2014年3月23日 礼拝説教要旨

共に歩んでくださる主イエス

政所 邦明 牧師

サムエル記上 第21章1-15節

マタイによる福音書 第12章3-4節

中心聖句:「普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で…主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。」                          サムエル記上  第21章7節

 サウルに妬まれてダビデは逃亡生活をしなければならなくなります。死から逃れるさすらいの旅の始まりです。食べ物も武器も持たず、一人で逃げました。ある書物の題に『自由から逃走』というのがあります。それをもじって言えば『死からの逃走』です。死に追いかけられるのが、わたしたちの共通の問題です。

ダビデが最初に立ち寄った先は、祭司アヒメレクのところでした。神に祈り、助けを求めるためです。死という最大の課題に向き合うときに、まず神に対する態度をきちっと整えないで、どうして立ち向かえるでしょうか。

 

礼拝の後にダビデは祭司にパンを求めます。神に供えられた後のお下がりのパンがあり、ダビデはそれに与りました。本当は普通のパンが欲しかったのだけれど、古くなったパンしかなかった、仕方がないので我慢したのでしょうか。そうではありません。ダビデにとって「お下がりしかない」のではなく、「供えのパン」こそ、どうしても必要だったのです。命を落としそうな厳しい戦いに、神から力と命とをいただかなくて、どうして勝ちぬくことができるでしょうか。もっともふさわしい物をこの時、神はダビデに用意しておられました。死を乗り越える命は神が与えられます。だからこそ、主イエスは、日ごとの糧を、神に祈れといわれたのです。

 

「ただなくてならならぬ食物でわたしを養ってください。」(箴言第30章8節口語訳)神から与えられる糧でなくて、どうして死を乗り越えることができるでしょうか。

2014年3月16日 礼拝説教要旨

  憎しみに勝つ道

政所 邦明 牧師

サムエル記上 18:1-16

ヨハネによる福音書 15章12-17節

 

中心聖句:「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。」

                                サムエル記上 第18章1節                                    

サウル王の息子ヨナタンとダビデとの友情をサムエル記はとても美しく描いています。その一方、サウル王はダビデを妬ましく思います。自分よりも華々しい武勲を立て、民衆から英雄のようにもてはやされるからです。“愛と憎しみ”いや“愛と妬み”の中でダビデが苦しみます。ダビデの姿は「人間」の普遍的な姿を表しているのではないでしょうか。“愛と妬み” に苦しまない人などひとりもおりません。理想的な友情も「嫉妬に狂う先王」に脅かされる苦しみもここには、描かれています。縄のようにある時は愛が、またある時は妬みが現れます。それがありのままの人間の姿なのでしょう。

 

愛と妬みとを抱え込んだ人間の歴史にイエス・キリストは入り込んでくださいました。「ダビデの子孫としてお生まれくださった」というのはその意味です。そのキリストは「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない」と言われました。ダビデとヨナタンとの友情は単なる好き嫌いを超えています。神が仲立ちとなり、契約を結んだと言われているのです。二人の愛は、キリストがわたしたちに与えてくださる契約を予め示しているのではないでしょうか。十字架を前にして最後の晩餐の時「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と主イエスは言われました。契約が結ばれるために十字架の犠牲がささげられました。キリストの赦しなくして、憎しみと妬みとに勝つ愛は与えられません。キリストの愛が妬みさえも乗り越えさせ、救ってくださるのです。