カテゴリー: あゆみ
2012年4月15日 礼拝説教要旨
主題聖句 「11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。」
マルコによる福音書16章14節
説教主題「新しい言葉を」
香油を塗るためにお墓に行ったマグダラのマリアたちも、主イエスが新しい体によみがえられ、墓を後にされるのを見たわけではありません。天使と思われる白い長い衣を着た若者が、主イエスが復活されたことを告げ、空っぽの墓を「さあ、ご覧なさい!」と示しただけです。おそらく主の体がなかったのでしょう。しかしこのマリアをはじめとする婦人たちはただ恐ろしがるばかりで、天使から「男の弟子たちに甦られたことを知らせよ」と言われていたのに、だれにも話をしませんでした。
そのマリアに主イエスはまずご自身をあらわされたのです。私たちが「復活」と聞くと、何か信じられる証拠はないかと探し始めます。空っぽの墓も間接的な証拠にはなるかもしれません。しかし「誰かが盗んだのだ」と反論されればそれでおしまいです。
恐怖のために沈黙を守っていたマリアに復活の主は近づき、呼びかけ、語りかけて、ご自分を現わされます。そうすることによって初めてマリアは信じることができました。マリアが信じられる証拠を集めて、いろいろ検討し、その結果、初めて納得したというのではありません。死んだ人が蘇生する〝世にも珍しい不思議な出来事″を無理に受け入れることとも違います。マリアはかつて主イエスによって7つの悪霊を追い出してもらいました。窮地を救ってくださったお方の甦りだからこそ、恵みの事実として喜んで受け止め、感謝したのです。
2012年4月8日 礼拝説教要旨
主題聖句 「さあ、行って弟子たちとペテロに告げなさい。『あのかたは、あなたがたよ り先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』と。」
マルコ福音書第16章7節
説教主題「あの方は復活された」
下線の部分を私なりにもっと丁寧に訳しますと「そして、あのペテロにもまた」となります。これまで、ペテロは12弟子の中で代表格のように扱われてきました。名前が出てくるときは、たいてい真っ先です。いわゆる「筆頭」の弟子でした。ところが、この箇所では、弟子たちとは区別され、末尾に名前が添えられています。
ペテロは3度も(つまり徹底的に)主イエスの弟子であることを否定しました。もう主に顔向けができないと思ったことでしょう。主が十字架の上で苦しまれることは自分の責任のように感じて、いたたまれなかったでしょう。いくら主イエスが復活なさったからといって、おいそれと自分の方から近づくことはできません。
穴があったら入りたいと気後れしているペテロが、負担に感じることなく、スーと主のもとに帰ってこられるように、主イエスの方から呼びかけられました。主のきめ細やかな愛情が感じられます。「ペテロよ、もちろん、君も、ちゃんとメンバーの中に入っているよ。君は大切な人なのだ。さあいらっしゃい。」しかもちっとも押し付けがましくありません。他の弟子たちとは区別し、最後にさりげなく、そっと名前を置かれたのでした。名前の順序を聞いて、ペテロは随分と気が楽になったことでしょう。また、自分のことを深く配慮してくださる主のご愛をもったいなく心から感謝したのです。だからこそ、再び復活の主にお目にかかり、立ち直ることができたのです。
2012年4月1日 礼拝説教要旨
主題聖句 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、…」
マタイによる福音書21章5節
説教主題「あの方は復活された!」
シオンとはエルサレムにある丘の名前で、やがてエルサレムの別名のように使われるようになりました。「シオンの娘」とはエルサレムに住む人々のことです。「エルサレムの人々よ。約束されていた救いが成し遂げられ、完成します。王が入場されます。」と預言書が告げます。王がおいでになるという二重の鍵カッコはイザヤ書とゼカリヤ書を組合わせた言葉だと言われています。神の都エルサレムに王がお入りになる。その目的は苦難を受けられ、十字架にかかられるためです。英雄、偉人の殉教ではなく、王が苦しみを受けられる―その王もこの世のユダヤの王ではありません。神の御子です。しかも苦しんで死なれる御子がすべてのものの王なのです。
立て籠もっていた敵が、降参して城を明け渡すのなら、無抵抗ですんなりと入場できるでしょう。人間同士の争いではなく、神の御子は罪と戦われます。悪しき力が支配しているこの世界と戦い、王権を回復なさるのです。エルサレムはまさに罪が集約されている牙城と言えるでしょう。王の城を制圧すれば、支配者が交代することになります。その意味での戦いの場所は都の王宮でなければならないのです。
真の王の入城が過越祭中に、起こったことも意味があります。出エジプト以来「過越」は解放を意味します。エジプトで奴隷であった神の民が解放されました。しかし、罪からの解放は御子が十字架に掛かり、「犠牲の子羊」になってくださることによって起こるのです。