2012年12月2日 礼拝説教要旨

「 弟子を招く主イエス 」

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第1章16-20節

 

主題聖句:「イエスは、『わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう』と言われた。」  

 マルコによる福音書 第1章17節   

 

主イエスが宣教を開始されて最初になさったことは 「ついて来なさい」と弟子に呼びかけることでした。「召集」ということを考えますときに、それは選ぶ側に主体性があります。誰を選ぶかは選ぶ側の人次第でしょう。選ぶ方は強い意志で働きかけます。“グイッ”と引っぱり出す印象を持ちます。信仰を持つとは主イエスに弟子入りをすることです。「従うか、従わないか」は本人の決心次第という面も確かにあるでしょう。しかし、神の見ておられる視点からすれば「主イエス・キリストに捕らえられた。このキリストに呼びかけられた。」という面が強いのではないでしょうか。自分の力で信仰を持ったなどと言える人は誰もいません。導かれたのです。

旧約聖書の預言者は神からの “召命体験”を持っています。預言者エレミヤに対して神は次のように言われました。「母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ書第1章5節)。聖書ではこれに似たことは至る所で言われています。同じ箇所でエレミヤに「あなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。」と神は言われました。わたしたち信仰に入った者から言えば、「初めから終わりまで全部、実は神の御手のうちにおかれていたのだ」と言えるならどんなにすばらしいでしょうか。

“召命”とは 歩いていると突然人に後ろから呼び止められて、「ついて来なさい」と言われるのとあまり違わないように思えます。しかし、神が計画を立て、実行し、捉えてくださるのです。その選びは確かなのです。

2012年11月25日 礼拝説教要旨

「 歓迎されない主イエス 」

 

政所邦明牧師

 

ルカによる福音書 第4章20-30節

 

主題聖句:「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」

 ルカによる福音書 第4章18,19節 

                

主イエスが故郷ナザレの村の会堂で語られた説教を聞いていた人々は素直に感動したと思います。「わたしたちのよく知っている同じ村の大工ヨセフの息子が、これだけの説教ができる。たいしたものだ」と感心し、褒めたのです。しかしこの「ヨセフの子ではないか」という言葉は全く逆の面をも合わせ持っていました。―「優れた話をすると言ったって、よく知っているイエスの言葉にすぎないじゃないか。たかだか程度は知れている」― このように高をくくり、自分たちの経験の範囲内で主イエスの本質を捕らえようとしたのです。

このナザレの会堂で礼拝なさる前には、カファルナウムを始めとするガリラヤ地方のいろいろな町で宣教をされ、癒しの業をなさったようです。「ヨセフの子    ではないか」という言葉の中に、「この程度の説教ではまだ信頼できん。もっと奇跡を行え。他の町でできたのなら、それがまぐれ当たりじゃなくて、いつでもどこでもできることを示してみよ。」と要求し始めることを見抜いておられました。傲慢な話です。

しかし、主イエスがわたしたちにもたらしてくださる救いとは何かを本当に知らなければ、自分たちが気に入るまで、アッと言わせる奇跡を求めつづけることでしょう。それは自分本位で、見当違いの要求です。

キリストにおいて神がもたらそうとなさる救いは、ナザレの人々が考えてもみなかったものでした。十字架にかかり、私たちを罪からお救いになるのです。そのような救い主の来られるのを待つのが待降節なのです。

2012年11月18日 礼拝説教要旨

「ただ主に仕えよ」

 

政所 邦明牧師

 

ルカによる福音書 第4章16-30節

 

主題聖句:「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を…告げ、主の恵の年を告げるためである。」

ルカによる福音書 第4章18,19節 

                

「捕らわれている人に解放を…」とあります。わたしたちはいろいろなものに捕らわれます。何かに執着したり、こだわったりするのは心の中に引っかかるものがあるからでしょう。昆虫が蜘蛛の巣に捕らえられて身動きが取れなくなった状態になっている姿を思い浮かべます。わたしたちを縛るものはわたしたち自身の罪です。

主イエスは生まれ故郷のナザレの村の会堂で、安息日に説教をされました。その日に定められていたイザヤ書第61章のみ言葉が係の人によってまず朗読されます。そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言って語り始められます。その時、会堂にどのような響きがたったかを想像します。

この当時の世界では、王やその他の支配者は取り立てるばかりではなく、温情で年貢などの免除を告げることもあったはずです。おそらく伝令がやってきて喜びの知らせを読み上げたのでしょう。朗読者は読んでいくうちに内容がわかります。読む調子も自ずと弾んだのではないでしょうか。王の代理ですから威厳をもって、しかも喜んで読み、民衆は、聞いた瞬間「わぁー」と歓声を上げたかもしれません。

ナザレの会堂で イザヤの預言に基づいて、罪の捕らわれ、縛られている人間に「罪の赦し」を主イエスは宣言されました。その赦しが出来事として起こるのが礼拝の場です。イエス・キリストは「今日」と言われました。罪の赦しの宣言は今の教会の礼拝においても、時空を越えて起こるのです。