンの娘」とはエルサレムに住む人々のことです。「エルサレムの人々よ。約束されていた救いが成し遂げられ、完成します。王が入場されます。」と預言書が告げます。王がおいでになるという二重の鍵カッコはイザヤ書とゼカリヤ書を組合わせた言葉だと言われています。神の都エルサレムに王がお入りになる。その目的は苦難を受けられ、十字架にかかられるためです。英雄、偉人の殉教ではなく、王が苦しみを受けられる―その王もこの世のユダヤの王ではありません。神の御子です。しかも苦しんで死なれる御子がすべてのものの王なのです。
立て籠もっていた敵が、降参して城を明け渡すのなら、無抵抗ですんなりと入場できるでしょう。人間同士の争いではなく、神の御子は罪と戦われます。悪しき力が支配しているこの世界と戦い、王権を回復なさるのです。エルサレムはまさに罪が集約されている牙城と言えるでしょう。王の城を制圧すれば、支配者が交代することになります。その意味での戦いの場所は都の王宮でなければならないのです。
真の王の入城が過越祭中に、起こったことも意味があります。出エジプト以来「過越」は解放を意味します。エジプトで奴隷であった神の民が解放されました。しかし、罪からの解放は御子が十字架に掛かり、「犠牲の子羊」になってくださることによって起こるのです。
2012年3月25日 礼拝説教要旨
主題聖句「…彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、…」
フィリピ3章19節
説教主題「おのが腹を神とするな」
上記のすぐ前の18節では「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」とありました。これは信仰者の話です。信者が十字架に敵対することなどあり得るだろうかと思います。口では十字架は大切だと言うでしょう。しかし十字架に対する信頼が体の芯にまで染みこんで、深く根を下ろしていない。生活の仕方は十字架の救いを蔑ろにし、無視するものとなっているのです。「多い」と言われると私たちの心が痛みます。自分もその中に含まれるからです。十字架がなくてもいいとは思わないでしょうが、十字架だけでは何か足りない。他の者で補わなければならないと考えるのです。
十字架よりも自分で自分の救いを何とか出来ると考えるなら、その行き着くところは滅び以外の何ものでもありません。
面白い表現があります。十字架を受け入れない者の正体は「腹を神とする」なのです。腹が神とは妙です。腹は「自分の腹」のことでしょう。結局、自分が神となっています。十戒で〝真の神以外のものを神とするな!〟と命令されています。つまり偶像礼拝に陥っているのです。おもしろがってなどおれません。事態は深刻で、このような救いを蔑ろにする人間の姿が現れてきました。
十字架に背くと偶像礼拝や迷信に陥ります。しかし、そこから救うために十字架が私たちをズッシリと支えるのです。腹を神とする罪人を滅ぼさないで、救ってくださる。それが〝腹〟でない真の神なのです。
2012年3月18日 礼拝説教要旨
主題聖句 「…今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」
フィリピ3章18節
説教主題「十字架に敵対するな」
パウロには激情的な面もありました。しかし激情にかられ、冷静な判断を失ってしまうことは無かったはずです。そのパウロが「涙ながらに」訴えようとするのですから、これから述べるのは信仰者にとってよほど重要な内容に違いありません。
「キリストの十字架に敵対して歩む」人々とは どのような人たちのことでしょうか。フィリピのキリスト者たちにパウロはこの手紙を書いています。十字架への敵対者が別の宗教や福音と異なる教えを信奉している人々とは考えにくいのです。福音によって生かされているはずの人々、つまり教会の信仰者たちの中にこのような人々が多くいるというのです。果たしてそのようなことがあるのでしょうか?
キリスト者であれば、誰でも「主イエスの十字架による救いの恵みによって生きる」はずです。それは今更ながら、涙ながらに重要性を強調しなければならないとは思えません。ところが根本的なところは意外と盲点ですっぽり欠落してしまうものです。その人たちは口でキリストの十字架はいらないとまでは言わないでしょう。しかし、その人の生活ぶりを見ていると十字架はいらないと言っているのと同じで、それが「十字架に敵対している」ことなのです。キリストの救いは半分くらいは有効だけれど、残りの足りない部分を自分の良い行いで埋め合わせてあげなければならないと考えます。それは誤りです。
「キリストによる救いこそ、すべて!」パウロはこれに徹するのです。