2014年9月21日 礼拝説教要旨

魂をあがなう主

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章1-6節

 

主題聖句:「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。」

 詩編第49編 16節   

                                 

今日は主のみもとに召された方々を記念して礼拝をささげております。「後世への最大遺物」という講演の中で、内村鑑三は〝勇ましく高尚なる生涯〟こそ、後の時代に残すことのできる最高の遺産だと申しました。「この世は悪魔の支配ではなく、神の支配にある」…このことを信じる信仰こそが〝高尚な生涯〟を生み出す…と内村先生は言われます。

 

「自分たちは神のご支配のもとに生かされ、また支配のもとで死に、今もその支配のもとにある」と在天者の方々が語っておられるように感じます。

一度死んでしまうと、巨万の富を築いた人でも、その大金を積んだところで、死んだ自分の命を買い戻すことはできません。これが、詩編第49編が語るところです。その事実に反対する人はだれもいないでしょう。

 

死んだ者のゆく世界を聖書では〝陰府〟(よみ)と言います。そこにいる死人を羊に喩えると〝死〟が羊飼いになるでしょう。その世界では〝死〟がのさばり、死人たちをいつまでも自分のもとに縛り付けておけると豪語しています。〝陰府〟では死が絶対的権力者であるかのように思えるのです。

 

この詩では、私の身も魂もすべて神が救い、〝陰府〟から解放して下さると告白しています。主イエスが甦られる何百年も前に、わたしたちをも活かして下さる復活の力を予め知っているかのようです。死者を〝陰府〟の手から救い出して下さる神の力はキリストの甦りの中にあります。先輩方はその福音を聞き、「自分たちもやがて復活する!」と信じて召されました。その信仰に続くようにと記念礼拝において、私たちを励ましておられるのです。

2014年9月14日 礼拝説教要旨

新しいぶどう酒は新しい革袋に

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第2章18-22節

主題聖句:「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」

マルコによる福音書 第2章19節

多くの宗教において〝断食〟に類する苦行を求められることがあります。「普通以上の真面目な生活をしなければ、救われないし、しっかりした信仰生活を送っていることにはならない」と多くの人が考えます。
わたしたちの教派、教会で、〝断食〟を信者さんに強要することはありません。それは「花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」と言われた主イエスの言葉に根拠を置いているからでしょう。〝断食〟は救われるための絶対条件にはならないのです。
信仰生活を〝婚宴〟に主は譬えられました。花婿は主イエスさまです。私たちは客として披露宴に招かれています。その宴席に喜びが満ち溢れるのは、ごちそうが並べられ、余興で盛り上がるからではありません。それより花婿と一緒にいることが喜びの源なのです。この主イエスと私たちとの関係を抜きにして、信仰生活を考えることはできません。
〝断食〟など、宗教的に良い行いと考えられるものがあります。苦行、禁欲、修行などがそれに当たります。善行がイエス様との深いつながり作るなら、多いに奨励しなければなりません。しかし、〝断食〟がそのような絆を、果たして作ってくれるでしょうか?
「神の国はきた」といって主イエスは宣教を開始されました。重い皮膚病の人、徴税人、罪人との交わりにも積極的に入っていかれました。これらの人々は主イエスが一緒にいてくださるから嬉しいのです。禁欲の〝断食〟より、祝宴に譬えられる方が、この喜びをよく表しているではありませんか。

2014年8月31日 礼拝説教要旨

 

神の前にひとり立つ時

 

政所 邦明 牧師

 

創世記 第32章23-32節

主題聖句:「…何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。…『祝福してくださるまでは離しません。』」            

創世記 第32章25,27

                                    

双子として生まれたヤコブは、出産の時、先に生まれた兄エサウのカカトを掴んでおりました。これは、兄を押しのけ〝足を引っ張る〟その後のヤコブの生き方を象徴的に現しています。

ずる賢い手を使い、兄から長男の特権を譲り受け、目が薄くなった高齢の父イサクを騙します。兄になりすまして、長男だけが受けられる「祝福の祈り」をも奪ってしまったのです。「何もかも思い通りになった」とヤコブは思ったでしょう。ところが兄エサウの大変な恨みをかいます。そこで、身の危険を感じたヤコブは、伯父を頼って外国に逃げることになりました。

 

家畜を増やすことに才能を発揮し、羊や山羊をたくさん持つようになると、今度は伯父から妬まれます。ある時、「故郷に帰りなさい」とヤコブに神は言われました。兄の元を去ってから20年。長い歳月は経っても「兄さんはまだ怒っているだろうな」と思います。そこでおびただしい数の羊と山羊と贈り、兄の怒りをなだめようとします。しかし、そのような小細工では本当の〝和解〟は与えられないと気が付いたのでしょう。たった一人で、一晩必死に祈ります。聖書はそれを〝神との格闘〟と表現しました。足の筋を痛めしまうほど集中して祈ったようです。ホセア書ではヤコブは神に〝泣いて恵みを乞うた〟(第12章5節)とあります。兄の足を引っ張る生き方はヤコブの反逆でした。神の定められた次男の立場に満足できなかったのです。神と争い、神の顔をまともに見られなくなっていたヤコブが、神と〝顔と顔〟とを合わせ、そこからエサウに面と向かう勇気が与えられたのです。