2014年1月5日 礼拝説教要旨

イエス・キリストの福音の初め

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第40章1-11節

マルコによる福音書 第1章1-8節

 

主題聖句:「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」            

マルコによる福音書第1章8節

                                    

第1章1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」はこの福音書全体の核心を短い言葉できちっと表現していると思います。「ナザレのイエスが神の子であり、救い主でいらっしゃる。この御方の十字架と復活とによって人々に救いがもたらされる。その救いが喜びの知らせである。その喜びのニュースをこの福音書で書いた」とマルコは言っているかのようです。福音書全体の内容が、一行にも満たない第1節の文節に込められているのです。

 

1章2節~8節にはイエス・キリストの道備えをするバプテスマのヨハネのことが書いてあります。この部分には、主イエスは直接、登場しておられません。イエス・キリストがおいでになる前の話ですね。するとここは“神の子イエス・キリストの福音”と関係のない部分なのでしょうか。そんなことはありません。この部分もバプテスマのヨハネが行う洗礼の行為や言葉によって“神の子イエス・キリストの福音”が証しされているのです。

 

「自分は屈んでこの方の靴の紐を解く値打ちもない」とヨハネは申します。…“人々に罪の赦しを与えるための水による洗礼をわたしは授けている。しかし、水による洗礼は罪の赦しを完全に与えるものではない。主のなさる聖霊による洗礼の準備段階に過ぎないのだ。”…自分のなすべき務めと役割とをヨハネは自覚しておりました。水による洗礼は、聖霊による洗礼の予備的なものに過ぎません。キリストの十字架による救いがあって始めて「罪の赦しを得させる悔い改めの水のバプテスマ」に実質が伴います。罪が赦されるためには、キリストのみ業と聖霊のお働きとが、どうしても必要なのです。

宮島聖会 (2013年8月20日-22日)

2013宮島聖会 写真imagesCA6DBPR1主題 「世の光として」

講師 内藤達郎師 生田嘉文師 

「今年の宮島聖会も豊かに祝されました。

皆さまのお祈りとご協力に心から感謝いたします。

                来年の聖会は会場を変えて、新たな方針で行います。」

イエスの福音 10月号より抜粋

2012年12月30日 礼拝説教要旨

「 シメオンの歌 」

 

政所邦明 牧師

 

ルカによる福音書 第2章22-35節

 

主題聖句:「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。」           

ルカによる福音書 第2章39節

                 

主イエス・キリストがお生まれになって40日目のことです。生まれた長男を神にささげるためにマリアとヨセフとは幼子をエルサレムの神殿に連れてゆきます。「当時の慣習に従っただけだ」と言えばそれまでです。しかし、初子は本来神のもので、「この子をあなたのご自由に使ってください」と神に申し上げたのです。これはイエス・キリストの場合は特別な意味を持ちました。神殿に連れてゆくとは、すべての人の罪を償う“いけにえ”として 神に献げることを意味します。実際には30年後の十字架において実現します。しかし、マリアとヨセフとはその事がどれだけわかって神殿詣をしたのでしょうか。おそらく十分には理解できていなかったはずです。

この赤ちゃんの行く末、担うべき使命を鋭く見抜いている人がいました。シメオンです。神の遣わされるキリスト(救い主)にお目にかかるまではけっして死なない。必ず生きている間に、救い主にお目にかかれるとの示し(お告げ)を受けておりました。シメオンは“霊”に導かれて 神殿に入ってきました。神の“霊”が初めから終わりまでシメオンと救い主イエス・キリストとの出会いを導きます。シメオンは“霊”によってこの赤ちゃんの先の先まで見せていただいたのでしょう。母マリアは将来悲しみのため、胸が張り裂けそうになる経験をすることになります。自分の醜さも含めた全人類の罪をこの赤子は担って救ってくださるとシメオンは見抜くことができたのでしょう。だからこそ、「キリストに出会った今こそ安らかに死ぬことができる」と言いました。その感謝を讃美歌にし、神をほめたたえたのです。