2015年3月1日 礼拝説教要旨

謙遜を身につけよ

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第5章 5-7節

 

主題聖句:「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい」              

(ペトロの手紙一 第55)

 

 2章は主人の身分にある人、奴隷の身分にある人、またそれぞれ家庭で夫と妻の立場にある人々への勧めでした。これは何もキリスト者だけに限ったことではなく、信仰を持たない人にも当てはまる倫理でしょう。

 

ところが5章に入りまして、まず長老たちへ勧めます。「神の羊の群れを牧しなさい。」(5:2)「羊の群れ」とは教会です。つまり教会内の秩序について扱っています。長老たち、すわなち、教会で指導的な立場にある人と若い人たち、すなわち信仰に入ってまだ日の浅い信者たちがお互いどのように接すればよいかペトロは薦めているのです。

 

長老たちは、自ら進んで、献身的に群れ全体の世話をするように求められます。この世で経験したことをたくさん蓄えているでしょう。しかし、世と世の欲の危うさと、信仰に立たないでこの世の知識に頼ったため、失敗に陥った体験も持っているかもしれません。先輩の信仰者たちにペトロが期待するのは、この世を愛するよりも神を愛して苦難を切り抜けた信仰を長老たちが後輩に伝えることなのです。

 

若者たちは自信過剰に陥り、年配者たちの信仰経験を軽く見る傾向にあります。「頑固で融通がきかない」と決めつけてしまいます。考えが浅はかなのです。教会での年長者と若い人とは互に謙遜になることを求められます。キリストが神であられたのに人となられたクリスマスに、キリスト者同士の謙遜の原点があるのです。

 

2015年2月22日 礼拝説教要旨

自らすすんで

政所 邦明 牧師

ペトロの手紙一  第5章1-2節

 

主題聖句:「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。…神に従って、自ら進んで世話をしなさい。」 

(ペトロの手紙一 第52) 

 ヨハネによる福音書第21章によれば、ティベリアス湖畔(ガリラヤ湖)で復活なさった主イエス・キリストはペトロに現れなさいます。そして、「わたしを愛するか」と3度も尋ねられるのです。3度聞かれたのでペトロは〝悲しくなった〟(21:17)とあります。「あなたを愛していることはご存知です」とペトロは答えました。3度愛するかと聞かれただけではなく、愛するのであれば、イエス様の羊を世話し、養うように3度も念を押されます。主イエスを愛するのと、このお方の羊たち、すなわち信仰者の群れ・教会の世話をすることとは切っても切れない関係にあると主が言われたのです。この出会いと会話は鮮烈にペトロの心の中に残り、その後の使徒ペトロの人生の目標を決定づけたことでしょう。その時のご命令を繰り返すように「神の羊を牧しなさい」と、仲間の長老たちに勧めます。

 

この課題は何もペトロひとりに限りません。教会の指導者全員に負わされたものです。信仰者はキリストの尊い血によって贖われた群れです。イエス・キリストによって罪赦され、救われました。この者は〝神の教会〟と呼ばれています。ペトロたち指導者のものでもありません。信仰者たちの勝手な思いから「自分たちのものだ」と主張することも許されません。

 

「キリストの支配と所有に入れた群れが教会である」と自覚すると、長老たちはどのように振る舞い、指導すべきかが自ずと見えてきます。キリストが望まれるように、キリストを信じる群れにふさわしく整えるのです。

2015年2月15日 礼拝説教要旨

自らすすんで

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第5章1-2節

 

主題聖句:「…わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人…として…」

(ペトロの手紙一 第51) 

 

 いよいよこの手紙も締めくくりの部分に入ってゆきます。2章3章では「奴隷と主人」「妻と夫」へのそれぞれの勧めがありました。そのような関係においてキリスト者はどう立ち振舞うかを勧めたのです。それぞれの立場の違いによって摩擦は生じるものです。信仰者であろうとなかろうと関係なく、どのような両者間の関係においても、起こりうるでしょう。

 

ところが第5章からは〝長老の一人として〟ペトロは勧め始めます。明らかに教会内の秩序についての教えです。直接の相手は教会の指導者である長老たちです。ペトロは自分のことを〝キリストの受難の証人〟と呼びました。それを聞くと「本当にそうかなあ?」と疑問を持たれるかもしれません。ペトロを始めとして11人の使徒たちは主イエスが十字架にかかられた時には蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったからです。

 

〝受難の証人〟とは十字架の場面に立ち会ったかどうかだけを指してはいないでしょう。ヨハネからの受洗、ガリラヤでの宣教、十字架にかかり、甦り、天に挙げられた…それらのすべての出来事をつぶさに証言できる人つまり―主のご受難と復活の証人―であるとペトロは言いたいのです。

 

威勢の言いことを言っておきながら、いざとなると3度も主イエスを知らないと否認し、逃げ去ったペトロです。そのペトロに復活の主は自ら現れ、立ち直らせてくださいました。裏切っても、弟子として呼ばれた時から、ペトロを〝苦難の証人〟にするつもりで神はおられたのです。