2012年9月23日 礼拝説教要旨

 アーメン

 

政所邦明牧師

 

フィリピの信徒への手紙 第4章20節

 

主題聖句:「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、  

アーメン。」        

フィリピの信徒への手紙 第4章20節

         

 信仰をお持ちでない方も「アーメン」という言葉はおそらく聞かれたことがあると思います。わたしたちがキリスト者と分かると「あなたはアーメンか?」と聞かれます。そして、その人は胸の前で十字を切る真似をします。しかし、キリスト教の代名詞のように使われるこの「アーメン」は本当の意味をよく理解されていないのではないでしょうか。同じ宗教団体に属する者同士が、互いの気分を盛り上げるために使う“合言葉”と誤解されているなら、まことに残念なことです。

「アーメン」はもともと「本当です」とか「真実です」とかの意味です。祈りの最後に付けて、「真心からそのように信じ、同意する」気持ちを表します。しかし、それ以外に「アーメンである方、誠実で真実な証人…」(ヨハネの黙示録第3章14節)のように形容詞としての用い方もあります。アーメンである方とはイエス・キリストで、この御方こそご真実で、すべての人からほめたたえられるお方だと言うのです。「アーメン、ハレルヤ」と並べられる場合もあります。「ハレルヤ」と言うのが「神がほめたたえられますように!」という意味ですから、「アーメン」も同様に神を称える心を持って「そのとおり、みんなから讃美を受けられますように」との思いが込められます。イエス・キリストこそ真実なお方です。神は罪深い人間を救うために神の独り子を十字架におつけになる方法を取られました。そのなさりかたに、御子は心から「アーメン」と言って同意され、従われました。このようなご真実の故にキリストこそ「アーメン」、誠に信頼出来るお方なのです。

2012年9月16日 礼拝説教要旨

「 見えないものに目を注ぎ 」

 

政所邦明 牧師

コリントの信徒への手紙二 第4章16-18節

 

主題聖句:「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

コリントの信徒への手紙二 第4章19節 

        

 今日は主のもとに召された方々の写真を会堂に飾り、礼拝をしております。お一人お一人の人生を思い起こすと懐かしさがこみ上げて参ります。おそらく艱難の多いご生涯だったとはずです。しかし、信仰をお持ちだったので、その重荷に押しつぶされることなく、“ひとときの軽い艱難”と言うことができました。そもそも“軽い”とか“重い”とかは比較の問題で、「この地上で一生受ける艱難の重さは神の御前に立たせられる栄光に比べれば、遥かに軽い。」とパウロは言っています。苦闘している本人にとっては必死なので聞きようによっては腹が立ちます。しかし、「苦労してはいるがそれは大したことはないでしょう。我慢しなさい。」と無責任に気休めを言っているわけではありません。 ―神から必ず誉れをいただける。その栄光はどれほど価値があり、栄光に富んだものであるか― と語っているのです。

この重みのある永遠の神の栄光は目に見えません。信仰の目をもってしか、理解できないことです。今日、信仰の諸先輩方を偲ぶとき、キリストのためになぜ耐えて生きることができたか、重いのに軽いと感じられたか その秘密が分かるような気がいたします。これらの方々は「見えるものにではなく、見えないものに目を注がれ」たのです。 ―この地上で見えるものには限界がある。やがて消えてなくなることを知っておられた― だから見えるものにしがみつくことも、根拠にすることもされませんでした。永遠に存続する神の栄光だけを見つめて生きて来られたのです。

 

2012年8月21日-23日 日本アライアンス教団 宮島聖会

8月21日~23日に宮島国民宿舎杜の宿において宮島聖会が行われました。講師は大嶋博道先生と横山晋次先生でした。

大嶋博道師

日本フリーメソジスト教団

神戸ひよどり台教会・京都西教会牧師

日本フリーメソジスト教団前理事長

 

横山晋次師

日本アライアンス教団

庄原基督教会牧師

 

大嶋先生はお父様から親子2代に亘ってフリーメソジスト教団の牧師です。サンパウロ市で日系人伝道、社会人としての経験後神戸市郊外で開拓を伝道され、教会は急成長を遂げておられます。

今回は「み言葉の力」と題して、み言葉こそ今日の生活と同時に、

はるか将来をも照らす光であることを力強くアッピールされました。

横山先生は三原・庄原両協会で会堂建築の経験をお持ちです。誠実に仕える中で、み言葉は神の民として生きてゆく保証であることを語られました