2012年4月29日 連載(きょうどうNo.18)

「失われた息子(二人の息子)の譬え」の連載を今回は都合で休みます。因みに前回は今年1月29日の週報が第9回でした。

 

ニコデモについての黙想:ヨハネによる福音書第3章1~16節
主イエスがニコデモに言われた言葉…「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 

新約聖書の中に、主イエスともう一人の人とが言葉を交わす場面があります。内容も興味深いものが多いのです。ヨハネ福音書第3章に登場するニコデモに主イエスはいきなりズバッと核心部分を語られました。それに対してニコデモは「人が新しく生まれる、あるいは生まれ変わるなんて合点が行かない」と正直に反応します。「自分も過去を清算して、すべてをやり直したい。できることならそうしたい。でも実際には、いくらそんなことを願ったとしても誰も出来はしないじゃないか。」ニコデモが〝とんちんかん〟な答えをしていると軽々しく非難することはできません。意識するとしないとに関わらず、だれもが共通に持っている考えだと思います。本当は言いたいのだけれど、言えないことを私に代わってよく言ってくれたとニコデモさんに感謝したくなります。
これに対して主イエスは「誰でも水と霊とによって生まれなければ…」と言われました。教会で洗礼を受けることを思い浮かべます。水の中に全身を浸すと同時に神の霊が注がれる。洗礼において人間を全く新しく造り変える神の力が働かれるのです。(今回読み切り)

2012年4月22日 礼拝説教要旨

主題聖句 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


ヨハネによる福音書20章29節

説教主題「あなたがたを つかわす」

 弟子たちのところに復活の主が来られた時、トマスはその場におりませんでした。甦りが信じられず、人を避けてあちらこちらさ迷い歩いていたのではないかと思います。そのトマスが8日の後には再び仲間のところに帰ってきました。トマスとイスカリオテのユダ以外の十人は復活の主イエスにお目にかかり、すでに信じています。そこに帰って来たのは、トマス自身も受け入れようという気持ちになっていたのでしょう。

弟子たちの集まりの中に主イエスは来てくださいました。手の釘跡、脇腹の槍の跡に指や手を突っ込んでみなければ信じないとトマスは言い張りました。そのトマスに向かってまっしぐらに進み、「あなたの主張している通りにしてごらん!」と主は言われました。そのあとトマスが実際に手を入れたかどうかは書いてありません。トマスの目の前に主イエスはいらっしゃいます。またそのように声をかけていただくだけで十分だったのでしょう。8日前、「決して信じない」などと息巻いていたことが恥ずかしくなっていたのかもしれません。そしていろいろな思いを「わたしの主、わたしの神よ」という信仰を言い表す短い言葉に込めました。もはや自分の目の確かさや指や手の感触の確かさなどではなく、目の前におられる甦りの主イエス・キリストだけが信じられると分かったのです。信じられなかったトマスが信じる者に変えられました。主イエスが熱意をもって主は近づいてゆかれたからこそそうなったのです。そのためにどれほど深く祈っておられたことでしょうか。

2012年4月15日 礼拝説教要旨

 

主題聖句 「11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。」  

マルコによる福音書16章14節

 

説教主題「新しい言葉を」

 香油を塗るためにお墓に行ったマグダラのマリアたちも、主イエスが新しい体によみがえられ、墓を後にされるのを見たわけではありません。天使と思われる白い長い衣を着た若者が、主イエスが復活されたことを告げ、空っぽの墓を「さあ、ご覧なさい!」と示しただけです。おそらく主の体がなかったのでしょう。しかしこのマリアをはじめとする婦人たちはただ恐ろしがるばかりで、天使から「男の弟子たちに甦られたことを知らせよ」と言われていたのに、だれにも話をしませんでした。

 そのマリアに主イエスはまずご自身をあらわされたのです。私たちが「復活」と聞くと、何か信じられる証拠はないかと探し始めます。空っぽの墓も間接的な証拠にはなるかもしれません。しかし「誰かが盗んだのだ」と反論されればそれでおしまいです。

 恐怖のために沈黙を守っていたマリアに復活の主は近づき、呼びかけ、語りかけて、ご自分を現わされます。そうすることによって初めてマリアは信じることができました。マリアが信じられる証拠を集めて、いろいろ検討し、その結果、初めて納得したというのではありません。死んだ人が蘇生する〝世にも珍しい不思議な出来事″を無理に受け入れることとも違います。マリアはかつて主イエスによって7つの悪霊を追い出してもらいました。窮地を救ってくださったお方の甦りだからこそ、恵みの事実として喜んで受け止め、感謝したのです。


2012年4月8日 礼拝説教要旨 

主題聖句  「さあ、行って弟子たちとペテロに告げなさい。『あのかたは、あなたがたよ  り先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』と。」

マルコ福音書第16章7節

説教主題「あの方は復活された」

 下線の部分を私なりにもっと丁寧に訳しますと「そして、あのペテロにもまた」となります。これまで、ペテロは12弟子の中で代表格のように扱われてきました。名前が出てくるときは、たいてい真っ先です。いわゆる「筆頭」の弟子でした。ところが、この箇所では、弟子たちとは区別され、末尾に名前が添えられています。

ペテロは3度も(つまり徹底的に)主イエスの弟子であることを否定しました。もう主に顔向けができないと思ったことでしょう。主が十字架の上で苦しまれることは自分の責任のように感じて、いたたまれなかったでしょう。いくら主イエスが復活なさったからといって、おいそれと自分の方から近づくことはできません。

穴があったら入りたいと気後れしているペテロが、負担に感じることなく、スーと主のもとに帰ってこられるように、主イエスの方から呼びかけられました。主のきめ細やかな愛情が感じられます。「ペテロよ、もちろん、君も、ちゃんとメンバーの中に入っているよ。君は大切な人なのだ。さあいらっしゃい。」しかもちっとも押し付けがましくありません。他の弟子たちとは区別し、最後にさりげなく、そっと名前を置かれたのでした。名前の順序を聞いて、ペテロは随分と気が楽になったことでしょう。また、自分のことを深く配慮してくださる主のご愛をもったいなく心から感謝したのです。だからこそ、再び復活の主にお目にかかり、立ち直ることができたのです。